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12 ひととき(3)
「陽様に何かあったら、その時点で、全部終わりになっちゃうのに」
「……東雨?」
「だって、若様。気が狂って世界を滅ぼしちゃうでしょう?」
東雨は真顔で犀星を見つめていた。
どう反応してよいものか、犀星の顔が困惑に揺れる。それを見て、東雨は小首を傾げた。
「冗談です」
「……真顔で言うな」
「若様に言われたくないです」
犀星に言い返す言葉はない。
「でも、九割くらい、本気です」
東雨は、真剣な顔で犀星を見た。その表情はかつての少年の面影よりも、心強く、頼もしい友として、犀星の心をそっと支えた。
「若様と陽様は、何があろうと、二度と離れては駄目です。それだけは絶対です」
「東雨……」
「紀宗様が何を言おうと、関係ありません。都も国も、どうでもいいです」
「……おまえ、俺に似てきたな」
「若様の近侍ですから」
そう言って、わずかに笑う東雨の仕草は、まさに、犀星と同じだ。
「でも、許せないです、紀宗様」
急に、普段の東雨らしい気性を見せて、口を尖らせる。
「あの人、陽様に直接言ったんですか?」
「……ああ」
「最悪です、それ。陰陽官って、絶対人間じゃない!」
小さく、犀星が笑った。
「おまえがそう言ってくれると、溜飲が下がる」
「大丈夫ですよ」
東雨が強気な声で言った。
「紀宗様が何を言ったところで、若様と陽様は一緒にいるべきです」
「全く根拠がないな」
「根拠ならありますよ」
東雨はにこっと笑った。
「そうやって若様が優しい顔をしているのが、これが正解だっていう何よりの根拠です」
「……優しい顔?」
犀星は首をかしげた。
「若様はあまりご自身のことをよく知らない。陽様と一緒の時、若様は本当に優しい顔をします。俺、そんな若様が大好きです」
犀星が唇を結んで目線をさまよわせるのを、東雨は微笑んで見つめていた。それから、何かを思いついたように真顔になる。
「俺には、紀宗様の考えはわからないですけど、もしかしたら……」
一瞬、ためらってから、
「凛なら、何かわかるかも」
犀星は元気よく狩りに出かけた少女を思い出した。
「そうだな。玲家の知識は、あいつが一番持っている」
「二、三日で帰ってくるんでしょう? そしたら、聞いてみればいいです。それに……」
東雨はさらに言いにくそうに、
「凛も絶対、陽様を傷つけたりしません。そんなことするくらいないなら、紀宗様を返り討ちにしますよ」
「……それは、それで、困るが」
犀星の静かな笑みの深さが、東雨にはよくわかっていた。
俺は、この人を、守りたい。
一緒にいたい、だけではおさまらない気持ちが、東雨の胸に広がっていく。
東雨は昼間の、右衛房での光景を思い出した。毅然として、堂々と稽古に励む隊士たちの姿。
「若様……俺、少し習いたいことが」
「うん?」
「ほら、若様が公式な行事に参加するときの、そのやり方とか……儀式的なことも、ちゃんと学びたいです」
突然の東雨の宣言に、犀星は一瞬ぽかんとした顔をした。それから、目を細めて微笑んだ。
「……俺はそういうものにこだわりはない。おまえは今のままで充分だと思ってる」
「わかっています。でも、だめです」
犀星の笑顔に思わず決意が溶けてしまいそうになりながら、東雨は首を振った。
「若様がいいと言ってくださるのは嬉しいですよ。でも……周りはそう見ないです。俺がだらしなかったり失敗したりしたら、きっと若様のことを馬鹿にする奴らもいると思うんです。俺、そんなのに負けたくないんです。俺の若様は……俺の……」
「東雨」
犀星はほころぶように笑った。
「たとえおまえがどうであれ、俺にとっては身にあまる友であることに変わりはない。それだけは、ずっと、覚えておいて欲しい」
何気なく聞いていた東雨は、唐突に言われた『友』という言葉に愕然とした。
「……俺、若様の……」
「うん?」
「……近侍……で」
「それは、官職だろう?」
「……は、はぁ」
「実際には、友だと、俺は思っているんだが……」
そう言って、犀星は悪戯っぽく東雨を見た。
「だめか?」
「だめ……じゃ……ない」
東雨は声が震えた。
犀星は、膝に目を落とし、玲陽の髪を撫でて、小さく言った。
「名よりも実、だ」
それが、犀遠の口癖であり、犀星の心構えであることは、東雨も知っている。だが、自分に向けられると、なんともこそばゆかった。
「それなら、俺だって、実を取ります」
東雨は決心して、
「名目だけの近侍なんて嫌です。ちゃんと、実力をつけてみせます」
「本当に、口が上手くなったな」
どこか嬉しそうに、犀星は笑顔である。
「そりゃ、若様を見て育ちましたから」
惜しげもなく自分に向けられた笑顔に、犀星は胸が詰まった。
これがあるから、俺はおまえを手放したくないと思ってしまう。
犀星の胸に疼く、執着の種。
いつまでも東雨は子どもではない。祥雲として、新たな道を歩いて欲しい。それでも、今までと同じに、と願う気持ちを無視はできない。
矛盾する思いに、犀星自身も時折混乱する。
「若様、召し上がりますか?」
両手に玲陽を抱きかかえている犀星に、東雨は梅花酒を差し出した。
「そうだな。いただこう」
受け渡しの時、さりげなく指先で触れたのは、犀星が先か、東雨であったか。
「気がきくな。花の酒は甘くて好きだ」
犀星は、東雨なら知っていて当然のこと口にした。
「若様の好みは覚えていますから」
東雨も、敢えてそう、答えた。
二人の言葉は、信頼の柔布にくるまれた、花のようである。
「東雨、おまえも、飲んでみるか?」
犀星は梅花酒に目を向けた。東雨は困ったように、恐る恐る杯を手に取った。
香りがふわりと鼻の奥にしみてくる。
「無理には勧めないが」
「若様」
「うん?」
「これ、飲んだら、嫌なこと、忘れられますか?」
唐突なところまで自分にそっくりだ、と、犀星は呆れた。
「忘れてしまいたことがあるのか?」
「少し」
東雨は酒を、杯の中で揺らして眺めた。それから、思い切って、一口、飲み込んだ。喉を温めるように流れ込む酒の温度に、胸の奥が熱くなる。
その様子を、犀星はどこか寂しそうに見つめ、ふっと月へと目を向けた。
唇を舐めて、東雨は熱い息を吐く。その心に蘇る辛い記憶。
「若様……俺の秘密、聞いてくれますか?」
「うん」
小さく答えて、犀星も酒に口をつけた。
「誰にも、言わないでください。陽様にも」
「わかった」
言葉は短くとも、それが確かな約束であることは、東雨を強くさせた。
「今まで、何度も、戦いがあって……そのたびに、戦場に行く人がいて」
東雨は、酒を見つめ、水面に揺れる月の光を眺めた。
「そのたびに、俺にはとても遠い存在で、ただ、漠然と怖くて」
「うん」
犀星は、各地の紛争の知らせが届くたびに、東雨が見えない何かに怯えていたのを思いだした。
「小さな頃は、眠れない、と俺に泣きついたことがあった」
「やだ……覚えているんですか?」
「絶対に忘れない」
犀星の声は優しかった。
「戦は異常だ。おまえは、それを思い出させてくれる」
「……でも」
東雨は思い切って、盃の酒を一気に飲んだ。
「三年前の戦い。あの時、一度だけ思ったんです」
犀星はじっと東雨の横顔を見た。泣きそうな、怒り出しそうな、不安定な感情が宿っている。
「若様も敵との交渉で戦地に行ってしまって……心配で心配で……」
「涼景が一緒だっただろう?」
「だから……」
東雨の目が、苦しげに歪んだ。
「死ねばいいって思った」
「…………」
「若様を助けて、あいつは死んじぇえって」
「…………」
「だって…… 俺、あいつに、全部、ばれそうになってて……邪魔で……死んじゃえって……」
「そうか」
犀星は静かに頷いた。
「必死、だったんだな」
「……俺、酷いやつなんです」
「そう、思うか?」
「はい。自分に都合が悪いからって、そんなこと思うなんて……」
東雨の声はどんどん細くなって、切れる糸のように頼りない。
「それ、俺もだ」
犀星がその糸の端を、そっと絡め取った。
東雨は、酒で赤らんだ頬を、犀星に向けた。静かに、犀星の目が東雨を写す。
「俺だって、何度もそう思ったことがある」
「まさか!」
「まさか、か?」
「……だって、若様はそんなこと、一言も……」
「言わないだけで、結構思っている」
犀星が慰めだけで言わないことは、東雨もよく知っている。犀星がそういうのだから、心の中に確かにそのような感情が生まれたことがあるのだろう。
東雨は目を閉じた。心の闇を撫で付けるように、何度も深呼吸を繰り返した。
「今は、どう思っている?」
犀星が、傷口を拭うように、静かに問いかけた。東雨は視線を揺らし、空になった盃を指先で弄んだ。言葉は、想像以上に重たかった。
「無事に……会いたい」
犀星の目元が緩む。
「涼景、いつ帰ってくるんですか?」
突然の問いかけに、犀星は緩やかに木々の間に目線を流し、物思いにふける。それきり黙って、じっと揺れる春の花を眺めた。
「涼景……大丈夫でしょうか」
「おまえはどう思う?」
東雨は少し迷ってから、
「あいつは強いです。だから……大丈夫だと思いたい」
「ならば、思え」
自分に言い聞かせるように、犀星は言った。
「今の俺たちにできることは、何もない。あいつが帰ってきたときに、何を食わせてやるかだけ考えていろ」
「魚だけは嫌です」
思わず本音を吐いた東雨に、犀星は小さく笑って頷いた。
月の光が散る夜、五亨庵の中庭で、静かな時が過ぎてゆく。彼らの心に、消えない影を落としながら。
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