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13 渓谷の向こう側(2)

「はい。俺にできるのは、それくらいですから」 「もし、よそ者が紛れ込んでいるとしたら、その中にいると、俺は思う」 「……確かに、隊長を狙うより、直接夕泉様を狙った方が簡単……」  言いすぎたか、と湖馬は口を押さえたが、涼景は頷いた。 「その通りだ。問題は、いつ、それを行うか、だ」 「いつ?」  湖馬は考え込んだ。 「裏切り者がいるとしても、そう、数は多くないですよね?」 「だろうな。大掛かりになれば、その分、しくじった時に厄介だ。口封じが難しくなる」 「だとしたら、片手で数える程度が妥当か……」 「炙り出せるか?」  涼景の視線に、湖馬はどきりとした。 「どうやって?」 「方法は教える。おまえの冷静さと度胸が試されることになるが」  ごくり、と湖馬は息を飲んだ。涼景は不敵な笑みを見せた。 「うまくいけば、祥雲に手柄話ができるぞ」 「……やります」  つけこまれた、と思いながら、湖馬はどこか誇らしかった。 「そろそろ、殿下のところへ行かねば。進路の詳しい説明もせなばなるまい」 「お供します」  湖馬は涼景の先に立って、夕泉の天幕に向かった。  西苑の一件以来、特に夕泉が涼景に手をかけることはなかった。  だが、この非常時に、余計な負担を強いられるのは避けたい。  涼景は天幕の中にまで、湖馬を同席させた。  夕泉の天幕は、四方を帳で囲い、周囲からの視線を遮っている。入り口だけ二重に布がかけられ、内側の帳は半ば開かれて、風が柔らかくしのび込む。  天井の中央には小さな風抜きの開口部があり、虫除けの紗の網に覆われている。地面には厚手の敷布が敷かれ、換気口の近くには香炉が一つ、既にかすかに焚かれていた。  中央に低めの交椅があり、その脇には、食事の皿が置かれた几案が用意されていた。照明は几案の上の油灯一つだけだ。寝床は織物を重ねて作られ、肌触りの良い絹布がかけられている。薄い藤色の天幕の色が、夕方の光と溶け合って、幻想的な空間として、そこだけを切り取っていた。  旅の疲れからか、夕泉は寝床に伏して目を閉じていた。髪は敷布の上にふんわりと静かに広がる。指先には、白檀の香扇が畳まれており、野営の天幕の中だということを忘れるほどの穏やかな光が漂っている。  涼景は内側の帳を掲げて中へ踏み入り、その場で片膝をついた。間を空けず、涼景の陰に身をひそめるようにして、湖馬が従う。夕泉がそっと上体を起こした。 「呼び付けて済みませぬ」  いつもの穏やかな声である。涼景は、じっと足元を見つめたまま、わずかに頭を下げた。 「道を変えたと聞きました。ご苦労をおかけします」  夕泉の話す言葉は穏やかで、本当にこちらを気遣っている風がある。だが、涼景はどうしてもそれを素直には受け止められない。  ただ、淡々と状況を伝えるのみに徹する。 「予定していた橋が、通行不能となってございます。そのため、進路を変えて都を目指します。殿下におかれましては、かようなご心労を伴う長旅、さぞ煩わしいことも多かろうと存じます。まもなくの都入りが叶います。あとわずかのご辛抱、どうぞお心安くお待ち下さいますよう」 「亜塵渓谷を通ると聞きました」 「は」 「あそこは仙女が住まう神聖なる場所。どうぞご加護がございますように」  涼景の背中に悪寒が走った。同じ口、同じ声で、夕泉が少し前に自分に語った言葉を忘れたことはない。  仙女の加護を祈るくらいなら、人としての道を思い直してほしい。  信心深くはない涼景だが、夕泉の祈りを聞き届ける神がいるなら、よほどの愚神だろうと思う。 「して、暁どの。太久江を離れてご気分はおさまりましたか?」  何を言っているのだ、と、湖馬は首を傾げた。反して、涼景は目を見開いた。 「そなたにとって、あの川はさぞ、恐ろしかったでしょうと」  鳥肌が立ち、涼景は膝に置いた手に力を込めた。 「古より争いの絶えぬ地……」  涼景は逸る鼓動を沈めながら、 「太久江には多くの魂魄が沈むと言われます。夜霧に乗じて彷徨う影の噂も尽きぬと」 「そなたは、影を見ましたかえ?」  ぞくり、と涼景の喉の奥が冷えた。  自分が太久江の流れに不吉を感じていたことは、誰にも話してはいない。ましてや、夕泉になど知られるはずもない。  やはり、底の知れぬ者よ。  涼景はかろうじて、首を横に振った。 「幸いにして、私は何も」 「左様か」  夕泉の答えは短く、しかし信じたとは思われない響きがあった。 「暁どの」  その呼び声は異様に乾いて聞こえた。 「度々の働き、心より感謝しております。都へ戻りましたら、改めて礼をせねば。その際は是非、我が元へ」  お断りだ。  涼景の心が音を立てて縮む。 「ありがたきお言葉ではございますが、すべては……」  と言いかけて、涼景の喉が詰まった。何を言っても声が震えそうな予感がした。まるで見透かしたように、夕泉は小さく声を立てて笑った。それは、鳩が鳴くような、柔らかく丸い、優しげなものであった。 「暁どのは、まこと、忠臣であられる。手間をおとらせした。お下がりなされ」 「は」  視線を落としたまま、涼景は立ち上がると背を向けた。  わずかに首を垂れ、早足で天幕を出る。香の匂いが絡み付くようで、思わず服を払う手を止められなかった。それを見ていた湖馬が、しかめっ面で寄ってきた。 「隊長?」 「心配ない」  自分を取り戻すように、涼景は深呼吸を繰り返した。湖馬は唇を曲げて首を傾げている。 「夕泉様は、どうしてあんな変なことを言ったのでしょうね」 「変なこと?」  最初から全てがまともじゃない、と、涼景は思わず心で呟いた。 「ほら、太久江がどうの、って」 「……ああ」  ため息混じりに、涼景は唸った。 「俺が、北ではなく南の道を選んだからかもな」 「え? 太久江が怖くて進路を決めたと思ってるんですか?」 「さぁ、あの方の考えていることはさっぱりわからない。都に戻ったら、さっさと左近衛にお返ししよう」  涼景の疲れた顔に、湖馬は表情を緩めて頷いた。 「歌仙様の考えていることも、全然わかりませんけど」 「まだ、気を遣わずに済むだけましだ。それより、湖馬。今日は早めに寝ておけ。もしかすると、早朝、騒がしくなる」 「え?」 「ちゃんと、横になって眠れよ」  口角を上げて、涼景はニッと笑った。先日の居眠りを思い出して、湖馬は慌てて手を振った。 「大丈夫です、あれから、ちゃんと横になってます」 「それは良かった」  涼景の穏やかな声に、湖馬は、安心したように微笑み返した。  この旅で、もし湖馬がいなかったら、と思うと、涼景は身がすくんだ。軍事的に、際立って何かの役に立つということはない。だが、彼の存在は間違いなく自分を支えてくれる。犀星の助言で、湖馬を同行させて正解だった。  星はどこまで見越していたんだろうな。  そんなことがよぎる。考えが読めないところは夕泉と良い勝負だが、犀星の方が信じて後悔はない。  帰ったら、白状させてやる。  早く懐かしい顔を見たかった。  玲凛は初めて見る大渓谷の雄大な景色に目を奪われた。夕暮れで、視界はそれほど良くないが、その光の薄さが余計に圧倒的な存在感を示している。幅は橋をかけられないほどに広く、谷底を覗くと、谷幅の半分に近い深さがある。南側の山脈から流れ出した清流が一本、谷底を蛇行しながら通っている。  川沿いには湿地が広がり、丈の高い草が繁茂している。玲凛の判断で、皆、馬を近くの宿場に預け、荷物を背負って崩れかけた岩肌の道を慎重に進んだ。  底へ降り立つと、第一歩が、ずぶりと沈んだ。ひどくぬかるみ、足を取られる。縦横に茂る葦や、ところどころに倒木があり、地面は見えない。  想像以上に、とんでもないところね。  崖の上からは、新緑の広がる美しい模様に見えたが、実際にそこに立ってみると、決して快適な地面ではなかった。  玲凛は、身長を超える葦の原に目を凝らした。普通にはわからないが、彼女には獣の通った跡が読める。 「鹿がいる」  玲凛はつぶやいた。さらに丁寧に草をかき分け、水場に近づく。踏みつけられた葦の根元に、猪の足跡も見られた。川には魚の影もあるようだが、玲凛は魚よりも肉が好きだ。雪どけ時期で水の量は多い。常に水音がする景色は、故郷と似て懐かしかった。  しっとりと湿った空気、苔の香りが、わずかに漂う。風が吹くと、急激に体感温度が下がる。  玲凛はすぐに仕事に取り掛かった。まず、人数を半分に分ける。旦次たちには焚き火と野営の準備を任せ、自分は数人と共に、あちこちを歩き回る。地形を確認し、明日の狩りに備えて仕掛けを仕込む。  日が落ち、暗くなっても、玲凛にはまだ景色が見えるようだった。ちょうど満月が空の低い位置から照らしている。 「今夜は明るいから、夜のうちにやれることをやっておきましょう」 「やれること?」  慎は玲凛の傍らで、眉をひそめた。残念ながら、隻眼の慎には暗がりは辛かった。 「静かに。音を立てないで」  玲凛が仲間たちを振り返る。  性格の荒い連中揃いだが、そんな彼らだからこそ、玲凛の言葉には従った。まるで、獣が自分より強い相手に従うのに似ていた。  玲凛は背にしていた弓をとると、引き絞った。  その体勢のまま、じっと前方を伺う。  川の音、風の音、草が揺れるかすかな音。  音は聞こえても、視界はうす闇である。  玲凛には、触れるか触れないかの僅かな風の味がわかった。  ヒョッ、と、矢が闇を裂く。ザッと草が蠢き、その動きが少し進んで、ドサリ、と止まる。 「よし」  玲凛は獣用の槍を抜いて、動きの止まった場所まで慎重に近づいた。慎たちは身を乗り出したが、長い草が視界を遮って、何も見えない。  玲凛は槍を下に突き立てた。小さな獣の声がしたような気がした。玲凛はそのまま、音を立てて草むらを探っている。 「凛?」  慎が呼びかける。玲凛は、草をかき分けて戻ってくると、まだ痙攣している狐を勢いよく突きつけた。 「今日の晩ご飯よ」 「うわ!」  思わず、慎は後じさった。 「何だよ。梨花、怖いのか?」  一斉に、仲間たちから囃し立てる声が沸き起こる。慎は、しまった、と顔を歪めた。蓮章ならば、これしきのことに動じるわけがない。  玲凛は、気の強そうな一人に狐を預けた。

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