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13 渓谷の向こう側(3)
「もう数匹取っていくから、先に焼いておいて。順に食べていいから。でも、血は川に流しちゃって。残ってると、余計な獣を呼び寄せる」
「おう!」
嬉しそうに狐を受け取り、男は一人で先に、野営場所へと戻っていく。
その繰り返しで、玲凛は更に三匹の狐と、一匹の|鼬《いたち》を仕留めた。
そのあまりの手際の良さに、見守る面々も呆然とする。見つけたと思えば、次の瞬間には仕留めている。反応が素早い。そして正確だった。
普段、太刀や戟などの長物を使うことが多い玲凛だが、弓の腕も相当である。
獲物を持って、一人ずつ野営に帰り、最後には、慎と二人きり、月の光も届かぬ岩陰に身をひそめた。
素人の慎から見ても、玲凛の腕前はよくわかった。
「おまえ、すごいな」
素直に、慎は言った。それなりに武術の心得はあるが、到底、玲凛の真似などできない。
「やっと二人きりになれたわね」
玲凛は、むき出しになった岩に腰掛けた。
満月の夜に、川のせせらぎが聞こえる人目のない暗がりで、若い男女が静かに語らう。
だが、そこに甘い空気は一片すらない。
「じゃ、話してもらいましょうか? あんた、誰?」
慎は、玲凛に狙われた狐の気持ちを察した。
「俺は……蓮章ではない」
「それは見ればわかる」
ピシャリと玲凛は言ってのけた。
「外見を似せているけれど、みんなを騙してどうするつもり? 本当の蓮章様はどこ? あんたは敵? 殺してもいいの?」
「おい、待て!」
一気に剣呑な流れに追い込まれ、慎は慌てた。
「そう、一度に言うな。こちらにも準備ってものが……」
「死ぬ覚悟ならいらないわよ。なくてもやる」
「だから、待て!」
思わず声を高め、慎はハッとして野営の方を振り返った。
赤々と燃える焚き火と、談笑の声。そして、肉の焼ける匂いが漂ってきた。
「……わかったから、剣は抜くな」
「熊の匂いがする」
「え?」
「あまり、長居したくない。はやく話して」
「…………」
慎はたじろいだ。玲凛は今まで出会った誰とも違った。まるで世界のすべてを知り尽くしているような深さがある。
到底、何事も隠し通せる気がしなかった。
リィ、俺が浅はかだった。
心で、こっそり蓮章に詫び、慎は腹をくくった。
「俺は、蓮章の影だ」
玲凛は眉を寄せ、腕を組んだ。
「あいつは家柄が特殊だ。簡単に言えば、大事にされている。だから、あいつの身に危険が及んだときのために、俺がいる」
「つまり、あんたは蓮章様にかわって、先に殺される役、ってことね?」
「……そう、思ってもらって間違いじゃない」
「まどろっこしい言い方は嫌い。そうなの? 違うの?」
「……そうだ」
慎は観念した。玲凛の口調は落ち着いているが、そこに通った一本の芯は、決して折れることはない。
「暁武場にいたのは、蓮章様の様子を見るため、って言ったわね?」
「ああ」
「本物はどこ?」
「昨夜までは、右衛房にいた。俺と一緒だったから間違いない」
慎の頭に、全身で抱いた蓮章の身体が蘇った。わずかに動いた慎の表情を、玲凛は見逃さない。満月の下、彼女には多くのものが見えていた。
「俺の存在は知られてはならない。暗いうちに右衛房を出て、暁武場へ行った。あいつが、早朝に出かけると聞いていたから……」
「けれど、蓮章様はこなかった。そして、私に見つかった」
「そういうことだ」
慎は諦めた顔で首を振った。
「俺のことを知っているのは、リィ……蓮章と、涼景。そして、五亨庵の圓だけだ」
「五亨庵? 星兄様の?」
「ああ。圓はリィと涼景の師匠でな」
「そう」
あらかたのことは飲み込めた、と玲凛はうなずいた。
「つまり、あんたはへまをして私に見つかり、偶然ここにいる。敵どころか、ただの役立たずってことね」
「……おまえ、その性格、どうにかならないのか?」
「あんたこそ、まともに役目を果たしたらどうなのよ?」
ふたりの間には、相容れない沈黙が横たわっていた。
「凛、こんなことを言えた義理じゃないのだろうが……」
「わかってる。あんたのことは黙ってるわ」
玲凛はふっと、焚き火の方へ目を向けた。
「今回の目的は、あくまでも食糧の調達とあいつらの訓練。自信をつけさせてやらないと」
「自信?」
「蓮章様が選んだ人たち。とりわけ素行が悪くて手に余すって言ってたけど、涼景様が追い出さなかったってことは、素質はあるはずよ。ただ、まだ、自分に自信がないだけ。だから周りに噛み付く」
「……凛、おまえ、年は幾つだ?」
「十六」
「どんな人生、送ってきたんだよ?」
「あんただって、色々あったんじゃないの?」
再び、沈黙が訪れる。互いに距離を測りつつ、しかし、どちらからも動かない。
前触れなく、玲凛が弓を構えた。
その矢尻は慎に向けられている。
腰が抜けて尻餅をついた慎の頭上を、鋭い矢が突き抜けた。ガサっと背後の茂みが揺れる。
「そろそろ戻って。あんまり遅くなると、変な噂立てられるわよ」
玲凛は、取ったばかりの狐を、震える慎に押し付けた。
宮中の中央に位置する、皇帝御所・天輝殿。
三百年の歴史の中で、増築を重ねてきた巨大な城の全容を知るものはいない。
前殿の謁見室、中殿の控えの間、後殿の寝所と、その奥の後宮。
さらに、左右を取り囲む数々の部屋と廊下、地下へ伸びる階段と、楼閣へ上がる梯子。それらをつなぐ細い横穴と、通路に用意されたいくつもの仕掛け。その先に何があるのか、禁軍も近衛隊も全てを把握してはいない。
まさに伏魔殿だな。
蓮章は、浅葱色の着流しを風に揺らして、天輝殿の表階段の中程にいた。巡回する近衛に目を向ける。
満月が、ちょうど、頭上にさしかかろうとする時刻。
星の煌めきはいつもより静かで、黒い地平線の近くにひとつだけ、激しく瞬くものが目についた。
涼……
何を見ても、今の蓮章には友が案じられた。
春の夜風が、その頬に流れる髪を、しめやかに揺らしていく。
転々と燃える篝火は、灯りの代償に黒い闇を産んだ。その光景は、夜の天輝殿にあまりに似つかわしい。
闇の一つ一つが、この場所で、無惨に散らされた人々の魂であるようで、蓮章は胸が騒いだ。花街の療養所で見た悲惨な光景と、あの時、自分を満たした虚無感が蘇る。
闇は、人の怨念か。
嫌な想像ばかりがちらついて、蓮章は頭を振った。
そうでなくても、今は遠くに離れた友のことが気がかりでならない。
当番でもない夜に蓮章が天輝殿にいるのには訳があった。
昼間、備拓が彼を訪ねてきた件だ。あられもない姿での対面は申し訳なかったが、こちらとしても致し方ない状況だった。
詳しく聞いた備拓の話は少々、混み入っていた。
左近衛の実態について、蓮章も表向きの事は把握している。現在の近衛隊長備拓、副隊長の夏史。二人とも左派の人間である。特に備拓は厳格で格式を重んじる硬い性格である。どちらかと言うと、蓮章が苦手とする人物だ。
それに対し、夏史は少々身が軽く、かつては蓮章や涼景とともに訓練に励んだこともある仲だった。だが、先の左近衛隊長・英仁に失ってからは、性格が変わった。何かと暁隊や右近衛、とりわけ涼景を目の敵にする。暁隊がちまたで問題を起こすたびに、難癖をつけてくるのも夏史である。
備拓の話は、その夏史にまつわるものだった。
ここしばらく、夏史の動向がおかしいという。そして、本来であれば夜勤を務めなければならないこの時期に、急遽、休暇を願い出た。遠方の親戚の都合で都を空ける必要があるとの理由だった。
虚言の代表例じゃないか。
備拓の話を聞きながら、蓮章は苦笑した。
通常であれば、残った者で補填し合い、それで済むことなのだが、備拓には嫌な予感があるという。
夏史がよからぬことをしでかすかもしれない、と、備拓は丁寧に蓮章に詫びた。
「内輪の揉め事で厄介をかけて申し訳ない。こちらでけじめをつけさせてもらう。今回のこと、借りを作らせてもらえないだろうか」
備拓が心配しているのは、夏史と胡断とのつながりだ。
もし今回の胡断による夕泉親王の誘拐の話が、最初から涼景の失脚を狙ったものであったとしたら、すべてに辻褄が合う。
胡断の名を使って夕泉の誘拐をほのめかし、その警備には、左近衛ではなく野戦経験豊富な涼景を推薦する。今思えば、軍議の席で涼景を推したのは夏史である。
襲撃の話をきっかけに、涼景を都の外に誘き出す。そして胡断を動かし襲撃をしかける。防衛に失敗すれば、涼景の名声を落とすことができる。あわよくば、その命を奪うことも叶う。
夏史が動くとしたら、今夜か明日、と、気難しそうに備拓は唸った。
蓮章は、必要なだけ引き受けるから決着をつけるようにと、備拓に請け合った。
蓮章の気性から言えば、自ら夏史を捕えたかった。だが、お互いに立場がある。左近衛の副長に、右近衛の副長である自分が関わると、ことを大きくしてしまう。同じ左近衛内部で解決してもらった方が後腐れがない。
自分が表に出て行くことは、逆に涼景の負担を増やすだけだと、蓮章もかろうじて堪えた。
夏史だけならば良いが……
蓮章はさらに奥を探った。
夏史一人に、全てが出来るとは思われなかった。
胡断を囲うには、物理的にも負荷が大きい。夏史を助ける者があるのなら、それはさらに権力を持つ者、そして、涼景を快く思わない者。
心当たりはありすぎるが、こと、軍事に関して言うならば、禁軍大将である可能性が高い。
蓮章は西の空を見た。
「おまえなら大丈夫だよな」
それは自分に言い聞かせる、一縷の望みのようでもある。
いつもそうだ。
蓮章は形のよい眉を歪めた。
前線に出るのは、いつも涼景だった。自分は後方で役割があるが、それでも震える気持ちでその背中を見送ってきた。強がって何も言うことができない自分に、いつも涼景は笑って言った。
『心配するな。俺は戦場では死なない』
それが何ひとつ保証のない、ただの気休めだと知っていながら、蓮章にとっては、唯一のよりどころであった。
「誰かに殺されるくらいなら、俺が殺してやる」
涼景を見送るたびに、蓮章はたまらない胸の内で叫ぶ。
「死んだら許さねぇぞ」
想いはいつしか、小さな声になって、それは春の宵にゆらめいた。
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