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12 ひととき(1)

 秘府からの帰り道、慈圓は別の用事を済ませてから自宅に帰る、と、途中で東雨と別れた。戻っても、緑権の魚料理に付き合わされるだけだと踏んだのだろう。  東雨は魚の匂いに焼けた胸と、思わぬ蓮章の痴態に高ぶった体を抱えて、とぼとぼと五亨庵に戻ってきた。  彼の役目は常に犀星のそばにあることである。  近侍の役割は、主君の護衛だけではない。侍童の頃から務めた身の回りの世話も含め、そこに数々の重責が追加された。侍童があくまでも私的な使用人であるのに対し、近侍は公的な面が強い役職である。  犀星がどこに行くにも付き従うことが許される。むしろ、東雨を下がらせることは、犀星に対する非礼にすら当たる。誰よりも犀星を理解して意見を述べ、周囲に対しても毅然として振る舞う必要がある。  誰にも文句を言わせぬ、堂々たる腹心。それが近侍なのだ。犀星の警護は右近衛の仕事だが、その右近衛を差し置いてでも、東雨は最も身近にいることができる。むしろ犀星の警護計画に関して言えば、東雨にこそ指揮権がある。  自分がどんな立場に置かれたのか、初めの頃、東雨はよく理解していなかった。ただなんとなく侍童よりも年齢が上で、いつもそばにいられるのだという程度の把握だった。  だが、実際にはまるで違う。これは犀星の片腕も同じだった。今の彼は、あまりにも頼りない腕である。右近衛隊の訓練を見て、自分の至らなさを思い知った東雨だったが、持ち前の熱心さで前向きに考えようとした。慈圓に言われたように、自分にしかできないことをやるべきだ。  それは何か。  十年間そばに仕え、犀星の気性を誰より理解していることが、唯一、東雨の強みと言えた。  犀星と、彼が大切にする玲陽。この二人がいつも安らいだ心でいられるようにはかること、そのために力を尽くすことは、東雨の望みであり、同時に得意とするところだ。  決断すれば、彼の行動力は素晴らしい。  とにかく今は、犀星たちを苦しめる緑権をどうにかし、五亨庵に清浄な空気をもたらさねばならない。  いくら仕事とはいえ、玲陽が体調を崩すほどの張り切りぶりは、目に余る。任命した手前、犀星が何かを言うのは辛いだろう。ここは、自分の出番である。  東雨は気合を入れて、五亨庵の扉を開けた。 「ただいま、戻りました」  いつもより、おごそかに、東雨は言った。  五亨庵の空気が淀み、鼻につく匂いがわずかに残っている。  文句を行ってやろう、と意気込んで緑権を探すと、彼はすでにすっかり気持ちが落ち込み、何も言わずとも、暗い顔で厨房の片付けに入っていた。東雨は拍子抜けだ。  東雨の留守中に、ついに玲陽が体調を崩したらしい。鈍感な緑権にも、さすがに自分の害が理解できたようである。  間に合わなかった……  犀星の寝室でぐったりと休んでいた玲陽を覗いて、東雨はがっくりした。 「若様?」  玲陽のそばに寄り添っていた犀星に、声をひそめて、東雨は話しかけた。玲陽同様、真っ青な顔をした犀星が力なく振り返った。 「東雨、済まないが、今夜はこのまま、五亨庵に泊まろうと思う。陽の体調がすぐれなくて……」 「わかりました。すべて、お任せください」  東雨は自信を持って頷いた。 「若様は、陽様のお側に。これからのこと、俺が全部やりますから」  いつになく頼もしい東雨に、犀星はわずかに驚いたようだった。だが、すぐに安堵を浮かべる。そこには明らかに疲れが見えた。 「助かる」  その一言が何より嬉しく、東雨はにっこりと笑った。犀星の目が和む。  持ち前の機転と行動力で、東雨は手際よく動き始めた。  まずは、空気からだ。  東雨は中庭の扉を開け放った。  陽光に柔らかくほぐされた午後の春風が、待ちかねたように庵の中へ吹き込んでくる。それはわずかに若い草の匂いがした。風までが味方をしてくれているように思えて、東雨の胸が静かに高鳴った。  香を焚く代わりに、|薄荷《はっか》を細かくもんで皿に乗せ、風の道に何箇所も並べる。それだけで、空気が優しく澄んでいくようだ。  備蓄庫から褥や着替えを持ち出し、わかりやすいように中央の長榻に並べる。  厨房からさっさと緑権を追い出し、早々に家に帰す。残されていた食材で、体に優しい夕食の支度にとりかかる。  ちょうど、朱市で見つけてきた卵が役に立ちそうだ。  そしてもうひとつ、特別に花酒の用意もあった。  今夜は満月で天気もよい。  夜は庭で月見をしよう、と考えて買って来たものだ。屋敷でも五亨庵でもかまわない。  東雨は夕餉の支度を終えると、今度は裏庭に出た。  薪にする予定の大きな木片に、板を渡して簡易的な長榻をつくる。  緑権の席から勝手に毛氈を抱えてくると、匂いを払いながら板にかけた。その正面に小さな几案を用意し、素朴な麻色に縁を銀糸で細く飾った、静かな美しさのある布を敷いた。東雨がこっそり溜め込んでいる好みの布から選んだ一枚である。  見上げると、東の空の木々の枝に隠れて、ぼんやりと月の光の気配があった。  満月。  東雨は胸がいっぱいになった。  厨房に戻ると、盛り付けにかかる。  食器には、淡黄色の釉薬がかかった皿を選ぶ。湯呑みは白木の淡く、飲み口が特に丸いものを選んだ。  食の細い玲陽のために、少し小さめに丸めた粟団子を皿に乗せる。塩揉みして一口大に切った白蕪、中庭でとった菜の花の湯通し。  さらに、薄荷と陳皮で茶を煮出し、体に負担がない程度に冷ましておく。梅花酒の小瓶に盃がみっつ。犀星も玲陽も家では酒を口にしない。東雨も今まで試しに舐める程度だったが、今夜は雰囲気を味わいたかった。  急拵えとは思えない出来栄えだ。  支度がすべて整うと、東雨はそっと五亨庵を見回した。犀星がゆっくりと肩のあたりを揉みながら、部屋から出てくるところだった。全身から疲れが滲み、気だるそうである。出かけている間に、相当なことがあったらしい。  疲れているならお揉みしますよ、と言いたい気持ちを、東雨は止めた。間違いなく玲陽に睨まれるだろう。  東雨の気配を察して、犀星はすっと顎から振り返る。その仕草があまりにも綺麗で、東雨はドキリとする。  昼間、蓮章の艶姿を見せつけられたが、それと比べても自分の主人の方がはるかに美しいと、東雨は勝手に納得した。蓮章の美しさが棘のある長春花だとしたら、犀星のそれは雪の結晶である。 「若様」  自然と声をかけ、微笑みかけた。珍しく、犀星もそれに答えるように笑ってくれた。よほど疲れが重く、いつも張りつめている緊張が緩んでいるのかもしれない。  東雨は、犀星のそんな細やかな違いから気持ちを読み取ることができる。これが彼にしかできない近侍としてのあり方だ。 「若様、今夜は庭で夕餉にしましょう。涼しい風に吹かれた方が、陽様もお体が楽になると思います」  ちらっと玲陽の休んでいる部屋を見る。 「今日はここでお休みになって、明日の公務はなしにしましょう。玄草様たちには、連絡をしておきます」  東雨の申し出に、犀星はわずかに目を開いた。自分の弱さを受け止めてくれる配慮に感じ入る。犀星の指示を聞くより先に自分で判断し、最善と思われる予定を提案してきた。東雨の成長とその心根を嬉しく思う。 「確かに少し疲れた」  素直に犀星はその言葉に従った。  自分の案を犀星が受け入れてくれる。それは、東雨には心底嬉しいことだった。  今までは言われるままに動くだけの東雨だったが、これからは犀星の行動に口を出すことが許される。そして、それはすべて犀星のことを思えばこその意見である。  正しく適切に判断できるよう、自分を磨かなければと気持ちが引き締まる。犀星が心安くいるために最も重要なことを、東雨はちゃんと心得ている。  東雨は、玲陽が休んでいる部屋を覗いた。中には、優しい白檀の香りが漂っているが、匂いが色々と混ざっていて清々しさがない。白い顔で玲陽は、横向きにこちらに体を向け、両腕を胸のあたりで重ねて、静かに目を閉じていた。きれいだ。  また東雨は思った。犀星が氷の結晶だとしたら、玲陽はまるで夢のような美しさだ。はかなくて、朝日にすぐに消えてしまう霧のようにもろく、薄く揺れる。  若様が守りたくなるのもわかる……  東雨はそんなことを思いながら、玲陽の枕元に膝をついた。触れることはできないが、それでもじっと顔を覗いて、幸せな気持ちになる。 「陽様」  小さく呼びかけると、長いまつげが震えて、玲陽のまぶたが少しずつ上がった。琥珀の瞳がキラキラと自分を映す。五亨庵に差し込む暮れ方の光は、その瞳によく似合った。 「ご気分はいかがですか?」  できるだけ優しく柔らかく、東雨は尋ねた。犀星からは、食が祟った、とだけ聞いている。  東雨は首をかしげ、そっと玲陽を見た。 「お目覚めですか、《《兄様》》」  冗談めかして東雨がそう言うと、玲陽はにっこりと優しく微笑んだ。  本当に霧が風に揺れるような柔らかな笑みだ。  体を起こそうとした玲陽に、そっと東雨は手を伸ばした。触れていいものかと迷ったが、遠慮がちに手を添えると、玲陽はそこに体を預けてくれた。  ああ、いいんだ!  東雨は頬を赤らめた。  柔らかく、優しいぬくもり。玲陽はしずかに身を起こして、乱れた髪を長い指で整える。その仕草ががなまめかしくて、同じ人間とも思われない。 「寒くありませんか」 「はい。ありがとうございます」  玲陽の笑みに見惚れていた東雨の後ろから、犀星が顔を覗かせた。 「水を持ってきた」  犀星は自然と玲陽の隣に座り、手を取って茶碗を握らせる。 「水を飲ませるのは口実で、陽様に触れるのが目的でしょう」

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