37 / 40
12 ひととき(2)
東雨はさらりと言ってのけた。反論もせずに、犀星は小さく笑った。玲陽はそっと水を含み、それから長く息をついた。
この小さな部屋で三人でいると、不思議な心地になる。本当の家族のような、心地よい距離感が東雨を包む。犀星も玲陽も、自分には手の届かない人だ。そうだというのに、まるで同じ目線で接してくれる。それがこそばゆくて、東雨は笑顔のまま、目を閉じた。
「陽、具合は?」
「胸はだいぶおさまりました」
玲陽が、まだ力のない声で言うのが聞こえた。
「謀児様が、せっかくたくさん作ってくださったんですけど……」
「いや、味見しただけで充分だ」
犀星は首を振った。
「まさか、あいつがあそこまで凝り性だとは……」
「若様にも、読めないことがあったんですね」
東雨は嬉しそうに、
「陽様、気にすることはありません。あんまりたくさん召し上がるとお体に触りますから」
古傷のため、玲陽の食は細い。玲陽もそれはよくわかってはいるが、緑権に勧められ、また、お願いします、という懇願のまなざしを受けると、どうしても箸を進めてしまう。
犀星がそっと玲陽の、帯のあたりを撫でた。
「苦しくないか」
「またそうやって、わざと触る」
東雨が横から声を上げる。
「構わないだろう。口うるさい玄草もいない」
犀星のすねた声に、思わず玲陽も笑った。久しぶりに過ごす三人の時間。それはどこまでも甘い。
東雨は思い出したように庭の方を向いた。
「今夜は庭でゆっくりしましょう。席を用意しました。少し外の風に当たったほうがいいです」
「すみません。余計な仕事を増やしてしまって……」
玲陽が申し訳ない、と詫びる。
「気にしないでください。こういうの、俺好きなんで」
そう言って東雨はにっこりとした。
「先に庭に行っていてください。冷えるとよくないので、念のため、肩掛けはお忘れ無く。俺、近衛に連絡を伝えてきます」
足取りも軽く部屋を出ていく東雨を見送って、犀星と玲陽は顔を合わせた。
「東雨のやつ、ずいぶん、頼もしくなった」
「はい。きっと、もっと、強くなります。あの人には、守りたいものがありますから」
犀星は唐突に玲陽を牀に押し倒し、甘えるように胸に縋った。受け止めて背中に腕を回し、玲陽は囁いた。
「あなたは、もう少し弱くなっていいです」
「うん」
ほんのわずか、ふたりの吐息が触れ合った。
東雨は近衛詰所の衛士に今夜の事情を伝え、人手に余裕があるならば夜間に二人回してくれるよう頼んだ。ついでに、衛士が都に帰るのに合わせて、慈圓と緑権に明日の公休の連絡も頼む。本来、そのような連絡事項は近衛の仕事ではないが、東雨の人となりを知っている衛士は喜んで引き受けてくれた。
東雨は長く、周囲を騙し続けてきた。
東雨の胸には、その罪が今もなお重く残る。
嘘に塗り固めた『東雨』を信じ、この衛士のように自分を好いてくれる人がいることが、彼を複雑な気持ちにさせる。
せめて、ここからは、誠意をもって接していかなければ。
反省と自戒を込めて、東雨は優しい衛士の背中を見送った。
外から戻ると、五亨庵の中はまだ、ほんのりと醤油と魚の焼ける匂いが残っている気がする。
東雨は緑権の席を見た。
山と積まれた持ち物は、いつになったら片付くのだろう。
「謀児様の荷物、そろそろ、焼いてもいいかな」
思わず、東雨はつぶやいた。ちょうど部屋からでてきた犀星がそれを聞きつけ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「まぁ、そう言うな。今回はそのおかげで救われたんだ」
「救われた?」
東雨は首を傾げた。
「でも、陽様は……」
「これは、兄様が悪いです」
犀星に腰を支えられて、玲陽は恨めしそうな目を向ける。
「それはもう、許してくれ」
玲陽の額に口付ける犀星から、東雨は慌てて顔を背け、それ以上は聞かないことにした。
思い思いに上着を羽織り、三人は中庭に出た。
東雨が用意した長榻に腰掛け、玲陽は心地よさそうに風を受ける。金色の霞のように揺れる柔らかい髪に、そっと犀星が指を絡める。そのままうっとりと顔を擦り寄せる姿も、玲陽と並んであまりに美しい光景だ。
東雨は若干呆れた顔でその様子を見た。
「若様って」
独り言のようにつぶやく。
「信じられないくらい、わかりやすいです」
意外そうに犀星は振り返り、それを受けて玲陽は笑った。
東雨はにこやかに、厨房から盆に載せた食器を運んできた。
月見にはこれがあう、と、小鉢に飾られた団子を見て、玲陽はほっと息を漏らした。卵を練り込んだ団子の甘さ、蕪の塩味、菜の花のかすかな苦味、そして薄荷茶の喉に優しい清涼感は、体の不調と心労でぐったりと力をなくした玲陽の心身を安らげてくれた。
「お前は器用だな」
犀星は、東雨を見上げて、
「短時間で、よくここまで準備をした」
「こういうの、昔から鍛えられました」
そう言って東雨は笑う。
「何せ我が家には、使用人が俺一人しかいませんでしたから」
「それは苦情か?」
「いいえ、ただの事実です」
自信を持って堂々と言い返す声に、犀星は微笑んだ。
梅花酒は、一口、二口、趣を楽しむための趣向である。東雨のそんな気遣いが、犀星たちには嬉しかった。誰が教えたわけでもない。これは、東雨の優しい気性そのものだ。彼は犀星たちの心をよく知っている。それゆえに一朝一夕では気づけないところにまで、目が届く。
自分には贅沢な人だと、犀星は思う。だが、残念ながら、東雨本人は負い目ばかりを感じているようである。
支度が整い、自分も座ろうとして、東雨は席に迷った。玲陽の隣か、犀星の隣か。どちらにも十分に余裕はあるが、どちらを選ぶのが正解か。
東雨の目がさまよったのに気づき、犀星は小さく指先で自分の横を叩いた。嬉しくなって、東雨は犀星に身を寄せた。少しだけ遠慮して、拳一つ分、間を空ける。それでもぬくもりを感じる距離だ。
丸い夕風が、三人を撫でていく。寒くもなく、暖かくもなく、ひたすらに柔らかい。
東雨は空を見上げた。木々の枝の間に引っかかっていた月が少し上に上がって、しっかりと望月を形作っていた。
玲陽はそっと、梅花酒に口をつけた。味よりも香りを嗜む慎ましやかな様子は東雨の胸を熱くさせた。その穏やかな眼差しに気づいて、玲陽はそっとはにかむように笑った。
玲陽にとって、酒は決して好ましいものではない。彼の人生で、それはいつも自分を傷つけてきた。心を狂わせ、自我を奪われ、人としての尊厳も踏みにじられた。道具として扱われる日々。
だが、今は違う。
春の月、庭の草木、小さな花。そして最愛の人と、かけがえのない友。そのすべてに見守られて、玲陽は一つ、昔の自分を乗り越えた。
それは、東雨も同じだった。
満月の夜、自分はいつも皇帝に呼ばれるのが慣いだった。丸く煌々と照る月は、東雨にとっては辛い記憶であり、孤独の象徴だった。
だが、それがすべて、塗り替えられた。
自らが選んだ犀星という希望、自分の心を解きほぐしてくれた玲陽という光。
東雨は満月の夜を受け入れた。
二人の気持ちが、自然と犀星のこわばっていた体から、余計な力を解いていった。
犀星は自ら、薄荷茶を全員の茶器に注いだ。一滴一滴に思いを込めるように、ゆっくりと春風を孕ませながら。
玲陽は両手で受け取ると、顔を近づけ、胸に深く吸い込んだ。
黙って、差し出された湯のみを、東雨は宝を受け取るように大切に手に包んだ。
主人にここまでしてもらえる近侍が、他にいるだろうか。
東雨の目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「若様」
東雨はそっと話しかけた。
「俺、ずっとこうしたかったんです」
犀星も玲陽も、東雨の言葉に黙って耳を傾ける。すべてを受け入れる、深い心が東雨を安心させてくれた。
「こうして、お月見ができるの、初めてです」
玲陽の目に促され、犀星はそっと、東雨の膝に手を置いた。それが暖かく、力強く思われて、東雨は涙の目を上げた。
月光差し込む中、犀星の瞳が夜空の深淵のように自分を写していた。
「俺も、満月の夜に眠れるようになった」
犀星の言葉は、いつも東雨の心に深く入り込む。
直接言わずとも、大切なことを伝えてくれる。
こらえていた涙がぽろぽろと落ちて、東雨は月を見上げた。輪郭が揺れてぼんやりする月は、今までで一番、眩しかった。
沈黙していても、それは決して苦しい時ではない。そばにいて、呼吸を感じ、気配を感じ、静かに座っている。それだけで心が柔らかくぬくんでいく。それぞれが、それぞれのことを思う。
十年。ずっとそばにいて、これからもずっとそばにいる。体は傷つき、心も傷を負った。それでも自分は幸せだ。
不意に、するすると布が擦れる音がした。
振り返ると、玲陽がそっと犀星の膝の上に頭を乗せていた。もう寝息を立てている。
「よほど参っていたようだな」
犀星が小さく言った。
「今日、おまえが留守にしている間に、紀宗がきた」
「紀宗様が? また、五亨庵をぐるぐる回ってました?」
「うむ……」
普段とは少し違う、と、東雨は姿勢を正し、膝を犀星へ向けた。
「何か、あったんですね」
玲陽の肩掛けを直しながら、犀星は頷いた。
「正直、俺にも陽にもよくわからない。だが、妙なことを言われた」
「話してください」
犀星はゆっくり目を伏せ、玲陽の瞼を見つめながら、
「陽の命を奪わねば、五亨庵も都も、大変なことになる、そうだ」
東雨はちらりと、玲陽を見た。酒が効いたのか、すでに眠りが深い。
「紀宗様、わかってないなぁ」
東雨は、まるで何でもない、というようにあっさりと、
ともだちにシェアしよう!

