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14 五里霧中(3)

 涼景はひたすら先頭を行った。足元の崩れやすい場所を避け、できる限り岸壁に沿い、安全な道を選ぶ。後ろの者も必ず同じ場所を踏む。  そうして谷底へ降り、ぬかるみの中に足がついた。思った以上に深い。膝下まで完全に埋まり、そこから引き抜くだけでも体力を要した。走り回って戦える場所ではない。獣に追われればそれまでである。  攻撃は東の崖の上からだった。となれば、敵が次に現れるのは東側である可能性が高い。もしくは、すでに別動隊が谷底に潜んでいるか。たとえ間近に迫っていたとしても、この霧では何も見えない。  涼景は耳を澄ませた。視界が効かない以上、ここで頼りになるのは音と匂いと風だ。  川下の方から、先ほどの喧騒がまた聞こえてきた。獣の声が確かに混じっている。だが、その合間に人の掛け声や怒鳴り声、叫び声。  涼景は、縄を握り締め、そちらへ向かった。崖から少し離れて、崩れ落ちてくる岩を避けながら、沼の中を歩いた。一歩一歩が重たい。音を頼りに川下へと近づく。  霧は、時とともに、徐々に薄れてゆく。川上の方から、新たに大きな音が聞こえた。泥の中を波のように、爆発の振動が伝わってきた。  涼景は足をとめ、川上に向いた。  川下の喧騒よりも、今の音の方が大きく届くのは、風向きのせいだ。  罠? 何を企んでる……  涼景の視界を、白い霧がより濃く一つ流れた。反射的に目が追う。   風が吹き、霧が散らされる。うっすらと霧の向こうに、何かが見えた。鬱蒼とした葦の切れ目に、人が何人か沼の中にうずくまっている。葦が大きく揺れ、その間を軽々と跳ね回っている小柄な人影がある。  やがて、その人影が、一頭の獣に飛びついた。まるで狂ったように跳ねるその背から振り落とされることなく、こちらへ近づいてくる。  一斉に、皆が息を呑む。  その影は、葦の原から飛び出し、川へ飛び込んだ。大きな鹿が水を蹴立てた。川底の小石は、沼地よりも足場が良い。流れに逆らって、鹿は川を駆け上がった。まるで、霧の中を舞い飛ぶように軽やかだ。鹿の背には、人が一人、角を両手で掴んで跨っていた。  涼景たちのすぐ脇を、川上の霧の中へ駆け抜けて行く。 「女だ!」  兵士が怯えた声で叫んだ。  女……?  涼景の脳裏に、野生の鹿によく似合う少女の顔が浮かんだ。 「勝手に谷に入ったから、仙女が怒ったんだ!」 「そんなことがあるか」  涼景は首を振った。 「仙女が爆薬など使う訳がないだろう。下手に動くな……」 「その声?」  川下の騒乱のあたりから、声が飛んできた。驚いて振り返ると、霧を掻き分けながら、大柄な男が近づいてくる。涼景は身構えた。羽織っている袍の下の刀に手をかける。 「待て、俺だ」  ぼんやりとした輪郭が形を成し、涼景は目を見開いた。 「……旦次?」 「やっぱり!」  旦次は無骨な顔に、満面の笑みを浮かべた。それから、首を傾げる。 「なんでそんな格好してるんだ? 商人かと思ったぞ」 「おまえたちこそ、盗賊にしか見えない……」  言って、涼景はハッとした。 「まさか、おまえたち、昨夜からここに……」  立て続けに火薬の破裂音と、獣の咆哮が轟く。  小さく、兵士が声を上げた。足元を見ると、川の水に大量の赤い血が混じって流れてくる。 「旦次、何が起きてる?」 「何って……ただの狩りで……」 「ただの狩りなら、どうして崖の道を崩した?」 「崩してない。ただ、鹿を脅すための爆竹だけ……」 「投石器は? 西の崖を潰しただろう?」 「……西には行ってない」  涼景の頭の中で、最後の欠片が、かちゃりとはまった。 「旦次、すぐに一緒の連中を集めろ! 敵襲、胡断だ!」 「わ、わかった!」  旦次は慌ててもと来た方へ戻っていく。代わって、気まずそうに慎が歩み寄ってきた。涼景が反応に窮した。 「言い訳はしない……」 「とりあえず、『蓮』。力を貸せ」  慎はちらっと川上を見た。 「凛はどうする?」 「理解した……」  涼景は小さく自分に呟いた。 「俺たちは、凛の指揮で動いていた。あいつは今、川上の別働隊の加勢に向かった」 「鹿に乗ってな」  涼景は額を抑えた。 「放っておけ。死にはしない」  突発的な状況の変化に、涼景はどうにか追いついたものの、安堵と緊張が同時に湧き起こるのを感じた。 「何が起きている!」  苛立って、夏史は振り向きざまに投石機の胡断を怒鳴りつけた。  静かに商団の行方を見守っていたさなか、突如として足元の崖に爆薬の攻撃を受けた。  いつの間に、あんなものを仕掛けた?  涼景たちが対岸に到着するより早く、自分たちはここへ来ていた。他に通った者もいなかった。  しかし、今は実際に攻撃を受けたという事実が重要だった。  幸い、道は寸断されるほどではないようだ。  夏史はすぐに商団の退路を断つよう、投石を命じた。  すでに崖下に、涼景たち正規軍が潜んでいる可能性がある。  援軍を阻止することが優先だった。  射手たちが投石機を操り、見事、西の切り通しを破壊する。脆い岸壁が次々と崩れ、霧の中へ散っていく。粉塵がおさまると、夏史は顔を歪めた。  荷車がすべて、こちらに腹を見せて倒されていた。明らかに、ただの商人ではなかったことの証明だった。 「奴らが来るぞ!」  夏史は投石機についていた数名の胡断とともに、東の崖を駆け下りた。  半ばを過ぎたあたりから霧が濃くなる。自然と速度が落ち、焦りは募るが動きは鈍い。  川上から、何やら人の叫び声がした。 「奴らと出くわしたか!」  夏史は自ら剣を抜いた。切り結ぶ覚悟がある。だが、あまりに条件が悪かった。  霧で視界が利かない。地の利もない。足元は泥沼で一歩進むのも辛い。  近衛としての腕前は確かな夏史ではあったが、野外戦となるとその力量は怪しかった。それでも、先へ進むしかない。  昨夜のうちに、胡断の二十余が川上の茂みに隠れているはずだ。崖を降りてきて、ぬかるみに足止めされた涼景たちを襲う手筈になっていた。  だが、先ほどの商団が涼景たちの変装だとしても、衝突するには早すぎる。  低く、唸る声がした。  人ではない。獣の咆哮である。それも、明らかに巨大な生き物の声だ。バキバキと湿った音がして、生木の裂ける悲鳴が聞こえた。重ねて、複数の男が何やら必死に叫び、さらに続いて、火薬の破裂音があった。 「一体、何が起きている!」  苛立つ夏史に答えられる者はいない。  突如、沼の泥を跳ね上げる鈍い音が断続的に近づいてきた。  霧の向こうに、動く影。確実に、夏史たちに向かってくる。 「何だ?」  思ったのと、答えがわかったのはほぼ同時だった。  突進してきた猪を、夏史は地面に伏してかろうじて避けた。  背後で一人が巻き込まれ、その悲鳴に、猪が崖に激突する音が被さった。  一瞬の出来事に、夏史は体が硬直した。  見通しも自由も利かない霧の谷底で、猪に襲われて最期を迎えるなど、冗談ではなかった。  崖下からの喧騒を聞いて、崖上の正規軍にどよめきが走った。  商人に扮した涼景たち討伐隊の後方が断たれ、明らかに何者かの介入と思われる攻撃の音が響く。  崖のきわにいた兵たちは身構え、徐々に奥へ後退した。  どのような場合にも、第一は夕泉の身の安全である。  涼景は全ての指示と権限を、湖馬に託していた。  何も起こらないことを祈っていた湖馬は、緊張に顔を引きつらせ、それでも精一杯の余裕と自信を装って、正規軍を見回した。  夕泉の天幕の周りに、親衛役の兵士を集め、取り囲むように見張らせる。その外側にも歩兵が輪を作り、全ての方位からの攻撃に備えていた。  崖下の混乱に乗じ、内部に動く者がいるやも知れぬ。その時は、攻勢に出よ。  涼景の残した言葉を、湖馬は何度も思い出していた。  年若く、経験も乏しい湖馬に、涼景は夕泉警護の総括を委ねてくれた。  応えたい。  想像もしていなかった自分の重責に焦りながらも、湖馬は平生な顔を繕って、兵たちの前に立っていた。  夕泉の天幕の警備を確認しつつ、自分はその列には加わらない。外側から全体を見回し、味方の動きに注意を払う。  天幕は、敵を欺くため、常に三棟建てらえている。  どこに夕泉がいるかを知っているのは、湖馬だけだった。  警護する兵士にも知らされることはなく、全ての天幕は等しく守られる。  湖馬はその中心に立ち、すべてを見回した。  そうしながら、ゆっくりと、後じさった。  一歩。  それは、何気ない動きに思われた。  また、一歩。  周囲を伺い、わずかずつ、一番南の天幕に寄る。  湖馬が見ているのは、天幕の安全ではなかった。注意深い二つの目は、兵たちの視線を注視している。  後退るように、また、一歩、別の方向へ動く。  自分を追う者を探す。  ちらり、とこちらを見る兵と視線が交差した。  だが、それに対して反応はせず、そっと、視界の隅に捉えるに止める。  湖馬は、その場の全体を見守るように見せかけながら、それぞれの天幕を背にし、徐々に位置をずらした。  やがて、固定の兵が浮かび上がってくる。  偶然ではなく、必然的に湖馬の動きを追う二名の兵。西の天幕を守る親衛隊だ。  あの二人か……  谷の底の喧騒が、かすかに聞こえる。  湖馬は、そっと剣を掲げ、無言で、太陽と大地の角度を見た。時刻を計るふりをして、わざと、大きく頷いて見せる。 「燕将軍からの指示です」  湖馬は西の天幕に近づきながら、 「陣の撤収に移ってください。急ぐようにとのご命令です。西天幕の親衛隊を残し、他の者はすべて急ぎ、工兵の援助に回ってください」  湖馬の命令に、南と北の親衛隊が動いた。  夕泉がいる天幕は西。  それを確信したのだろう、湖馬がわざと背を向けた隙に、二人の兵が天幕の帳をかき分けて中へ飛び込んだ。夕泉はすでに、どの天幕にもいなかった。 「天幕を潰せ!」  振り向きざまに湖馬が叫ぶ。  慌てて、親衛隊が次々と天幕を支える縄を切り落とした。仮支えの柱と薄紫の帳が中心に向かって崩れ落ち、中にいた二人の兵士が布の下でもがくのがわかった。 「捕らえろ! 密偵だ!」  天幕を巻きつけ、釣っていた縄で縛りあげる。最後に注意深く布を切り裂き、湖馬は兵士の顔を暴き出した。 「謀ったな、近衛が!」  片方が悪態をついて湖馬を睨んだ。 「俺じゃないです」  素直に、湖馬は首を振った。 「全部、燕仙水様の指示ですから」  そうか、こうやって涼景は恨みを買っていくのか。  湖馬は、複雑な気持ちで胸を撫で下ろした。

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