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16 情の庵(3)
問われて、犀星は困った。
あの時は、犀星も玲陽をかばいつつ、また、自分自身の体調も悪く、紀宗が歩き回っていることには気づいてはいたが、その道順までは確かめていなかった。
玲陽は注意深く言葉を選びながら、
「もしかしたら紀宗様は、助けようとしていたのかもしれません。五亨庵の力が弱くなったから、強めようとしたのかも」
「じゃあ、今まではどうして弱めようとしていた?」
犀星が問い返す。それに答えたのは玲凛だった。
「強くなりすぎたから、ではないかな。そう考えるのが自然です」
犀星は腕を組んで、改めて石を見回した。
「つまり……紀宗は五亨庵ができた時からこの仕組みを知っていた。そして産の順や滅の順を使って、五亨庵の力を一定に保っていた」
玲陽が加わる。
「そこに私が来て、その均衡を壊した。力が衰えてしまうことを恐れ、強めようとして、巡り方を変えた……」
ばらばらだった破片が集まり、一つの形を成そうとしていた。
玲陽が悲しげに目を伏せる。玲凛は安心させるように続けた。
「心配ありません。産の順で力を生み出すことができれば、陽兄様がどんなに傀儡を集めたって、五亨庵も都も滅びたりなんてしません」
「できそうか?」
犀星が問う。
「星兄様がやってくだされば」
「俺が?」
「いいえ」
首を振って、玲陽が一歩出た。
「こうなってしまった原因は私です。だから、私がやらなくては」
「陽兄様じゃ逆効果です」
だめだ、と言われて、玲陽は落ち込んだ顔をした。
玲凛は、あらためて犀星を見た。
「犀星様がどうしてここに五亨庵を建てようと思ったのか……前におっしゃってましたよね、何かに呼ばれたような気がしたのだと」
「……ああ」
「だとしたら、星兄様はここに選ばれた人だと思うんです。だから犀星様が力を尽くせば、もしかしたら……」
犀星は眉をひそめた。
「しかしそんな方法があるのなら、なぜ紀宗は俺にそれを言わなかった? 俺にやらせれば済むことだろう? 陰陽官の権限があれば、それくらい……」
「させたくなかった理由が、何かあるのかもしれません」
「まだ謎があるというのか」
玲凛は姿勢を正して、
「人の世は深く、幾重にも重なるもの。表だけを見てすべてを知った気になっては、足元をすくわれます」
かつて同じことを犀遠が言っていたことを、犀星は思い出した。今は、試していくしかなさそうだ。
「わかった。日に何度やればいい?」
「わかりません」
玲凛が言った。
「少しずつ回数を増やしていってください。もし力が強くなりすぎたら、それはそれでまた、その紀宗って人が文句をつけにくると思いますから」
「では、俺が巡る頻度と、紀宗の来訪を記録して、ちょうど良いところを探ることにしよう」
「星兄様らしい考えです」
玲凛は、やっと安心したように笑った。
ただ、玲陽だけはずっと沈んだ顔のままだ。気持ちを察して、犀星はそっと玲陽の肩を抱き寄せた。申し訳なさそうに、玲陽は犀星の顔を見た。
「ごめんなさい。私、迷惑ばかりかけて、何もできません」
「陽にしかできないことがある」
犀星はふっと、表情を緩めた。
「とりあえず、笑っていろ」
聞いて、玲凛は思わず、苦笑した。
「そうですね、陽兄様は、笑っていてください」
「なんですか、それ……」
不服そうに玲陽は口を歪めた。
「私だって、ちゃんと役に立ちたいです」
「だから、だ」
犀星は玲陽の唇に指を当てた。
「おまえにしか、できない」
「そんなこと……」
文句を言いかけて、玲陽は優しい犀星の顔に、何も言えなくなった。
この人は本心から、自分が笑ってさえいればいいと思っているのだ。
そのあまりにも真っすぐな思いに、玲陽はつられて頬を緩めた。
「わかりました。とりあえず笑っていればいいんですね」
「うん」
二人のやりとりを、玲凛は目を細めて眺めた。
それからふと、ここに来るまでの間に見た、気になる光景を思い出した。
ここに来る前、山桜の下で見た、この世ならざる人の影。その面影が、玲陽と重なって、玲凛は胸が騒いだ。
髪も目も黒く、雰囲気も玲陽より落ち着いてはいたが、思い出すほどにあまりに似ていた。
今はまだ、黙っていよう。知らない方が良いこともある。
玲凛は記憶を閉じ込めた。
微笑みながら見つめ合う兄たちの安心した笑顔を、もうしばらく見ていたかった。
満ちた月もやがては細る。
春月が痩せて半ばを過ぎる前に、夕泉親王を奉じた兵団は朱雀門をくぐった。
門まで迎えに来た医師団が、負傷者たちを宮中北区の療養施設に運び入れた。涼景は夕泉を天輝殿へ送り、先に帰着していた備拓に引き継いだ。その後、行軍の後始末に奔走して、夜半過ぎに自身も療養所を訪れた。一室を借りて、ようやく一人になる。
体力は限界に近かったが、心は落ち着かず、まだ野営の中にいるような興奮を覚えていた。
やるべき後始末が山のようにある。
小さく灯した油灯が揺れる中で、几案に向かい、報告の書面をまとめることに集中する。
時折、墨を擦り、竹簡を束ねる影が、板目の壁に大きく映って控えめに揺れた。記憶とわずかな走り書きを頼りに、筆を進める。宮中の深夜は静かで、虫の声、草の揺れる音一つない。
その静寂を乱すことなく、細く、扉が開かれた。わずかに湿った風が足元から忍び込む。闇に沈む廊下から、灰色の目が、中を覗いた。一枚の影絵のように、しばらくそのまま、涼景の横顔を見つめ続ける。涼景の呼吸が動くたびに、油灯が揺らめき、影絵の輪郭も震えた。やがて、音もなく部屋に入ると、蓮章はしっかりと扉を閉めた。振り返り、涼景を見つめる。
部屋の反対側に置かれた牀の敷布は平らで、使われた痕跡はなかった。真剣に筆を取る顔には、疲労と緊張が張り付いていた。
足音一つ立てず、蓮章はそばに寄ると、じっと涼景の手元を見た。
書き溜めた竹簡に並ぶ、懐かしい文字。それを紡ぎ出す筆先を追う。
自分のいなかった戦場の様子が、事細かに記されていく。
蓮章は黙ったまま、書き上げられた竹簡を手に取った。次々と読み進める。気づいていないのか、涼景は微塵も注意を向けない。ややあって、突然、がたり交椅が倒れ、涼景は、短く叫んで立ちあがった。
「……蓮、いつの間に……」
「結構、前から」
蓮章は竹簡から目を離さずに、
「おかえり」
「……ただいま」
涼景は息を吐き出した。心臓が高鳴っていた。
「親王は明日、午前中に会議が入っている。昼過ぎなら五亨庵で会える」
「……そうか」
交椅を立てて、涼景は座り直した。
「暁隊はどうしている?」
「問題ない、わけではないが、いつも通りだから問題ない」
蓮章の声は静かで、涼景は自分の心音の方が大きく聞こえた。
「右近衛は……」
「それこそ、問題ない」
蓮章は竹簡から目を上げず、答えた。
「それより、裏で然韋が動いている」
「夏史の件、やはり然韋か?」
「物証はないが」
涼景は蓮章に顔を向けた。頼りない灯りに照らされたその表情は、旅立つ前より美しく見えた。思わず息を呑む。
「親王の話だと、紀宗も面倒を起こしそうだ。詳しくは明日、五亨庵で聞いてくれ」
「……そうか、わかった」
答えながらも、涼景の声はどこかぼやけていた。
「そういえば、慎に会った。亜塵渓谷で」
「……ああ」
蓮章は竹簡を読み終えると、そのまま暗い牀に寝転んだ。無意識に、涼景は体ごと振り返った。
「慎が暁に同行したのは事故だ。俺の指示じゃない。凛に気づかれて逃げられなかったらしい」
「相手が凛では、やむをえまい」
涼景は苦笑したつもりだったが、うまく笑えなかった。額のあたりがしびれたようで、言葉もうまくでてこない。
二ヶ月ぶりの再会。
顔を見れば言いたい想いが溢れていたはずなのに、その時が来ると何も言えない。むしろ、言う必要性さえ皆無だった。
蓮章は牀に横になったまま肘に頭を乗せて横向きにじっと涼景を見つめた。わずかに見上げる角度である。その目は、暗い牀の上からかすかな明かりを映す涼景の顔へ、まっすぐに注がれている。
無防備に力を抜いた手脚が体に絡み、曲線が美しかった。柔らかい着物の折り重なって波打つひだが、濃い闇と薄い光の境目で融け、妖艶に、陰影が浮き上がる。
蓮章の瞳は、ただ迷いなく、涼景に向けられている。
しかし、唇は動かず言葉を紡ぐ事はなかった。わずかに遠い笑みを浮かべながら、呼吸すら忘れたように凍りつく。瞳にすべてを焼き付ける祈り。なのに、表情は至って静かで冷静である。
涼景は自然と呼吸が乱れた。
戦場帰りのままならない身体に、蓮章は美しすぎる。疲れ切っていた全身に、別の緊張と熱が生まれ、一気に高まってくらくらと頭がしびれた。
色薄い蓮章の瞳は、薄幸な運命を象徴しているかのようで、涼景の心に庇護の念をうずかせる。同時に、その蓮章に支えられて自分は生かされているという確信も生まれる。それは、仕事の上でも、私的な事柄についても同様だ。
犀星に玲陽がいるように、自分には蓮章がいる。だからこそ、戦場に立ち続けることができる。
互いに動かず、動けない。その沈黙は厚く、重たい意味を持っていたが、その意味するところは決して触れてはいけない領域だった。
窓のない部屋では、時の流れすら止まっていた。
蓮章は、ただひたすらに涼景を想った。
涼景もまた、蓮章への気持ちが大きくなるのを感じた。
だが、そこまでだ。
どちらも、心に流されることはない。二人の関係は、いつ崩壊するかもわからない危うさと表裏一体だった。
動けば崩れる。
眼差しだけで、二人は情を交わし、命を確かめた。部屋の温度が高まり、音のない旋律が螺旋を描いて夜に満ちる。
たまらず、涼景は目をそらした。思い出したように竹簡に向き直って、乾いた筆先を整える。
蓮章もまた、半分夢心地で、涼景の横顔を見守る。
いい眺めだ。
うっすらと蓮章は笑んだ。
黎明のわずかな時間。二つの命と想いを包み込んだ小さな部屋は、まるでそれ自体が鼓動する心臓のように、息づいていた。
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