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14 五里霧中(2)
夏史の思いは、いつしかすべて涼景に結びつき、大義名分として己を封じた。誰にも何も言わせない。言われる筋合いは無い。
孤独の中で夏史が選んだ夜が、ゆっくりと明ける。
その夜は確実に朝へと引き継がれ、激戦の火蓋が切られようとしていた。対岸に変化が見られたのは間もなくだった。旧道の入り口あたりに何人かが動いている。荷車が連なり、それに沿うようにして人影が並ぶ。遠目にも、商隊であることがわかる。
橋を落としたせいで、行商人も道に困っている。北の道では、日がかかりすぎる。それを避けて、南へ下る者がいてもおかしくはない。商人たちの一団は、崖の上で立ち止まり、列を作ったまま並んでいる。その隣に、武装した正規兵と思われる人影が見えた。
正規兵たちは、何やらしきりに商人たちと話をしているようである。谷は沼地で、足場も悪い。荷車で移動するには不自由だろう。谷の危険性を説いているようだが、商団の先頭の男は、首を横に振ってばかりいた。散々もめたものの、結局そのまま、商人たちは切り通しの道へ降りてきた。
崖の半分より下は霧が溜まって、何も見えなかった。
夏史は、じっとその一行を目で追った。先頭に一人、二人、代表者と思われる者が道案内をしている。
崖の切り通しは一部分が崩れ、荷車がようやく一台通れるかどうかの細い道である。合わせて三台の車が、一列になって人を挟みながらゆっくりと斜めに切り通しを下っていく。道を確かめる者、荷車を引く者、後ろから支える者、皆、それぞれに足元に集中している。
少し上に目を向けると、道の入り口あたりに兵士たちが何人か立ち、その後ろ姿を見送っていた。兵士たちのさらに後ろには陣を張っている様子が見られたが、大きな変化は無い。炊事の煙がいたるところで立ち上り、静かな気配である。
涼景はどこだ?
夏史は目を凝らしたが、それらしい人物は見つけられなかった。
商人たちが谷を渡りきれるかどうか、確かめてから軍を動かすのか、それともこの谷を実際に見て、北に転じることに変えたのか、涼景の判断がすべてを決める。密偵からの新しい知らせはまだ無かった。
夏史は商人たちの動きと、崖の上の陣営の気配とを見比べた。夏史たちが今潜んでいる森の中には、数台の投石機が隠されている。大掛かりで、数は打てないが、その破壊力は絶大だ。西面の崖を狙い、道を崩すことができる。切り通しを潰し、谷底に降りた正規軍を孤立させるための手段である。
投石機の射手を除き、胡断はすでに闇に紛れて谷底へと降り、西の崖近くで奇襲をかける用意がある。
夏史は対岸を見た。商人たちは、斜めの切り通しを端まで行くと、そこから苦労しながら荷車の向きを変え、次の坂道へと進めている。ところどころで崖崩れが起き、バラバラと石が谷底へ落ちて行く。
あそこを軍馬で通ることは難しいな、と夏史はふっと思った。もし涼景たちが馬で降りてくるのなら、まさに狙いどころである。投石機は道を潰すだけではなく、切り通しを行く軍隊そのものを狙うこともできる。道が途絶えれば、援軍もない。涼景さえ潰せば軍は統率力を失うだろう。
涼景の性格を、夏史はよく知っていた。危険なところには真っ先に飛び込んでくるやつだ。いざ進軍となれば、先頭を行く者が、涼景であることに間違いは無い。夏史の唇にわずかに笑みが浮かんだ。積年の恨みを晴らせる。妬みを昇華できる。夕泉親王の担当である近衛副隊長が、その警護対象の夕泉親王自身を囮にする。何なら生死は問わないときている。
あの能無しの親王には、十分な幕引きだ。最後くらい俺の役に立て。
夏史の胸の内には、忠誠心はなかった。
日が昇る前に、玲凛と暁隊の面々は、真っ白に霧が立ち込めた谷に展開していた。前日、東の崖を降りる際、道々で既に仕掛けは仕込んである。玲凛は岩陰に身を潜め、じっとしていた。そのすぐそばには慎の姿がある。さらにその奥に旦次と、二名の若手。皆が、息を殺している。残りは二つの部隊に分けて谷底に散り、それぞれに凹みや木陰に身を潜めている。そうして獲物が現れるのを待つ。
玲凛の表情は険しい。それは狩りを控えた緊張感というよりは、何か気に入らないことがあるという顔である。慎はそっと声をかけた。玲凛はポツリと答えた。
「人の気配がする」
慎はあたりを見回したが、特に異変には気づけない。霧のため、広く周囲の状況はわからないが、それでも話し声などは聞こえない。玲凛は厳しい顔のまま、
「昨日の夜、誰かがいた気がする」
「本当に人か?」
どこか冷やかすように慎は言った。玲凛が人ならざるものを見るという話は、蓮章からも聞いている。玲凛は首を横に振った。
「あれは、生きた人間の気配」
「どうする? 間違って、人を狩っちまったら」
奥から旦次が、控えめに声をかけた。
「この場所を選んだのは、人が通らず、巻き添えがいないからだろ。もし誰かに怪我でもさせたら、俺たちが仙水にぶっ殺されるぞ」
凛の眉がぐっと寄せられる。
「そこなのよ」
玲凛はちらりと仲間を振り返った。
「万が一、誰か人が来た場合は中止するから」
「罪人に逆戻りは御免だ」
別の一人が肩をすくめた。似たような過去を背負っている者たちばかりである。玲凛は、一瞬止まってから、ふっと微笑んで見せた。そうやって笑っていると、本当に可憐で、どこの姫かと思うほどの気品がある。とても月夜に弓矢で狐を仕留める狩人とは思えない。
「大丈夫。導火線には私がつける」
玲凛は、手元の細い麻紐を見た。
「何かあっても、私の責任」
その一言は強かった。まるで涼景のような頼もしさを感じ、隊士たちの顔に、ほっと安心感が宿る。応えるように玲凛が力強くうなずいた。
そのやりとりを見ていた慎が、腹の中で呆れ返る。
こりゃ、女版燕涼景だな。
玲凛は再び谷の方へ目を向けた。彼女の導火線は、東の谷の切り通しに埋めた爆薬につながっている。その威力は、道を崩壊させる程ではない。ただ、音だけは大きく鳴るように仕掛けをしてある。
目的は鹿の群れだ。切り通しは森から降りてくる鹿の通り道となっている。岩に残されたわずかな蹄の跡、岩肌を這う蔓性植物の齧られた様子から、玲凛はそれを読み取っていた。
おそらく川の水を飲みに来るのだろう。霧が立ち込め、川底全体が曇っている。上の様子はわからないが、崖の中腹から下は、真っ白な霧の中だ。玲凛は、目を凝らし、耳を澄ませた。そして鼻をひくつかせた。霧の中の狩りは、歌仙でもよくあることだった。わずかな気配も察知できるよう、全神経を集中させる。
自然と慎も、隊士たちも息をひそめた。それぞれの鼓動だけが、静かに時を刻む。
玲凛は息を止め、あらゆる気配を感じ取った。その研ぎ澄まされた目は何も見ていない。視覚以外の感覚で、すべてを捉えていた。まさに全身で世界に触れる。玲凛という感覚器官が、白い霧の中で、わずかに動く生き物の刺激をすべて受け取る。
玲凛の感覚に何かが引っかかった。
持っていた種火を、そっと導火線の先に近づける。
チリリッと小さな音がして、導火線に火がついた。赤い点が麻紐をゆっくりと這っていく。やがて徐々に速度を上げ、その火は霧の中にちらりと光り、そして見えなくなった。玲凛が低く身を構えた。小さく数を数える。
八、七、六……
「三、二、一……」
次の瞬間、ドン、と揺らぎが下から突き上げる。東の岸壁から、激しく弾ける音が響き渡った。爆発音と重なるように、いくつもの蹄の音、いななきが当たりを満たした。白い霧の向こうに黒い影が踊る。鹿の群れが混乱し、崖の道から、何頭もが転がり落ちてくる。沼地のぬかるみにはまり、動けずにもがく泥の音がする。
「今!」
玲凛の声が飛んだ。全員が立ち上がる。
「角と脚に気をつけて。こっちが死ぬから!」
まっ先に玲凛は飛び出した。一瞬、遅れて他の者たちが続く。それぞれ、手にはとどめを刺すための短い槍が握られている。
目についた一頭の首を、玲凛が突き刺した。しっかりと刃を収め、ひねって息の根を止める。動かなくなるのを確認してから、次の一頭を狙う。
だが、混乱している鹿たちは、やみくもに周囲を駆け回る。隙をつかれて、一人の隊士が鹿の角を受け、地面に倒れた。玲凛はすぐにそちらへ駆け寄り、周りを跳ねていた鹿の脇腹に体当たりを食らわせ、横倒しにした。
「立って!」
隊士は玲凛が差し出した手に体重を預けて、立ち上がった。鹿の跳躍で腹を踏まれれば無事では済まない。
ぬかるみで動けなくなった鹿の首筋に、玲凛は次々と槍を突き立てた。返り血を浴びることもいとわない。鹿ともみ合いながら一頭、また一頭と確実にとどめを差していく。
白い霧の中に、水音といななき、叫び声と血しぶきの赤が入り乱れ、戦場さながらの生臭さが、朝日の届かぬ谷を満たした。
突然に対岸から響いてきた爆音に、西の崖を降りていた商団が足を止めた。自然に崖が崩れることはあるだろうが、今の音は確実に火薬のものである。
商人を装った隊の先頭にいた涼景が、素早く音の方へと目を向けた。霧に包まれた谷底から、何かが聞こえてくる。それは人と人が争う音なのか、獣同士の争いの音なのかわからない。遅れて、火薬の匂いが漂ってきた。
涼景の目が素早く雲霧の上を走り、さらにその向こう、東側の崖の上へと転じられる。ちらりと人影が動くのが見えた。
「荷車を立てろ!」
指示が飛んだ。商人に扮した兵士たちが、一斉に荷車を横向きに持ち上げる。車輪のいくつかが道から落ちて、荷台がガタリと斜めに傾いだ。すぐに荷台の下にもぐりこみ、底板を押し上げて支える。それとほぼ同時に、頭上で激しい音が始まった。
大きな空気の切り裂き音。そして頭上の崖に重たいものが衝突する。それが投石器から打ち出される岩であることが、戦場の経験からすぐにわかった。崩れ落ちる崖の破片が降り注ぐ。瞬く間に、聴覚を麻痺させるほどの音が続けざまに響き、彼らの上に容赦無く岩塊が崩れてくる。
荷車の底板に亀裂が入り、倒壊を覚悟したころ、ようやく音が静まった。石を浴びる難を逃れたが、今来た道は完全に潰されていた。引き返すことはできない。
「降りるぞ!」
居場所を掴まれている以上、じっとしているわけにはいかなかった。
涼景の指示で皆が素早く動く。鍛えられている正規兵たちは、即座に指示に従うことができた。霧の中ならば、一時的であろうと姿を隠せる。
涼景はすでに縄の端を持っていた。皆が順に続きを握る。そうやって、全員が一本の縄を掴み、はぐれないよう霧の中を急ぐ。
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