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15 泥濘の銀砂(3)
暁隊が奮闘する中、どこから引きずってきたのか、玲凛が大枝を手に立っていた。彼女のやることは、何もかも、周囲の予想を超えている。
「喰らいな!」
玲凛の声に、隊士たちは反射的に身を伏せた。
ぶん、と不穏な音をたてて、玲凛は泥を塗りたくった大枝を振り回した。容赦無く泥の葉が胡断の顔面に叩きつられ、目潰しを食らって悲鳴が上がった。正規兵も二人ほど巻き込まれたが、気にする玲凛ではない。暁隊は素早く立ち上がると、胡断に体当たりして泥の中に突き飛ばした。
泥で滑らせ、転ばせ、体重を乗せて顔を地面に押し付け、気絶を狙う戦法である。致命傷には至らぬよう注意しながらも、敵を無力化してゆく。黙らせることだけを目的とした、経験と慣れの見える戦い方だ。
玲凛と暁隊の実戦に特化した実力に、涼景は胸が高鳴った。
周囲の状況を把握しながら、涼景自身は備拓の援護に回った。外から襲ってくる胡断を一人、また一人と泥に沈める。
自分が夏史に危害を加えるよりも、左近衛の中で決着をつけた方が良い。備拓の意図に沿い、夏史との一騎打ちを邪魔する者を排除する。正規兵と暁隊の隙間で、涼景は臨機応変に立ち回って戦況を左右した。
泥沼での戦いは、長くは持たない。互いに体力の限界が訪れ、やがてどちらからともなく戦意が失せて、最後には皆、泥の中にうずくまる。玲凛までが息を切らし、どっぷりと座り込んだ。
備拓が、既に顔もわからぬほど泥で汚れた夏史の喉元に、刀を突きつけ、荒い息を整える。それ以上抵抗する力も尽きて、夏史は朦朧と膝をついた。決着である。
涼景は息を荒げながら、夏史を後ろ手に縛り上げた。
旦次の指示で、暁隊が次々と動けなくなった胡断に縄をかけていく。正規軍は敵味方なく、怪我人を川に運び、流水で傷を洗った。
深呼吸を繰り返しながら、玲凛が涼景に近づいてきた。二人とも全身に泥を浴びていたが、目立った傷はなかった。玲凛は備拓を見た。
「おじさん、こいつ、どうするの?」
備拓は静かに刀を納めた。
「私が責任を持って都に連行する。そのあとの処断も任せてもらいたい」
涼景は頷いた。
「私たちはここで、予告通りに胡断の襲撃を受けた。だが、偶然居合わせた暁隊の協力も得て、それを退けた。崖の道を復旧次第、都に帰還する。ここでは他に、誰にも会ってはいない」
涼景の語りは、互いの口裏である。
「承知」
備拓が頷いた。
「なるほど。『真実』って、こうやって作られていくんだ」
妙に納得した顔で、玲凛は腕を組んだ。
今日、何があった?
蓮章は遅れて昇った十六夜の月を見て、美しい目元を苦しげに歪めた。都にいては遠方での出来事が耳に入らない。本当なら慎を走らせたいところだったが、今朝から姿を見せていない。
「あいつ、肝心な時に使えねぇ」
自分も玲凛に同じこと言われた、と思い出し、何とも言えない複雑な心境になって、考え込む。
左近衛はおとなしく蓮章の指示を聞いてくれた。たとえ腹の中でどう思っていようと、任務においては無表情で従うのみである。
蓮章は近衛たちと目で合図を交わしながら、一通り天輝殿を巡った。石の間のあたりは、今夜は幸い、静まり返っている。
何かが起きる時、この部屋は世界から切り離され、中の出来事はすべて抹消される。そして、赤く色づいた水が排水溝を流れてくる頃、誰かの嘆きと呼吸が尽き果てる。
涼景が初めて傷つけられた時から、数え切れないほど、蓮章は扉の向こうを恨んできた。
月に幾度となく、いたずらに宝順は涼景を呼び出した。それは、右近衛の警備中であることさえあった。
部下たちは、屈辱を受ける涼景の声を石の反響で聞かされ続けた。
ただ一人、それを聞くことのない近衛がいた。それが、蓮章である。涼景は、自分が天輝殿に呼ばれる時は必ず、何かの用事を言いつけて、蓮章を宮中から遠ざけた。
蓮にだけは、見られなくない。
何が起きているか、蓮章が知らないはずはないのだ。それでも、涼景はその話題に触れることを頑なに拒んだ。
知らないふりを、していてくれ。
それは命令ではない。友としての、頼みだ。
蓮章にとっては、辛く耐え難い願いだ。
もっとも支えたい時に支えることを望まれない悲しみを、長く、蓮章は味わい続けてきた。
なりふり構わず、すべてを打ち明けてくれたら……
そう思っても、蓮章は踏み出せなかった。傷ついた涼景を目の前にすれば、激情のあまり何をしでかすかわからない。それは蓮章自身も自覚する危うさである。
涼景は我が身より、蓮章の暴走を案じていた。
「いつまで続くんだ」
思わず蓮章は呟き、自戒を込めて首を振った。
天輝殿の中庭から後殿を一周巡って、正門に戻ってくる。月が少し高く上がる。
入り口正面の大階段の中ほどに、ひときわ目立つ、いかつい金色の甲冑姿の男が立っていた。禁軍大将・然韋である。普段なら近づくことも望まない蓮章だが、この時にはふと、その先の光景に目が向いた。
然韋に向かって、早馬が駆けてくる。興味が湧いて、蓮章は足音を消し、警備の確認を装って数歩近づいた。
馬の使者は階段に降り立つと、然韋の前にひざまずいた。ひどく息を切らし、その着物は乾いた泥にまみれていた。
使者は声をひそめた。
「渓谷にて、夏史様、胡断、ともに惨敗とのこと」
しばらく然韋は何も言わなかった。かすかに空気が張り詰めるような気配があった。
「続けろ」
然韋が促した。
「備拓様が、夏史様をお捕らえになりました。都に連行するとのことです」
「続けろ」
追い詰めるように、然韋が繰り返した。答えるたびに、使者の声は震えてゆく。
「夕泉親王殿下はご無事。燕将軍の警護の下、三日後、都に帰還の予定です」
絞り出すように、使者は言った。
「そうだ、結果だけでよい」
使者の皮鎧が、ぎゅっと擦れた音を立てた。背中で聞いていた蓮章は、半歩体を引いて、二人を振り返った。使者は蓮章など眼中になく、ただ哀れなほどに震えていた。後ろで疲れ切った馬が鼻を鳴らした。
「下がれ」
然韋の声が低められ、使者は逃げるようにその場を離れていった。
蓮章はその後ろ姿を追い、それから横目で然韋の表情をうかがった。足元を睨みつけ、明らかに不満そうである。蓮章は一つ、ゆっくりと息を吐き出し、それから必要な分だけ胸に吸った。そして少し目線を高く上げ、月を眺めた。
「夜の帳のその裏で、真実は幻のごとく消え」
言うと、不敵な笑みを浮かべ、然韋に近づいた。さやさやと着物の裾が鳴る。
「今夜は、良い月が昇っているというのに、将軍閣下のお顔の曇りようときたら、まるで腹の虫が収まらぬご様子」
薄水の絹の長袍を重ね着て、濃紺の帯に金の紐を絡め、髪を風に解いて腰をひねり、蓮章は斜めに立った。挑発か悩殺か、あるいは両方か。近衛副長とは思われない身のこなしはいつもの事である。
然韋は対照的に重たい金属の鎧で固め、厳しい顔で蓮章を冷たく一睨みしただけだ。堅物の然韋には、蓮章の所作はひたすら鬱陶しい。
「遜梨花。貴様にとやかく言われる筋合いはない。年がら年中、劣情にうつつを抜かす快楽主義者に、世の重みなどわかろうはずもない」
それはそれは、と蓮章はわざとらしく肩をすくめて見せた。然韋の声色は静かだが、語る敵意は遠慮がなかった。
「色に狂って俺の耳がおかしくなったかな? 今、いい知らせが聞こえたようだが」
蓮章は自らの肩を抱くように腕を組んだ。その仕草はまるで、自分を売り出しにかかっている男娼のように色気がある。そばにいた左近衛が、ちらちらと様子を覗き見る。噂に高い美貌の右近衛副長に、若い衛士は興味があった。
だが、然韋には全く効果がない。むしろ、嘲られるばかりである。
蓮章は、使者が駈け去った方に、伏せた眼差しを向けた。
「夕泉親王がご無事に都へ戻られるとか。こいつは宴席の支度に忙しくなるというもの。だというのに、ずいぶん浮かないご様子なのは、宴の警備が負担だからですかな?」
「おまえのように、享楽に溺れた者には、政治の真意を察する知恵もあるまい」
柳の枝の風になびくが如く、然韋は蓮章の嫌味をやり過ごした。蓮章は涼しげに目を細めた。
「控えめな言い方がお気に召さないなら、配慮などせず申しましょう。……涼が手際よく収めてしまったことが気に入らなくて、声も出ぬほど悔しい、か?」
「手腕は認めている。だが、結果さえ出せば人としての節操を失ってもよいという理屈は、到底受け容れられぬ」
然韋の口調は変わらずに静かだが、明らかに憎悪を増して睨みつけた。クスッと、蓮章は聞こえるように笑い声を立てた。
「節操などを気にしていては、恋などできぬ。将軍様は体ばかりか心も硬いと見える。|閨《ねや》の心地も、涼の勝ちだな」
「遜梨花、貴様などに懐くとは、奴も相当に世が見えていないようだ。春に狂って旅を忘れたツバメは、そろそろ殺してやるのが情けと思わぬか?」
蓮章は流し目を一つ送り、
「そいつはかわいそうだ。俺に懐くのは、俺の魅力の罪なのだから」
「狂いツバメが中枢に居座るゆえ、貴様のように性根腐った者までが周囲に巣食う。国家の健全を望むならば、手段は問わぬ」
禁軍をまとめる将軍とあって、然韋は蓮章の軽口に立てる腹は持ち合わせていない。動揺一つ現さず、威厳を損ねず、淡々と対した。
「さすが剛健なる将軍様。風雅を思う隙もなく、国と歴史を思うていらっしゃる」
蓮章もまた一切動じない。余計に皮肉たっぷりに笑って見せる。
然韋はふっと目をそらした。
「貴様らの営みは、風雅などではない。下劣で堕落した肉欲にすぎぬ」
「では、どうぞ、皇帝陛下に直々に訴えられればよろしかろう。『陛下は愚かな劣情に心奪われ、目が曇っているのだ』と。涼をお求めなのは、陛下の方なのだから」
蓮章の口ぶりはあくまでも軽い。だが、その裏には隠しようのない憎しみがありありと感じられた。蓮章は然韋を見据え、
「諫言を口にできぬのであれば、将軍様もまた、我々と同じく堕落の沼に沈む下賤ということ」
「笑止。己が身をわきまえよ」
言葉の剣戟が火花を散らし、そばで伺う左近衛は体を縮めた。
涼景ならば、然韋にこれほど嚙みつきはしない。何を言われようとも黙って素通りし、距離を置いた。反して蓮章は自分から火の粉を撒きに行く。それは時として、周囲の無関係な者にまで飛び火する。
涼、さっさと戻れ。俺が本気でこいつを殴る前に。
蓮章は悠然とした表情を浮かべつつ、長く垂らした袖の中で血がにじむほどに拳を握りしめていた。
然韋の言うことは正論だ。
涼景がどんな手段で地位を得たか、宮中の大抵の者たちは承知していた。
それらはすべて事実ではあるが、我が身のためにしたことではない。涼景の傷は何もかも、愛する者を守った証だった。
涼景の境遇に同情の目を向ける者がいる一方、然韋のように毛嫌いし、排除を望む連中も少なくない。
特に、嫉妬は激しかった。
涼景は、その若さ、家柄に不釣り合いな権力を得て、今なお、宝順の寵愛が厚い。
もとはといえば、宝順の方から仕掛けた取引である。涼景に断ることはできなかった。身を削り、耐える涼景は被害者とも言えた。だというのに、敵意は宝順よりも涼景に向けられる。
蓮章としては、それがあまりに腹立たしい。
たとえ望まれずとも、おまえの尊厳だけは、俺が守る。
蓮章の左目が、月光を映して白く鋭く瞬いた。
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