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13 渓谷の向こう側(1)

 夕泉親王を伴った涼景の部隊は、着々と紅蘭へと道を進めていた。  大きな戦闘もなく、兵たちの間には一定の緊張感だけが保たれていた。この先の亜塵渓谷を渡る橋を越えれば、都まで二日の道のりである。  あとわずかで終わる。  誰の顔にも疲れと、安堵が見え始めていた。  涼景を除いては。  行く先の渓谷に架かる橋を調べに行った斥候が、曇った表情で戻ってきた。 「橋が落とされています」  来たか。  特別驚いた様子はなく、涼景は落ち着いて進軍を止め、休息を取らせた。その間に詳しい話を聞き出す。  斥候によると、橋のそばの町を盗賊が襲い、逃げるに乗じて焼き払ったという。  蓮章の伝言が蘇る。 『宮中の敵を忘れるな』  橋の倒壊は、単なる盗賊の仕業ではあるまい。  涼景には、宮中で恨まれる心当たりがありすぎる。  だが、今回のことに深く関わっている者となれば、自ずと絞られてくる。最も疑わしいのは、禁軍大将・然韋だ。だが、立場も責任もある然韋が、自ら動くとは考えにくい。実行役は別にいると思われた。 「ほとんどが、北側の道へ迂回しているようです」  斥候は現地の状況を、そう知らせた。  涼景は腕を組んだ。  北の道は平坦で、通行は容易である。ただし、日数がかかりすぎる。また、道中に宿場町もあり、人目にも付きやすい。夕泉を連れ、部隊で移動するには、少々難がある。万が一、胡断との戦闘になれば、無関係な者を巻き込んでしまう可能性が高い。  それよりは、多少の危険は伴うが南へ下り、崖沿いの旧道を使う方が時間の短縮にもなる。  どうする?  今回の橋の崩落は、陽動である線が濃厚だ。  ならば、どちらに行っても待ち伏せの恐れがある。  涼景はここに至るまでの、奇妙な気配を思い出した。  忌まわしい太久江の記憶。それに惑わされる不安に加え、明らかに別の、人のものと思われる視線を感じ続けていた。  それは、付かず離れず、まとわりついている。もし、宮中の何者かが策を巡らせるとしたら、正規軍内部に、密偵を忍ばせている可能性も高い。黒幕が然韋であれば容易なことだ。ならば、北へ回っても、南を選んでも、敵方にはつつ抜ける。  俺一人なら、南を選びたいところだが……  南の旧道は、崖沿いを一度谷底まで下り、そこから渡河して反対の崖を登ることになる。崖の移動中を狙われる危険性が高く、谷底も、野生動物が多数生息する湿地だ。  時はかかるが、北へ行くべきか。  涼景は兵たちの様子に目を向けた。  束の間の休息に、どこかぐったりとした空気が漂う。  明確な敵との衝突もなく、常に緊張感を保て、というのは難しい。長引くほどに、士気は落ちる。北を進み、隠れる場所のない地形で一般の民衆をかばいながらの戦闘となれば、集中力と臨機応変な対応が要求される。それに耐えうるだろうか。  どちらを選んでも、厳しくなる。  涼景の目が彷徨う。  刹那、早く帰ってこい、という蓮章の声が聞こえた気がした。  北の道を通れば十三日かかる。南に行けば、最短で四日で済む。  涼景の心が決まった。 「このまま進路を南へ変更する」  伝令が、涼景の判断を、全軍に知らせた。 「渓谷沿いを進み、旧道の入り口で今夜は陣を張る。明日の朝、日の出とともに渓谷を渡る」  ふたたび、隊列が整い、南側の盆地へと軍は動き始めた。  橋がかけられ、北の迂回路が整備されてからは、南の旧道を使う者はほとんどいない。整備が滞り、道は荒れていた。草地の中をゆっくりと進む。夕泉を中心に歩兵が列を成し、周囲を工兵と補給隊が挟み、その外を騎兵と涼景が守る。  向こう岸までは、すっきりとよく見通せる。直線距離ならばいくらもかからない。だが、幅の半分ほどの深さの谷が、それを阻んでいる。  東の空に満月が輝いて、明るい夜を招いた。  月だけは味方してくれるようだ。  涼景は、その白い光にわずかに微笑んだ。  満月を見ると、あの小生意気な少年を思いだす。  月が満ちるたびに胸を痛めていた彼は、今、どんな思いでこの月を見ているのだろうか。  文句を言われながら飲む酒が懐かしかった。  一行は、月明かりに守られて、何事もなく目的地までたどり着いた。  涼景は、旧道を見下ろす崖の上で歩みを止め、野営の準備を命じた。兵たちが慣れた手つきで作業を進める。それが落ち着く頃、湖馬が涼景を見つけて駆け寄ってきた。 「隊長、ここを降りるのですか?」  湖馬は四つん這いになって、下を覗き込んだ。 「気をつけろ。足元がすぐに崩れる」  崖を覗くと、荒れ果てた切り通しが、斜めに折れつつ、谷底へと続いていた。底は中央あたりに川が流れ、周囲は沼地で草が生い茂っている。 「危なそうですね」 「本来なら無茶はしたくないが」  涼景も、湖馬に並んで片膝をつき、底を伺った。そうしながら、そっと湖馬に口を寄せる。 「北へ行っても、ここを通っても待ち伏せされている可能性が高い」  低めた声が口早に告げた。 「待ち伏せ?」  湖馬の表情がぴんと張る。  正規軍内に密偵の恐れがある以上、本音を話せる相手は湖馬しかいなかった。決して蓮章のような軍師ではないが、一人で抱えるよりも、誰かと分かつだけで気持ちが落ち着いた。 「胡断が狙ってくるのは、ここですか?」 「おそらく」  涼景は目を細めた。 「この谷を越えれば、もう、襲撃の機会はない」 「けれど、どうしてこんな都の近くで? 襲うなら、もっと人目につかない場所もあったでしょうに」 「いい視点だ」  涼景は頷いた。 「おそらく、届かないのだ」 「……届かない?」  涼景は一層、声を低めた。 「胡断を統率する者が、都を離れにくいということだ」 「それって、宮中の誰か……」  ほんのわずか、涼景は頷いた。 「本当に、夕泉様を狙うなんて……」 「あくまで推測となるが……その可能性は低い」  涼景は息を吐き出した。 「夕泉殿下は、目立たず、敵を作らない。狙ったところで、宝順帝を脅す以外に使い道はない。第一、あの皇帝のことだ、弟を見殺しにすることも考えられる。そもそも、本気で刃向かうつもりならば、やり口が杜撰すぎる」  一つ一つに頷きながら、湖馬は話に集中した。  夕泉を狙う、というのは、単なるでまかせに過ぎない気がしてくる。 「だとしたら、なぜ? 俺には、意図が全くわかりません」  湖馬は口をつぐんだ。  二人揃って崖に膝をつき、下を見下ろす。静かな姿勢のまま、二人の語る内容は、この軍の命運を握っていた。 「はっきりとは言えないが」  涼景は声を絞って囁いた。 「今回のこと、狙いは夕泉殿下ではないと考えている」 「では?」  合わせて、湖馬も声を落とす。 「おそらく、最初から、俺を陥れるため」  涼景の大胆な推測に、湖馬は少なからず驚いた。 「隊長を?」 「……少なくとも、俺の失脚を望む者が絡んでいる」  湖馬は遠く目を上げ、崖の対岸を見た。南側には山からつながる森が広がり、北へ行くにつれて、木々の背丈は低くなり、やがて草原へと変わる。その奥に位置する紅蘭の外壁はまだ見えず、闇の向こう側だ。  宮中には、さまざまな思惑が交錯する。  湖馬にはわからぬ策謀が、涼景を脅かしている噂はよく耳にしていた。それも、ひとつふたつではない。  湖馬から見れば、涼景は信頼できる上官だった。  どうして、このような人を陥れるのだろう。  出世欲とは無縁の湖馬には、想像もつかない。 「俺にとって、この任務における最大の失態は何か、おまえにもわかるだろう?」  涼景の問いかけに、湖馬はこくりと頷いた。 「夕泉様が無事に戻れないこと、ですね」 「湖馬、殿下のそばを離れるなよ。おまえは近衛だ。要人警護にかけては、誰よりも知識がある。任せたぞ」  涼景の言葉を、湖馬は素直に嬉しく受け止めた。 「身命に代えて、お守りします」 「いや、そこまでしなくていい」  湖馬の精一杯の決意を、涼景はあっさりと横によけた。 「おまえの身も命も、おまえのためにとっておけ」 「隊長……?」  湖馬は、苦笑した。いつも通りの涼景だ。このような危機せまる状況にあっても、変わらない涼景の口調は湖馬を安心させ、勇気付けてくれた。 「それで、これからどうするんですか?」  涼景にならって、湖馬は谷底を眺めた。  南の山脈からくだってくる川が紅蘭の方角へゆっくりとうねり、流れてゆく。途中で太久江と合流し、一本の川となる流れである。川幅はそれほどないが、大軍を率いて移動するとなると、難儀が予想された。  涼景は目を細めて、谷底を見つめた。空には満月が昇り、白々と辺りを照らし出している。  川沿いに、赤い火が、ちらりと見えた。湖馬が震えた。 「人がいる……?」 「すでに斥候を送っている。待ち伏せする気なら、目立つ火など焚かないだろうから、おそらく民間人だと思うが……あのような危険な場所で一夜を過ごすつもりなら、保護したい」 「……もし、民間人じゃなかったら?」  胡断か、または別の敵であったなら、と、湖馬は息を詰めた。 「場合によっては、俺が前線に出る」 「隊長自ら、ですか?」 「必要ならば、な」  実戦における涼景の強さを、湖馬は直接見たことはない。  相当な腕前だとは聞いているが、このように足場の悪い場所で、無事に切り抜けられるものか、不安もあった。  何より、涼景を失った軍は、そのあと、どうなるのだ? 「指揮官は、最後まで生き残るべきなのでは?」  湖馬が、不安を隠さずに涼景を見た。  涼景は一瞬、意外そうな顔をして、それから、ふっと笑った。 「誰が死ぬって?」 「い、いえ、俺は隊長が心配なだけで……」 「俺は、戦場では死なない」  どこか、当然のように、涼景は答えた。 「どうしてそんなこと、言いきれるんですか?」 「約束したからだ」  涼景は、東の闇空に目を向けた。 「わがままな幼馴染との、約束だ」 「……それは、絶対、ですね」  湖馬は、思わず笑みを浮かべた。灰色の隻眼が脳裏をかすめた。 「死んで帰ったら、間違いなく殺されますね」 「だろう?」  楽しげに、涼景は肩をすくめた。  ああ、だからこの人は強いんだ。  湖馬は、すっと胸が軽くなった。 「湖馬、西苑を出てから、おまえはずっと、親衛隊にいただろう?」

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