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16 情の庵(1)
犀星の私室で、玲家の三人は額を付き合わせていた。
それぞれの前には暖かな茶が湯気を立てている。だが、皆、その湯気のゆらめきを見つめるばかりで、手を出そうとはしない。
重苦しい空気が三人の上にのしかかっていた。
「事情はわかりました」
玲凛が、いつもよりも大人びた静かな調子で言った。
「つまり、その紀宗とか言う男は、陽兄様を殺さなければ、五亨庵の力が失われるとか、都の状態が悪くなるとか、好き勝手に脅したということですね」
「若干の悪意はあるが、言う通りだ」
犀星は慎重に言葉を選んだ。
「紀宗が言った事は、完全に間違いではないと思う」
犀星は正確なところを探った。
「彼は五亨庵が建造された時から関わっている。あの場所には五つの特別な力が集まり、それが大きな結界をなして、災いから物事を守っているそうだ」
「それは、私にもわかりました」
玲陽は、いつもより白っぽい顔で、頷いた。
「初めて五亨庵に入った時、確かに不思議な感じがしました。それがなんであるかはわかりません。けれど、守られている場所であることは確かだと思います」
玲陽は、一度そこで息を切ってから、続けた。
「一度だけ、五亨庵の中で傀儡喰らいをしたことがあります。浄化の時、何かが力を貸してくれている感覚がありました。もしかすると、五亨庵が味方してくれたのかもしれません」
玲凛は、じっと話を聞き、時折、護符を指先で撫でた。
「星兄様。今まで、五亨庵で傀儡を見たことはないんですよね?」
「ああ」
犀星は頷いた。
玲凛は玲陽に似た面差しで、しん、と考えに沈んだ。
玲家は女性が家督を継ぐ。
そのため、玲家に伝わるあらゆる知識や技術を学ぶことができるのは、玲凛のみであった。玲陽も概略は教わったものの、詳しい内容は伏せられていた。犀星に至っては、敷居をまたぐことすら許されていなかった。
玲凛の知識は、現当主である玲芳と同等である。
「あくまで、推論ですが」
玲凛は、普段の軽い語り口が嘘のように、神妙な顔で、話し始めた。
「はっきりしているところから考えていきましょう。まずは、陽兄様の背中の火傷のことです」
玲陽のこめかみがピクリと動く。
「花街の女郎に同じ焼印が押された話を聞きました。私も直接、その被害者の体を見せてもらいました。あれは、吸魂の印。周囲の傀儡を引き寄せるものに間違いありませんでした。陽兄様のものも、同じだとおっしゃいましたね?」
玲陽は、そっと玲凛に背中を向けた。
何も言わず、犀星がその襟を緩め、玲陽の着物を滑らせて、背中の傷を玲凛に示した。
古い火傷の痕は周囲の皮膚よりさらに白く浮き出し、盛り上がり、表面は艶を帯びている。くぼみは青黒く変色し、赤い斑点が全体に散っていた。|惨《むご》さに目を背けたくなる。
玲凛は膝をずって、玲陽によると、印の形を確かめた。
「傷が古く、若干の変形は見られますが、同じものに間違いないです」
「では、これが、傀儡を吸い寄せる、と?」
声を震わせ、玲陽は囁くように言った。玲凛は小さく頷いた。
「陽兄様が歌仙を離れてから、あのあたりの傀儡が激減しました。今では、参玲家も他の人たちも、普通に暮らすことができるようになっています」
犀星は着物を直してやりながら、励ますように玲陽の胸元に手のひらを当てた。玲陽は肩を落とした。
「やはり、私のせいでしたか」
「正確には、その焼印を押した奴が悪いんです」
玲凛はやや語気を荒げた。それからまた、落ち着かせて、
「陽兄様の傀儡を引き寄せる力は今もなお、残っています。しかも、女郎たちとは違い、その影響力はとても大きいです」
「しかし、それなら、もっと傀儡が現れても良いようなものだ」
犀星は玲陽の頬を撫でて、玲凛を見た。
「はい。星兄様のおっしゃる通りです。けれど、そうならないのには訳がある」
「それが、五亨庵、か?」
「おそらく」
玲凛は、三つの湯のみと、二枚の茶托を、三人の真ん中に五角形に並べた。
「五亨庵には、五つの石があると言いましたね? おそらく、それは、五行の力を司っている礎と考えられます。火、土、金、水、木。宮中のような情念渦巻く場所にあって、星兄様が今まで被害を受けてこなかったのは、五亨庵に守られていたからではないでしょうか。そして、陽兄様がどんなに傀儡を集めても、自然と五亨庵の力がそれを浄化してくれていた、と考えられます」
「では、紀宗が言っていた、力が尽きる、とは?」
「陽兄様が集めてしまう傀儡を常に浄化し続け、五亨庵の力が弱まる。それに伴って、五行の調和が崩れ、災いにつながる……」
「五亨庵を建立する前、このあたりには様々な災いが多かったという。それがまた、戻ると?」
「もっと良くないです」
玲陽が、覚悟したように、
「以前は私はいなかった。けれど、今は……」
「陽」
犀星は迷わず、額を重ねて玲陽を見つめた。
「俺たちは絶対に離れない。それだけは、忘れるな」
「……はい」
犀星の想いは嬉しいが、喜んでいいのかわからない。玲陽の震えはおさまらなかった。
「凛、五亨庵の崩壊を防ぐ方法は?」
「ある」
玲凛は即答し、背筋を伸ばした。
「まず、一番確実なのは、陽兄様が亡くなること」
「それはない」
犀星が即答する。玲凛は鼻で笑った。
「当たり前よ。そんなこと、絶対させないんだから」
犀星と玲凛の視線ががっちりと噛み合い、互いの覚悟を確かめ合う。
「他の方法は、いくつかあるけれど」
玲凛は順を追った。
「陽兄様の印を破壊するのが、一つ」
「それは、おまえが女郎にしたのと同じ方法か?」
「そう。傷をつけて、上書きする。でも、これは正直、勧めない」
玲凛は首を振った。
「焼印は肌の奥まで残っている。陽兄様ほど力のある人から取り除くとしたら、表面を切るくらいじゃだめ。はっきり言って、背中の肉を抉り取るくらいじゃないと。そんなことしたら、致命傷になる」
ビクッと玲陽が震えた。犀星は腕を回して抱きしめた。
「絶対、しない」
頷いて、玲凛は次の案を出した。
「陽兄様をどうにかするんじゃなくて、他の方法を考えてみる」
「他の、とは?」
「例えば……外から抑える」
犀星はそっと、玲陽の火傷のあたりに手を添えた。
「そう。星兄様が触れることで、遮断することができるかもしれない。着物の裏に、護符を貼ることもできる。どれも、力を弱めるだけだから、完全に消すことはできないけれど」
「それでも、効果があるなら試したい」
「効果があるかどうか、まずはそれを試す」
玲凛は言い直した。
「もうひとつ、これは簡単ではないけれど」
玲凛は、湯のみと茶托に目を落とす。
「五亨庵の力を強くする」
犀星と玲陽も、五つ置かれた茶器を見た。
「陽兄様の集める傀儡を浄化して、それでも力が枯渇しないくらいまで、強くすることができたら……」
「その方法はわかるか?」
玲凛は低く唸った。
「よく言われる方法なら知ってるけれど、本当に効果があるかはわからない」
「効果があるか、試そう」
今度は犀星が、言い直す。
「陽を奪わせはしない。やれることは、全部やりたい」
「わかった」
玲凛は力強く頷いた。
「私を、五亨庵に連れて行って」
玲陽が眉を寄せた。
「でも、凛どの。母上から、宮中には入らないように、って言われているんでしょう?」
「緊急事態よ」
「王令だ」
「兄様まで……」
玲陽は二人を見て黙り込んだ。同様に意志の強い目に、血のつながりを再認識させられる。この二人が味方でいる限り、玲陽が不安を抱く必要はない。
国よりも何よりも、玲陽のためにだけ動く二人であることは、疑いようがなかった。
翌日、玲凛は、初めて朱雀門をくぐった。
玲芳がなぜ、宮中への出入りを禁止していたのか、その理由はわからないまま。
初めて見た時、玲陽は朱雀門の規模に圧倒された。だが、玲凛は特にそこに感動を示さなかった。彼女は、価値あるものとないものとの線引きが、人と少し違っているところがある。
大抵は真逆だ、と東雨は思っていた。
朱雀門の先、朱市を少し奥へ入ったところで、玲凛は首をかしげて手綱を緩めた。
朱市の賑わいからややはなれた小径の脇に、目印の桜の木があった。
玲凛はじっと木を見つめ、それからそっと近くへ寄ると馬から降りた。
古い桜の木は、今年の春、静かに花を咲かせた。それも散って今はもう葉桜となり、並木の木に混じって目立たずにたたずむのみである。誰もが素通りするその姿、しかしそこにこそ、玲凛は圧倒的な存在感を感じた。荒々しい木肌の凹凸と枝ぶり、新緑のまぶしさ。思わず足を止め、目を向けたくなる心地があった。
黙って様子を見ていた犀星、玲陽、東雨は、顔を見合わせた。
玲凛は好奇心旺盛な少女だが、どちらかといえば草花を愛でる性格ではない。何か獲物になりそうな|雉《きじ》でも枝にいるのか、と、東雨は伸び上がった。俗物的な想像をした東雨とは違い、犀星と玲陽は意味ありげに視線を交わした。
玲凛が興味を持った裏には、特殊な事情が隠されている可能性が高い。特に今日は、物見遊山で来ているわけではない。
玲凛の様子は、どこかおかしかった。じっと木を見つめ、少々緊張した面持ちだ。玲陽がそばに寄った。ただ小さく首をかしげただけで、特にそれ以上踏み込まない。玲凛は真顔のまま振り返った。玲凛はもう一度桜を見て、それから背中を少しだけ丸めた。
「陽兄様……」
玲凛は、怪しむ目で玲陽を見た。
「具合が悪いですか」
玲陽はさらに近づき、玲凛に寄り添う。
玲凛はちらっとまた桜の木を振り返った。
彼女の目には、古木の前に立つ一人の男の姿が見えていた。それがこの世のものではないということが、玲凛にはわかった。そして玲陽には何も見えていないということも。このような経験は玲凛にとっても初めてだった。
玲凛には、玲陽のような傀儡喰らいの力はない。
玲家が求めた、特殊な才能もない。
しかし、彼女には生まれた時から、見えざるものが見えることがある。それは、玲芳と同じだった。
「いいえ、気のせいです。五亨庵はこっち?」
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