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15 泥濘の銀砂(1)
獣は一頭ではなかった。重低音の唸りと、それを引き裂く甲高い声。明らかに混乱した獣たちの叫びだ。再び大地がじんじんと振動し、草を踏んで泥を蹴り立てる音と激しい鼻息が大きく迫り、霧を割いて、黒くこちらに突っ込んでくる猪の群れ。
たまらず、夏史は脇へ這って突進をかわした。ぬかるみに足を取られ、すでに全身が無様に泥にまみれている。その背中を飛び越え、数匹の猪が駆け抜けざまに崖に激突して気を失う。
猪部隊など、聞いたこともない。
夏史は目が回った。これは自分たちへの攻撃なのだろうか。
猪がきた方角へ、夏史は目を凝らした。
「くそ、しくじったか!」
荒っぽい男の声だった。
自分たちに獣をけしかけて潰そうという魂胆か。
「馬鹿にしやがって!」
泥をかき分け、夏史は声の方へ進んだ。
だが、霧の先にいる人影は、自分たちより早く移動する。彼らが向かう先は、川の対岸らしかった。
追おうとして、足元がくらりと揺れる。体重を預けるはずの地面がずるっと崩れた。冷や汗が背に吹き出す。全身が硬直し、慌てて飛び退く。霧を払いながら、足場を確かめる。
しゃがみこむと、沼地の中に深い穴が空いていた。しかもその上には、葦を何重にも重ねて偽装し、霧の中では見分けがつかない落とし穴だ。
慎重に夏史は草を取り除いた。下の方で何かがうごめく。
「夏史様……」
情けない声がした。胡断の兵が四、五名、身を寄せ合うようにして、その狭く、深い穴底から見上げていた。彼らの体は、周りの土から染み出した水に、半分ほど浸っている。壁を這い上がろうとしたようだったが、泥はどこも柔らかく崩れてしまい、徒労に終わったらしい。
夏史は舌打ちした。
「こいつらを引き上げろ」
後ろをついてきていた胡断に乱暴に命じて、夏史は、先の方向へ目を転じた。人影はすでに跡形もない。よほど地の利を得ているか、周到な計画の上に動いているものと見えた。
「おい、ここにいたのは何者だ?」
夏史は振り向きもせずに、尋ねた。穴から這い上がりながら、一人の胡断が首を振った。
「わかりません。見た目は盗賊のようで……」
「盗賊が盗賊にやられてどうする?」
「ここに住み着いてる連中はいないはずですが……谷の仙女が守っているとか、祟りの噂もあって……」
「噂など、どうでもいい」
夏史の苛立ちは募るばかりだ。
泥だらけで引き上げられた者たちを見て、夏史はどっと力が抜けた。
いくら元正規軍でも、三年も経てば使えない連中か。
とはいえ、自分も部下を笑えるような身なりではない。とうに着物は泥にまみれ、重く水を吸って雫が滴っている。
背丈を軽く超える葦に四方を囲まれ、方向感覚も狂ってくる。そそり立つ岩壁と、川の水音だけが頼りだった。霧は未だに濃く、葦の隙間を白く染めている。
仙郷の谷。
そのような話を信じない夏史にとっても、好んで選びたい戦場ではなかった。
「とにかく、涼景を討つ。商人に偽装していた中に、間違いなく奴はいるはずだ。西の崖沿いを探して……」
その時、どこからか、声が聞こえた。
鋭い、女の声だった。
何人かが、ビクッと怯えて体を縮めた。
霧による視界の悪さと、川の音、岩壁の反響のために、位置がつかめない。
「もう、やめたほうが……」
怯えた声で、胡断は背を寄せ合った。
「俺たち、勝手に踏み込んで、崖まで崩したんだ。仙女の怒りに触れてもおかしくない……」
夏史は顔を歪めた。
「何を馬鹿げたことを。そんなものいるものか」
「しかし……」
もともと信心深い北方の民は、顔を見合わせてすくんでいる。
「さっきの声は、きっと仙女ですよ……こんな場所に、人間の女がいるわけがない」
「くだらん」
胡断たちを睨んで、夏史は吐き捨てた。
「怯えているから、物事が歪んで見えるんだ。さぁ、いくぞ!」
夏史は泥のついた頬を拭って、西へ踏み出した。
その後ろを、そろそろと、胡断が続く。
川の向こうの南西の隅には、胡断の別動隊が控えているはずである。西の崖を落ち延びてくる涼景たちを叩くために、葦の原の中に身を潜め、夏史の指示を待っている。
いいぞ。このまま、挟み撃ちにできれば……
夏史は必死に湿地を抜け、膝の深さの川に出た。
深さは脛の中程だが、水の勢いがある。流されないよう、四つん這いになる。
野戦経験のない夏史にとって、渡河一つも命がけだった。
どうにか川を超え、西の岸までたどり着く。霧の中に目をこらすが、あたりに涼景たちの姿はない。
と、水を蹴る音が響いて、何かが川の中をこちらへと駆けてくる。
白い霧の向こうから飛び出してきたのは、雄鹿の背に乗った少女だった。
薄い桃色の袍に見慣れない大太刀、黒く豊かな黒髪が霧に溶け、凛々しく神聖なまでに澄んだ表情が目に焼きつく。その瞳は強くきらめき、額には紅色の刺青が見えた。猛り狂う雄鹿の角を鷲掴み、まっすぐに前を見てこちらに駆けてくる。
何人かが川の中にへたり込んだ。その上を、大きく跳躍し、さらに上流の霧の中に走り去る。
皆が呆然とその姿を見つめていたが、やがて、誰ともなく、悲鳴を上げ始めた。
「やっぱり、仙女だ!」
「殺される!」
「夏史様、逃げましょう! ばちがあたります!」
夏史は驚きはしたものの、仙女話を信じたわけではなかった。毅然として前を向く。
「涼景を探す」
「夏史様!」
泣き声をあげる胡断の訴えを無視して、夏史は西の崖を目指した。
雄鹿を乗り捨て、玲凛は東の崖に急いだ。
先ほど上流から聞こえてきた爆音は、猪を追い落とすためのものに違いない。
沼地の悪い足場も、彼女にはさほど問題ではないらしい。草が密集した根元を狙い、すり足で体重を分散させながら素早く移動する。泥の色を見て深さを察し、沈みにくい道を見極める。静かに小刻みに後傾姿勢をとり、埋まった足は斜め後ろに引く。その動きは相当に慣れたものだった。
近くの草むらに隠れていた隊士が、ぎこちなく、のそのそと玲凛に近づいてきた。
「凛、すまない。爆薬で驚かせるまではできたんだが、穴に落ちなかった」
「走る方向を正確に狙うのは難しい。気にすることはないわ」
玲凛はフッと笑った。
「それで、どっちへ行ったの?」
「まっすぐ崖に向かったようだ。だが……」
隊士は玲凛の後ろを苦労して歩きながら、
「なんだか、人の声が聞こえた気がした。ここ、誰もいないんだよな?」
「そのはずだけど、さっき、川で、盗賊っぽいのを飛び越えた」
「冗談じゃない。俺たちは非公式で来てるんだ。人を相手になんかしたら……」
「戦いにはならないわよ。完全に怯えて戦意の欠片もない顔してたから」
玲凛は、猪を追い込む予定だった落とし穴の方をちらりと見た。
「あんたたちは、念のため、穴を確かめてきて。私、止めを刺してくる」
「一人で大丈夫か?」
「脳震盪を起こしているだろうから平気。万が一目が覚めても、あんたたちじゃ怪我するだけ」
遠慮のない玲凛の判断に、おとなしく隊士たちは頷いた。
蓮章が選んだ荒くれ者揃いだが、そんな彼らだからこそ、本当に実力のある者を見抜く本能は備わっていた。
玲凛は腰を落として姿勢を低めたまま、滑るように葦の間を抜けた。東の崖下の泥の中に四頭の猪が、転がっていた。
体を動かし始めているものから順に、首に槍を差し、血を抜く。できる限り皮は傷つけず、力強いが丁寧な所作で処理する。前足と後ろ足をそれぞれ二重に縄でくくり、それらをさらに縄で結んで肩にかつげるよう支度する手際は、熟練の猟師そのものだった。準備が整う頃、落とし穴を確かめていた隊士三名が、気味悪そうな顔で近づいてきた。
「凛、あの穴、誰か落ちたみたいだ」
「はぁ?」
玲凛は、早速一頭の猪を背負って、首を傾げた。言われる前から、隊士たちもそれぞれ猪の縄を肩にかける。ずしりと重く、さらに足が泥に沈む。
「踏み荒らしたような跡があった。獣の仕業じゃないってことくらいは、俺たちにもわかった。やっぱり、ここ、誰かいるぞ」
「さっきの情けない顔した奴らかしらね」
玲凛は眉を寄せた。
「とにかく、みんなと合流しましょう。そろそろ霧も晴れるし、もし、人がいるとしても、私たち、何も悪いことはしてないんだから、堂々と獲物をいただいて帰ればいいのよ」
「……落とし穴のことは?」
「……熊が冬眠してた穴ってことにしましょ」
玲凛は嘘とわかる嘘を提案した。
歩き出そうとして、玲凛はふと、足を止めた。じっと耳をそばだてる。玲凛の様子を見て、隊士たちも自然と沈黙した。
川の流れる音。草の触れ合う音。鳥の声が遠くから届く。
その合間に、玲凛には別の音が聞こえていた。
「馬の足音」
玲凛は、東の崖に掘られた道へと、目を向けた。
薄らぐ霧の向こうから、一騎の影が静かに道を下りてきた。危なげなく切り通しに馬を歩ませる技量は、野戦に長けた者の所作である。
玲凛は猪を担いだまま、馬上を見た。気難しそうな顔をした、初老の男だ。体格から、軍人である事は明らかだった。他に連れもなく、ただ一人のようである。こちらをちらりと見回したが、さして驚く風もない。
隊士の一人が、男の身につけた黒い布に気づいた。
「もしかして、左近衛?」
「それって、涼景様の?」
「いや、隊長は右。この人は左」
「それって、敵?」
「……どうなんだろう?」
隊士たちは顔を見合わせた。玲凛にはまだ、宮中の派閥のことはよくわからない。そして、この若い隊士たちも、深く考えたことはなかった。
男・備拓は、やれやれというように、頬を緩めた。
「もしや、おぬしらは、暁隊か?」
「尋ねるなら、そっちが先に名乗りなさい」
玲凛がいつもの調子で突っぱね、備拓は思わず苦笑した。
「どうやら、間違いなさそうだ」
西の崖下の胡断と合流した夏史は、彼らを後方に隠れさせたまま、徐々に川下へと向かった。
霧は、この時になって急速に晴れていく。
今まで自分たちを遠ざけ、不利に働いていた霧だが、ここで視野が開けると、それはそれで厄介だ。できることなら気づかれずに涼景たちの背後に近づきたい。
自然と夏史は急ぎ足になるが、急げば急ぐほど足音が立ち、泥に埋まる。
行く手に、涼景たちの一団が川岸で立ち止まっているのが目に入る。
素早く数を確認する。見える範囲では、向こうは二十。こちらは五十を上回る。
「燕涼景は俺が取る。援護しろ」
夏史は柄に手をかけ、腰をかがめた。風が草を揺する音に紛れ、胡断が周囲に展開し、涼景たちを囲い込むように動く。
夏史は、一歩踏み出した。そのつま先が、横に張られた縄に引っかかった。思わず足元に目がいく。
次の瞬間、鋭い音が頭上をかすめた。とっさに身を引き、泥の中に転がる。
近くの若木の枝が大きくしなって、夏史の頭があったあたりをなぎ払った。
玲凛が仕掛けた、熊用の罠だった。
「なんだっていうんだ!」
夏史が思わず声を上げ、その声に涼景が振り返った。
泥と格闘して立ち上がりながら、夏史は涼景を見た。向こうもまたこちらを視認した。視線がかち合う。
「おまえだったか」
涼景が柄を握る。夏史もまた構える。
二人の距離は互いにじりじりと縮む。だが、どちらも足場の悪さから、素早い動きには出られない。
互いに間合いに入っていけない、もどかしい時間が流れる。
涼景の周りの正規兵たちも同様で、それぞれに敵と定めた胡断と目を合わせるが、それ以上近づくことができない。
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