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14 五里霧中(1)
紅蘭から亜塵渓谷へ。
馬の蹄が月の光を弾いて響く。
ただ一騎、夜を駆けるのは、左近衛隊長・備拓である。
夏史が何やら動いていることに、備拓は早々から勘づいていた。だが、決定的な証拠を握るには至っていない。
此度、胡断による夕泉誘拐の話が舞い込んだ時、もしやと疑いが濃くなった。
涼景を頼るよう仕向け、軍議の席で言い出したのは夏史であった。本来であれば、備拓に遠慮して言えるはずもない妄言である。はじめは、自分に対する当てつけか、とも思ったが、そうであるならば然韋を推しても良いところだ。それを、あえて日頃嫌っている涼景を引き立てる発言に、備拓は違和感を覚えた。
問い詰めるより、泳がせた方が良い。
備拓は賭けに出た。
抜け目のない夏史のこと、先んじて動いても、多少のことはもみ消されてしまう。確証を得るには危険も覚悟であった。だが、その代償は涼景が支払うことになる。
すまぬな、仙水どの。
詫びつつも、涼景であればいかようにでも切り抜けるだろうという思いもあった。それより気を遣ったのは、蓮章に対してである。
遜蓮章は噂に違わぬ快楽主義者で、近衛の副長にふさわしい人間ではない。それが今までその責務を完璧に勤め上げているのは、ひとえに旧友である涼景への信頼と忠義があればこそだ。
その涼景を矢面に立たせ、夏史を釣ろうというのである。
蓮章がこの策を飲んでくれたことを、備拓は若干の意外性を持って受け止めた。
だが、蓮章が最後に付け加えた一言が、すべてを表していた。
『あいつは戦場では死なない。約束は守る奴だ』
それほどの信頼、そして、自信か。
備拓はかつて自分が信じ、忠誠を捧げた英仁を思った。
涼景と蓮章は、形こそ違えど、同じ絆で結ばれている。
わしのような思いはさせぬぞ、梨花どの。
今夜のうちに、渓谷につきたい。備拓は鞭を入れた。
もともと、正規軍で野戦をくぐり抜けてきた猛者である。夜道も彼を阻むことはできなかった。
涼景が放った斥候が戻ったのは、月が西に傾きかけた頃であった。
崩れやすい崖の道を徒歩で移動し、谷底の様子を探ってきた兵たちは、揃って不安そうな表情を浮かべていた。
野営地の中心付近に用意した本陣で、涼景は報告を受けた。
斥候の小隊長は、顔を歪め、声を低めた。
「谷底に怪しい者たちを確認いたしました」
「火は、その者たちか?」
「はい。粗末な服装の男が十名ほど。火を囲んで、狐をさばいて喰らっているのを、目視にて確認しております」
涼景は眉間に皺を寄せた。
「それは、狩人か?」
「いえ、狩人にしては、少々奇妙な点がございました。彼らは皆、直刀を身につけておりました。あれは、獣を相手にする刀ではありません。近くに潜んで様子を伺っていたのですが、ちょうど彼らの会話が聞こえました」
「どのような?」
涼景は慎重に、一つ一つ確かめた。
斥候たちは、目配せしながら、丁寧に応じた。
「漏れ聞こえた話としましては、いくつか。まず、よほど夜目のきくものがいるらしく、この時刻に、新たに狐や|鼬《いたち》を仕留めたと」
涼景はさらに眉をしかめた。
「この暗がりで、しかも、足場の悪い沼地で、か?」
「はい。次々と新しい獲物を持って集まってきましたので……」
「地の利があって、夜目もきくとなると厄介だな」
「はい。しかも、その獲物、矢が刺さっておりました」
「待て、罠でとったのではないのか?」
「いえ、どれも、体を貫く矢が見えました」
見間違いではないとすれば、恐るべき腕前だった。
「ただの狩人や盗賊に、そのようなことができるとは思えないな」
「はい」
小隊長は、うなずいて、さらに続けた。
「彼らは、他にも、妙な話をしていました。罠がどうとか……大暴れしたい、絶対に負けないとか……とにかく、騒がしい声の中でしたので、詳細はわかりませんが、物騒な話であったことは確かです」
「うむ」
「口調も態度も荒っぽく、仲間内で大声の罵り合いなどもありました」
涼景は微妙な表情になる。似た連中を、彼はよく知っていた。
「とにかく、あれは普通の旅人や狩人ではありません。おそらく盗賊、そして、腕前から胡断ではないかと」
涼景は、じっと、斥候たちの顔を見比べた。この者たちが密偵で、自分を欺く可能性がないわけではない。だが、様子を見る限り、嘘をついているようには思えなかった。
「あと、もうひとつ……」
小隊長は肩をすくめて、
「中に一人、勘のいいやつがいまして…… 我々に気づいたのか、こちらへ近寄ってまいりましたので、その時点で撤収しました」
申し訳ない、と、皆がそろって頭を下げる。
「いや、正しい判断だ」
涼景は首を振った。
「向こうが戦うつもりならば、避けては通れない。備えは必要だな」
少数で、しかも相手に気づかれずに背後をつく。それが最も効果的だ。
崖の道は狭く、馬で移動するのは危険だった。馬車が一台、どうにか通れる程度の幅しかない。しかも随所が崩れやすく、素早い移動は難しかった。
夕泉を動かす前に、安全を確保する必要がある。
涼景は、夜のうちに行動を開始した。谷底や対岸から見えぬよう、陣の裏側に腕の立つ者を集めた。内側に皮鎧を仕込み、その上から商人風の着物を羽織らせた。このような事態に備え、補給部隊に揃えさせておいたものである。自分も同じように身支度を整えると、刀を着物の裏に隠した。荷車を用意し、役割と手はずを確認する。
商団に扮して谷底に降りる計画である。たむろしている者たちが盗賊ならば、間違いなく襲ってくるだろう。逆に行動せずに見逃した場合、夕泉を狙って待機している胡断である可能性が高い。どちらにしても、相手の油断を誘える。
湖馬に伝えた通り、涼景自らが先頭に立つ腹積りだ。
それが昔からの彼のやり方だった。慎重さに欠ける、と、よく思わない者もいるが、涼景には、これが一番しっくりとくる。
自分の留守中、夕泉の警備が手薄にならないよう、湖馬を中心に、守りの陣形を固めさせた。そして、湖馬にだけ、こっそりと密偵をおびき出す作戦を伝えた。
そうして、慎重に準備を整え、じっと夜明けを待つ。
月明かりだけを頼りにこの崖に挑むのは、危険すぎる。相手は谷を根城にしているかもしれない。そうなれば、地の利は向こうにある。話では、罠が仕掛けられている可能性もある。
涼景は焦らず、慎重に備えた。
涼景の戦いは常に、守るべきもののためである。勝つことより、負けぬことを旨とする。
亜塵渓谷の西崖の上、涼景の組織した二十名の奇襲部隊は、静かに夜明けを待った。
対する東の崖の上。
南の山脈につながる林の中に胡断の息遣いがあった。
三年前、北の国・|千義《ちぎ》との戦いにおいて、本国から見捨てられた軍の成れの果てである。
彼らは、当時の戦いで、涼景率いる正規軍と相対した。蓮章の策略にはまり、涼景の勇猛の前に散った。本隊と分断され、さらに、偽情報によって信頼を失った。本国への帰還を望んだが、叶わなかった。策に翻弄された結果とはいえ、彼らの動きは千義の敗北を招いてしまった。失望した千義の王は、帰国を許しはしなかった。
国に戻れば、戦犯として断罪される。函に残っても、敗残兵として追われる身となる。
帰る場所を失った兵たちは、やがて一部が野党化し、いくつもの盗賊集団を結成した。そして、現在、胡断と呼ばれるまでに地に落ちた。
野党と成り果てても、訓練を受けた精鋭の一団は、他の盗賊とは格が違っていた。ひとりひとりの技量が高く、また、統率の取れた動きには、かつての軍隊の名残がある。
そこに目をつけたのが、夏史であった。
左近衛の副長として培った統率力は、この崩壊した兵団を見事に束ねた。
胡断には、涼景に対する恨みがある。夏史もまた、涼景をよく思っていない。利害の一致が、奇妙な協力関係を作り上げた。
夕泉を誘拐し、千義への手土産にするか、または、宝順を脅して千義との交渉に向かわせるか。夕泉を手に入れることは、自分たちが再び故郷に帰るための一縷の望みであった。
左近衛副長である夏史は、その立場から、夕泉の動きをよく把握している。それは胡断からの信頼を得るには丁度良い材料だった。
とはいえ、夏史一人では、胡断を完全に掌握することは難しかった。
話は通したところで、必要な人数を必要な場所に待機させるだけで、金も物もかかる。左近衛の備品は備拓が細かく抑えており、武器や鎧の流出は望めない。夏史の私財でどうにかなる規模でもなかった。さらに、協力した胡断への報酬まで賄うには、膨大な予算が必要となる。
いつもは五亨庵が抱えている金策の苦労を、夏史も味わうことになった。
そこで、自分よりも力のある賛同者を求めた。
蓮章が見抜いた通り、それが然韋がだった。経済的にも援助する力のある然韋は、夏史と胡断を支え、計画の実行を後押しした。
夏史とて、自分が然韋の駒に過ぎないことは承知していた。それでも、動かないわけにはいかなかった。備拓がいる限り、自分に未来はない。一度は涼景を使って備拓の暗殺を試みたが、あえなく失敗に終わっている。
夏史は次の好機を伺っていた。
涼景を亡き者にすれば、その失態に乗じて自分が右近衛に入り込む余地が生まれる。現在の右の副長・遜蓮章は、その素行の悪さを暴けばすぐにでも追放できる。右近衛の上官二席が空くことは、夏史の出世を意味していた。
この際、右派だろうと左派だろうと構わない。
もともと、夏史にこだわりはない。むしろ、備拓の硬い姿勢は息苦しく感じるほどである。
涼景の手から、歌仙親王付きの右近衛を奪ってやるのも面白い。
夜明け間近、うっすらと東の空に、白い暁の光が滲んでくる。夏史は谷底を振り返った。川の音がかすかに聞こえ、獣の声と、鳥のさえずりが、夜を遠ざけつつあった。
涼景たちの軍が、橋の倒壊に阻まれ、北の道を避けて南へ下っている事は、昨日の夜、対岸から密偵が明かりの信号で知らせてきた。正規軍親衛隊に潜り込ませている手の者は、うまくことを運んでいるようである。
その調子で頼むぞ。
夏史は腹の底で低く笑った。涼景さえ消えれば、自分の道が開ける。
夏史の行動は第三者からは、明らかに政治的な策略と言えた。だが、裏には夏史の個人的な執念が込められている。
夏史は、白く照らされた崖を睨んだ。
涼景さえいなければ、自分がこんなに惨めな思いをすることもない。悪党のような真似をして、盗賊と組むことも、権力者に迎合する必要もなかったはずだ。何もかも涼景のせいだ。
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