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15 泥濘の銀砂(2)

「夏史、改めて聞くまでもないが」  涼景は体勢を低くし、泥にまみれた夏史の顔をにらみつけた。 「夕泉親王の警護と知っての行いだろうな?」  夏史の表情は動かない。すでに覚悟しているのだろう。今更改めるつもりも見られなかった。 「俺に対する不満なら、このように手の込んだことをする必要もなかろう」  涼景は呼吸を整えた。視線だけは外さない。 「おまえの周りには、うるさい連中が多すぎるんだ」  夏史は投げやりな調子で言った。 「右近衛も、暁隊も五亨庵もお前に執心だ。特にあの色狂いの副長がそばに居られては、何かとやりにくい」 「だからここまでして、俺を孤立させたというわけか。随分、世話をかけさせたな」  涼景は、刀の柄から手を離さない。いつでも抜けるように構えつつ、ギリギリまでは引き寄せる。このような水場で刀を振ると、その水が仇となり、手が滑る恐れがある。ほんのわずかな判断が命運を分ける。野戦に慣れた涼景ならではの機転であった。 「さすがの蓮章も、ここまでは来られないだろ?」  夏史が、ふっと、余裕の笑みを浮かべる。蓮章の派手な素行は、たびたび夏史の不評を買うところである。同じ副隊長という立場で比べられることも多く、何かにつけて夏史は不快な目にあっている。  涼景は背後に気配を感じ、やや諦めにも似た表情を浮かべ、 「残念だが……」  静かに、横に体をずらした。 「俺の副長は、おまえが思うより、さらに執念深い」  言葉尻と同時に、弱い矢が、夏史の足元に突きたった。  涼景の背後に目を向けて、夏史は露骨に顔を歪めた。弓を構え、威嚇の一撃を放ったのは、灰眼を持つ遜蓮章である。 「おまえ、どうして! 天輝殿にいるはずじゃ……」 「馬鹿か?」  慎がニヤリと笑う。それはまさに、蓮章だった。 「皇帝と涼、どっちが大事だと思ってんだ?」  夏史の視線がそれ、動揺に集中力が切れた瞬間、涼景の間合いが決まった。  大太刀の一閃が、夏史の眼前を薙ぎはらった。  それが合図だった。二人の時間が早回しに進み始めた。夏史が振った刀は宙を裂き、涼景は引いた。追って、夏史が前のめる。足場の悪い水場での戦いに、二人の武人としての経験の差が露骨に現れた。  谷底の地形が二人の最大の敵であった。泥が深く膝下まで沈む。あたりに生いしげる葦が首を超えて視界を遮り、手元の動きを看取ることが難しい。周囲に流れる川は、雪解けの水量で、彼らの聴覚を翻弄した。  涼景の動きは、一つ一つが静かである。てっきり激しく打ち込んでくると思っていた夏史は拍子抜けだ。だが、それこそが、この場所で負けないための戦い方だった。  涼景は、数々の野戦を経験している。しかし夏史は常に宮中にあり、硬い地の上での戦いしか知らない。経験からくる冷静さは、勝機を招く。  その時、二人の戦況を左右する要因が、ゆっくりと動き始めていた。  涼景は、その変化を確かに感じていた。  じわじわと、視野が明るくなってくる。いつしか霧はすっかり消え去り、代わりに黎明の薄い光が気配を強める。時は間近だ。  涼景を守るようにとりまく正規兵も、皆、ぬかるみに苦戦していた。打ち合いの音も頼りなく、不安定な足元では自由が利かなかった。数の利がある胡断にも勢いがない。 「沼地を戦場に選ぶとは愚かな」  涼景は低く言った。 「兵を無駄死にさせる気か?」 「おまえに言われる筋合いはない!」   夏史は大きく前に出た。 「色で媚びて皇帝に取り入り、どこまでも堕落させるおまえには、崇高な志など理解できまい!」  涼景は下がり、姿勢を低く構えた。泥に足を取られないよう、俊敏さよりも、崩れないことを優先する。夏史との距離はそのままに、静かに一歩ずつ体の位置を変えてゆく。  その動きは夏史にもついてこられるほど、静かで鈍重だった。足裏に感じる泥の感触、そこに混じる小石、さらにその下の地盤。自分の立ち位置を、涼景は表情には出さぬまま、静かに探り続けた。  反して、夏史が頼ったのは視覚だった。背を超える葦に隠れ、泥の深みも見えないままに、涼景の姿だけを追う。思わず膝が伸び、体がぐらつく。葦の原には随所に窪地があり、不用意に動き回るのは危険だった。  自らが足場の悪い場所に誘導されていると気づかず、夏史は大きく刀を振った。涼景は上体を傾けて、その一撃を避けた。夏史の刀は外れ、同時に葦を切った。だが、切り裂くには及ばない。湿った刃は切れ味を落とし、草がいたずらに刀に絡みつく。振り払おうと地面を打った刀が泥を跳ねあげ、柄に飛び散る。それがどれほど危険なことか夏史にはわからない。  涼景は低く足元を払った。自分は動かずに腕だけで水平に夏史の足元を薙ぐ。避けようとして思わず後ろにつんのめり、夏史は体勢を崩した。顔を上げると、夏史の目の高さに、涼景の場所まで草が途切れ、直線に道が見えた。夏史の口元に、わずかに余裕の笑みが浮かぶ。  涼景の背後は川だった。沼地と変わらず、流れる水は戦うに不利であった。  涼景を追い詰めている。  夏史の判断が決まった。  全ては、涼景の策の内であった。  涼景は背後に川の音を感じ、さらに後ろに下がった。足で地面を探りながら、少しずつ慎重に、ずるようにして後退する。あえて草の密度が少ない場所を選び、夏史から自分が見えるように誘導する。  執拗に夏史は刀を振って水を払いながら、さらに涼景を追い詰めた。その一撃は不正確だが、刃が空を切る音は涼景の背筋を震わせるほど、威力を感じさせた。  大きく振った反動で、夏史は泥の中に手をついた。  今!  体を起こした夏史の刀を、涼景の刃先が高く打った。鋭い金属音が谷底に響く。泥で滑った手が耐えきれず、夏史の刃が宙を飛んだ。 「くそっ……」  涼景の剣先が夏史の喉元に迫る。このまま突き殺すことも可能な位置だ。だが、涼景は動かない。ただじっと夏史を見据える。  止めを刺すかと思われた涼景は、逆に一歩引き下がった。後ろ足が川との境界を踏む。この位置は泥が溜まりにくく、泥に立つより足元が確かになる。 「狙え!」  夏史が、号令を発した。  ざざっと音がして、草が押しのけられた。身をひそめていた胡断の軍勢が一斉に姿を現し、弓を構え、引きしぼる。  瞬時に敵の包囲を確認し、涼景は背を伸ばした。それはどこか、戦うことを放棄したようにすら見えた。 「やれ!」  夏史の声が飛ぶ。  弓の弦がギリギリと音を立て、十数本の矢が涼景を狙う。  はじめの弓弦が鳴った。  音を機に、涼景は足元を力強く蹴って、素早く川の中に身を投じた。わざと流れに任せてその場を離れる。だが、それは矢から逃れるためではなかった。  涼景が飛びのいた時、ちょうど東の崖の上に太陽が昇った。その光が瞬時に夏史たちの視覚を奪う。  まともに陽光を浴びて、彼らの矢は、でたらめな方角に飛び散った。体勢を立て直すのに、一瞬の隙が生まれる。  水の中の涼景の耳に、川の上を飛び越えて轟く咆哮が聞こえた。途端に、あたりの水が流れとは違う動きでかき出される。  何人もが川を駆け渡り、川岸で乱闘の声が湧き上がった。直接相手を殴りつける音が席巻する。  涼景は体を低めながら、そっと水面に顔を出した。旦次率いる暁隊の数名が、涼景の動きに合わせて葦原から飛び出し、胡断めがけて襲いかかっていた。  水が飛び散り、泥が跳ね、呻きが重なり、悲鳴が殴音で寸断される。  全身ぐしょ濡れの男たちが取っ組み合っている様子は、さながら、水路に落ちた酔っ払いの喧嘩のようであった。  暁隊の荒っぽさに、正規軍は腰が引けていた。  東の岸から、ばしゃり、と水音がひときわ大きく上がって、黒々としたたくましい馬が一頭、沼地をものともせずに飛び込んできた。涼景は目を見張った。馬上にいるのは、左近衛隊長・備拓である。 「仙水どの!」  状況を把握しているらしく、備拓はまっすぐに涼景のそばに寄った。 「詫びは後ほど。ご容赦くだされ。夏史は私が!」 「心得た」  涼景は水を払って立ち上がった。 「涼景様!」  備拓の後ろから、玲凛と、さらに数名の見慣れた顔ぶれが追いついてくる。涼景は頷いた。 「暁隊に命ずる! 胡断を捉えよ!」  涼景の令一下、怖いものはない。  霧と泥で思うように動けなかったった短気な男たちの、加減を知らぬ憂さ晴らしが始まった。  胡断はもともとが正式な軍隊であり、剣術や体術の訓練を受けた者たちである。かたや、暁隊は喧嘩屋上がりがほとんどの、型も道理も通用しない暴徒集団だ。泥濘の中での騒動となれば、どちらが|勝《まさ》ってもおかしくない。  玲凛が刀を抜いた。と、咄嗟に涼景はそれを横から取り上げた。 「待て!」 「どうして!」  玲凛はプッと頬を膨らませた。 「私もやりたい!」 「だからだ!」  涼景は呆れた。 「おまえは民間人だ。いくら胡断といえど、傷つければただでは済まない」 「そんなの、涼景様の権力でもみ消してよ!」 「おまえ、そういうことを……」 「あいつらだけじゃ、やられちゃうわよ!」  玲凛は葦の中でもみあう連中を指差した。背丈を超える葦は踏み荒らされて、随分と視界が広がっている。暁隊と正規兵を合わせても、胡断の数にはおよばない。頼りの備拓は、夏史を生け捕ることにかかりきりである。  涼景は一歩踏み出した。 「俺が行く」 「だったら私も……」 「だから、おまえは!」 「おい、仙水! 遊んでねぇで、手を貸せ!」  旦次が二人を相手に取っ組み合いながら、こちらを怒鳴りつけた。 「私が行く!」  玲凛が涼景を追い抜いた。 「素手ならいいでしょ!」 「そういう問題じゃ……」  玲凛の目が、ギシッと音を立てるほどに険しくなった。涼景の行く手を遮り、口付けるほどに顔を近づけて見上げ、 「慎のこと、ばらすわよ?」  その迫力に、涼景はわずかにのけぞり、間ができた。  玲凛はにこっと笑って踵を返すと、川の水を蹴立てて走り出す。身軽に岸へ駆け上がり、旦次に覆い被さっていた男の上に飛び乗った。異様な音がして、明らかに何かが砕けたのがわかった。  涼景の片方の眉が、ぴくりと動いた。  日の出直後の美しい渓谷は、瞬く間に戦場と化した。  涼景は素早く戦況を見た。  真っ先に探すのは備拓と夏史の姿である。夏史は泥濘に足を取られ、相当に体力が落ちている。動きが鈍くなり、起き上がるのも苦しそうだ。一方、備拓は、かつて正規軍で腕をふるったとあって、地の利を生かした戦い方ができる。ただし、重ねる年齢のため、長時間の戦闘には耐えられそうもない。  一進一退の攻防が続く。その合間に夏史に味方する胡断の援護射撃が飛ぶ。精度は低く狙いは定まらないが、備拓にとっては負担となった。 「弓を抑えろ!」  涼景の声が、正規兵に届いた。  泥をかき分け、十余名の兵士が胡断の弓兵に突撃した。接近戦となり、やむなく互いに刀を使うが、泥で滑って思うようにならない。たとえ刃が当たっても致命傷には至らず、怪我だけが重なる。死には届かず、ただうめき声が満ちた。混戦の中、血と泥が混ざり合い、傷口がさらに痛む。早くに決着をつけなければ、どちらの軍も被害は甚大となる。  涼景の目が暁隊を探した。 「こんなぬかるみで、刀なんか役に立たねぇ」  荒事に慣れている旦次は、とうの昔に刀を捨てていた。旦次に習い、隊士は拳や肘、膝を武器に、肉弾戦に切り替えている。胡断が身に着けている鎧は軽装で、その隙間に打撃を与えることができた。

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