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11 邪をもって悪を退く(3)

 緑権の穏やかな真顔に、ふんわりと疑問が浮かんだ。 「謀児」  突然、犀星が口を開いた。その声は凪のようだ。  玲陽は息ひそめ、緑権は首を傾げ、紀宗は黙って立っていた。 「おまえの実力は、五亨庵の者ならばすべて知るところ。紀宗どのにも、陽を癒やすおまえの腕前、お見せしろ」  玲陽は目を閉じ、緑権は明るく笑顔を浮かべ、紀宗はいぶかしんだ。 「もちろんです! ちょうど、材料を仕入れてきたんですよ」  緑権は意気揚々と、荷物を解きにかかる。  わずかに緩んだ犀星の腕の中で、玲陽は息をした。  犀星の肌は汗ばみ、いまだ緊張にさらされているが、それでも、その目には何かの意志がある。 「謀児、陽に巣食う悪い気を、確かに払えるのだろうな?」  犀星は、紀宗を意識しつつ、あくまで緑権に話しかける。 「お任せください! その辺の連中より、結果を出して見せますとも!」  自信満々で、緑権は袖をまくった。紀宗がゆっくりと緑権を振り返る。いつもはぼんやりと無為無策に過ごしているこの文官が、今日はやけに生き生きとし、別人のようである。 「悪気を祓う、とな?」  紀宗は緑権を見つめた。 「容易いことではない。これほどに執拗なもの、命を絶つ以外に方法はない」 「ハァ?」  素っ頓狂な声を発し、緑権は首を傾げた。 「何、馬鹿なことをおっしゃってるんですか? これくらいで諦めたりなんてしませんよ。私なら、ちゃんと光理さまをお助けできます」 「まさか、わしにも出来ぬことを……」 「そりゃそうです。《《陰陽官じゃ》》無理です。せっかくですから、紀宗様も、しっかりとご覧くださいね」  にやりと笑い、緑権はずしりと重い木桶を厨房から抱えてきた。中には見事な赤黒い錦鯉が一尾。目はぎょろりと生きており、桶の中でぐるりと渦を描いて泳いでいる。  犀星はわずかに眉をひそめた。  どうせまた、八穣園の池からとってきたに違いない。 「この色、どうですか? いかにも効きそうでしょう?」  緑権は椅子と椅子の間に五段梯子を渡した。  玲陽は、その使い道が知れて少しホッとする。  梯子はそのまま、即席の広い調理台になった。砧を置き、そこにやたらと光沢のある包を三本、柄から布でぬぐって並べた。形から入る緑権が揃えた自慢の包である。横目に見ていた紀宗の肩が、かすかに震える。  紀宗の目には何もかもが、特殊な術の道具に思われてならない。  これは、何かの呪術刀か?  無意味な考察に、紀宗は翻弄され始めた。  黒い鯉は精力が強く、霊的にも高貴とされる。それゆえに扱いも難しいものだが……  緑権は黒鯉を取り出し、ぐっと押さえ込むと、干した蓬をつかんで鰓の中へと押し込んだ。手際が妙に良い。鯉は暴れ、水が散った。 「こうすることで、蓬の効能が鯉の肉に染み渡るんです」 「……!」  紀宗は小さく、ごくりと喉を鳴らした。  蓬は邪を取り払うにはよく用いられる素材である。大抵は乾燥させて焚き上げたり、周囲にまいたりなどで利用するが、まさか、このような扱い方があったとは、紀宗も知らぬことであった。  緑権は、何十にも布で包んでいた樽を開いた。中には、宮中のどこかで溶け残っていた雪が入っている。 「こうして、雪を使って水を冷やし、そこに鯉を入れて、失神させます」  鯉は時折、ヒレを震わせたが、それ以上暴れることはない。 「鯉の魂を体に繋ぎ止める秘術か……」  紀宗のつぶやきは、鼻歌まじりの緑権には聞こえていない。  持ち出した炉の上に鍋を載せると、紀宗の目の前に何やら黒いものを差し出した。 「紀宗様、これ、何かわかりますか?」  紀宗は、緑権の手のひらに乗る、丸いものに心当たりがなかった。 「こいつは、炭焼きにした梅の実です」  緑権は、にやりとした。 「梅には、腐敗を防ぐ力が込められているといいます。こいつを一緒に炭にくべて、ゆっくりと燻すんです。そうすると、鯉だけじゃなく、この空間にも防腐効果が満ちて、より効き目が高まります」  さすがこだわって調べただけのことはあって、緑権の説明は立板に水だ。  緑権は鍋の中に、蓬、紫蘇、陳皮をもみほぐしながら、少しずつ加えていく。  何が起きているのかわからない、と、紀宗はただ、奇妙な匂いを発しながらぐつぐつと沸き立ち始めた鍋を覗いた。  まるで、呪符や呪具に力を施すような厳粛さと気迫が立ち込めている。  緑権は楽しげに、二度手を打ち合わせた。  それすら、紀宗には別の意味に思われる。  緑権は満を持して、一本の包を手に取った。  もったいぶって何度か空を切り、それから、鍋の中の煮汁に浸す。温まった刃で、氷水の中の鯉を、ぶすりと突き刺した。血は、ほとんど出なかった。冷水で身がしまっている上、下ごしらえのために桶にはあらかじめ塩が入れられている。  だが、紀宗にはそれが妖しい術によるものと見えた。  犀星が、優しく、玲陽の背に手を置いた。ふたりの目が合う。  陽、出番だ。  玲陽は意図を察し、唇を引き結んで、恐る恐る振り返ると、鍋に近づいた。 「謀児様」  震える声で、呼びかける。 「どうぞ、私をお救いください」 「もちろんです!」  力強く、緑権は受けあった。 「私は……」  玲陽は一瞬、言い淀んでから、意を決して、 「死ななくても良いのですね」 「当然です! 光理様が死ぬ必要なんてありません。私の腕をお信じください!」 「おぬし……いつの間に」  ついに、紀宗は一歩後退った。その乾いた顔は、呆然と緑権に向けられている。  犀星がそっと玲陽の肩を抱き寄せた。  そうしながら、目線は紀宗に向ける。 「紀宗。そなたは優秀な陰陽官だ。だが、上には上がいるもの。謀児は、そなたより先に異変に気付き、こうして陽を生かしたまま救う道を見つけ、習得した。これも、五亨庵の意思。此度は、そなたの出る幕はない」  玲陽は思わず、体が震えた。  犀星の語り口調は冷静で、真剣、あまりにも堂々と嘘をつく。虚言ではあるが、しかし、見方によってはあながち嘘とも言えないところがまた、奇妙だった。  緑権はひたすら、料理に耽っている。  紀宗の目には、それが呪術の一端に見えている。 「そんでもって、鯰の心臓と肝臓も使います。こいつらを練り合わせて、そこに麹を加える。そして軽く炙って、ある呪文を伝えます」 「呪文だと……?」 「やはり、最後の仕上げは、心の有り様、ですから」 「そなた……かような術を……?」  ここにきて初めて、紀宗の声に感情が見えた。緑権が自信ありげに笑みを浮かべ、 「光理どのは、国家の要。私が五亨庵を救って見せます」  頼むぞ、緑権。  犀星は心の中で、ひたすらに祈った。  紀宗が細い目を精一杯に開いて緑権を見ている。満足そうに、緑権は玲陽に向かって料理を盛りつけながら、 「天陽を一匙に封じ、地陰を一椀に鎮め、これを受くる者の身魂と化しますよう。五気と五行を廻らせ、脈に満ち、骨に染み、香気を以て門を開き、滋味を以て魂を結び、邪を千里の外へ逐え」  明らかに異様な匂いのする料理を器に盛り付け、緑権は笑顔で玲陽に差し出した。 「さぁ、できた! これを一口食べればスッキリ、悪い気なんか全部流れる!」  玲陽は震える手で椀を受け取った。湯気とともに立ち上る醜悪な匂いに胸がむかつき、嘔吐感が沸き起こる。犀星が素早く、傍にあった空の桶を玲陽の口元に寄せた。朝から食べ過ぎて苦しかったところに、さらなる怪料理の追撃を受けて、玲陽はたまらず吐き戻した。犀星はそっと背中をさする。  目に涙を浮かべながら、断続的に嘔吐する玲陽を、紀宗は怯えた様子で見つめ、首を振った。 「どうやら、歌仙様のおっしゃる通りのようだ」  紀宗は後ろ向きに下がりつつ、犀星を見た。 「されど、歌仙様。御油断なさらぬよう。悪しきものはいつなんとき、力を増すやもしれませぬゆえ」 「いかなることがあろうとも、我が意志は変わらぬ」  ひたすら吐く玲陽、困った顔で固まる緑権、現実から目を背けたい紀宗。  そして、悠然と場を制する犀星の沈黙。  緑権の仕事をどこまで信じたかわからないが、紀宗はそれ以上の追及を避けて、五亨庵を足早に出て行った。  扉が閉まるのを見届けて、犀星はフッと緊張を解いた。 「謀児」 「え? あ、はい」  苦しむ玲陽を見ていた緑権は、不安そうに犀星を振り返った。  叱られる、と目を歪ませる。だが、犀星は笑っていた。 「よくやってくれた。さすがは五亨庵一の……食わせ者だ」  とくん、と玲陽の心臓が鳴る。  それは、あなたでしょう!  玲陽は最悪な体調と戦いながら、恨めしげに心で叫んだ。

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