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17 濁る湖底(1)
好みの香木は、その人物の性格を如実に表す。趣味嗜好だけではなく、体調を整えるため、医学的な目的で用いることもある。
この屋敷の主人は、どちらかといえばその中間であった。
好きなものは白檀だ。
そこに、医者に勧められた|沈香《じんこう》を合わせて焚きしめ、部屋の中は独特の香りで常に満たされている。
部屋は締め切られることが多く、灯りは天井近くの欄間や時折細く開ける白木の板戸の隙間から入り込む程度である。
部屋の中には灯りも少なく、ぼんやりと薄暗いが、部屋の主は特別それで不自由を感じる事はない。
いつも気だるげに座り、あるいは横になり、たまに体を起こすかと思えば、読み慣れた木簡に目を通し、そしてまたゆるりと伏す。
食は細く、日に一度、粥と野菜を少し、口にするだけである。
この春に新たに屋敷を建て直し、やっと移り住んでひと心地ついた。
冬を凌いだ西苑からの帰路はいつになく負担で、疲れが長く尾を引いていた。
屋敷に落ち着くと数日は床に伏し、誰にも会おうとはしなかった。調子を取り戻しても外へ出ることはなく、日がな一日を淡い光の部屋の隅で半分眠って過ごす毎日だった。
夕泉親王が宮中に戻って十日も過ぎた頃、備拓はようやく目通りが叶った。
ないがしろにされようとも、備拓は一切腹を立てなかった。むしろ、顔を見ずに済むならその方が良いとさえ思われた。
左近衛は夕泉親王の警備を一括して行う。その隊の副長が、自ら親王を陥れる策を練った。これを未然に防げなかったのは、備拓の責任となる。
元来、真面目な備拓だが、今日はいつもにも増して真剣な面持ちだった。厳格な気風がにじみ出る姿を目にし、屋敷の使用人たちも恐れ入って一歩下がる。
夕泉だけは、一切気にした様子もなく、部屋の中でいつものようにくつろいで足を崩し、緩んだ気配で迎え入れた。
備拓は部屋に入ると、丁寧に手をつき、挨拶を済ませた。その所作には濁るところなく、心の中までしっかりと武人だった。
「長くの旅程、殿下におかれましては、さぞやお疲れのこととお察し申し上げます」
備拓は顔を伏したまま、硬い口調で挨拶を述べた。
「わたくしに、苦しい事はありません」
静かに夕泉は答えた。
「暁どのが、よくしてくれたゆえ。そう、実に……」
その言い方には、にじむような毒気があった。
毒はあっても悪意がない。これが、第三親王・夕泉という人物である。長年の経験から備拓にもその気性はよくわかっている。婉曲的な言い回しをするものの、裏は無いのである。
そしてそれを証明するかのように、誰かを陥れることも、誰かに力を貸すということも、また、ない。ただそこにいて、ひたすらにゆったりと時を送るだけである。
|霞《かすみ》のような人だ。毒にも薬にもならぬ。
備拓は腹の中ではそう思っている。
かつて謀反を起こした第一親王でさえ、自らの意思で動いた。現在勢いを持ちつつある五亨庵もまた、破天荒ながら独自の政治を貫いている。それに比べ、この親王は無害であると同時に無益だ。それでも、宝順帝が正式に世嗣ぎを決めない以上、夕泉親王は次期皇帝にもっとも近い存在である。
この方に、皇帝は勤まらぬだろう。
警備の手は抜かずとも、備拓は以前からそう思ってきた。自らの役職の意義について、意味を見失う心地もする。だが、それを表に出す備拓ではない。
親王を前に、平服して静かに坐す。
夕泉は備拓を眺めた。
「夏史のこと、いかに?」
その問は備拓を少なからず驚かせた。夕泉が人や物事の先々に興味を見せるなど、なかなかないことである。備拓は苦しい胸に息を吸い込んだ。
「夏史は只今|刑部《ぎょうぶ》にて詰問の途中にございます。今後はしかるべき手順ののち、公の場にて司法の判断を下されることになるかと」
「公の場、とな」
夕泉は扇を口元に当てた。
「あれが表に出るか……」
低く速い呟きが溢れる。
聞いてはならないものを聞いた。
言葉よりも、その声色に、備拓はゾッとして身を縮めた。締め上げられるように痛む喉から、声を絞り出す。
「此度のこと、ひとえに臣の至らなさが招いた事態。殿下の御心を煩わせ、御身を刃にさらしたは、臣の不徳の致すところ。いかなる御裁断も甘んじて受ける所存にございます」
「そなた、相変わらず硬いのう」
夕泉の扇が、ぱたぱたと軽い音を立てて広がった。
「左様にかしこまらずとも、そなたを断ずるつもりはないゆえ、安心なされ」
「……しかし、咎めは必定のこと……」
「良い」
夕泉は遮り、扇を嗅いだ。
「もう、良い。暁どのが全て収めてくれたゆえ」
備拓は眉ひとつ動かさず、しかし腹の中身を引きずり出される心地がした。
夕泉の言葉に他意はなくとも、それは自分への失望の裏返しと聞こえる。
「代わりに一つ、頼みを聞いてはくれますまいか?」
夕泉の言葉に、備拓はさらに頭を下げた。
いつになく、東雨は上機嫌で洗い物を楽しんでいた。冷たかった冬の水は嘘のようにぬくみ、肌に心地よい優しい季節になった。
普段は一度しかしない乾拭きも、今日は、二度三度、手間を惜しまない。
夕餉の後の、ゆったりと流れる時間。
犀星たちに夜の茶を出し、明日の朝の食事の仕込みも終わらせた。他の家事も一通り目処をつけ、今夜はゆっくりと、書物でも読んで、眠りにつける。東雨にとっては平和な宵の時間だった。
ことあるごとに衝突する玲凛は今、犀星と玲陽とともに難しい顔をして、一部屋にこもりきりである。いつもなら、自分だけがのけ者にされるのはつまらないと文句も言いたい。だが、話の内容は、どうやら玲家の血にまつわることらしい。
東雨は、傀儡だの呪いだの、という種の話が苦手である。解決してから良い報告だけ聞ければ満足、と、割り切っていた。
俺は俺にしかできないことをするんだ。
優しい手つきで茶碗を揃え、几架に並べながら、東雨は自然と微笑んでいた。
東雨の機嫌を良くしている理由は、食料庫にある。
玲凛が持ち帰った大量の肉だ。複雑な攻防の果てに手に入れた肉は、よくいぶし、保存食として蓄えられた。鹿も猪も狐も大量だ。天井からつるされた乾燥肉は、東雨に一財産を得たような満足感を与えてくれた。
使い方次第では、凛も役に立つ。
東雨は素直に褒めた。普段、どれほど不満を抱えていたとしても、優れたところは受け入れる。東雨も玲凛も、この気性だけは一致していた。
こうして時々狩りに出てくれたなら、肉に不足はしない。
亀池がうまくいけば、魚も手に入りやすくなる。
野菜は少しなら、中庭で収穫できる。
問題は粟や稗、米といった主食だ。
いつしか、東雨の脳内には、水田や畑の構想が広がっていた。
一人の民であれば、それは叶えがたい難題だっただろう。だが、彼は犀星という稀代の政治家のそばにいる。それは一気に問題の難易度を、現実的な段階へと引き下げた。
そして同時に、今の自分には荷が重いという自覚も思い出させた。
東雨は犀星の近侍として、少しでも役目を果たしたい。
剣術もままならず、守るどころか、犀星の方が腕が良いときている。儀式の礼儀も見よう見まねで中途半端である。
近侍とは、ほかの近衛よりも犀星の近くにいて、その身辺のすべてを取り仕切る重要職である。武力だけではない、政治的手腕から立ち居振る舞いまで、すべてが必要とされる。
このままでは、大切な主人に恥をかかせてしまう。
頑張らねば!
落ち込むより前向きに進むのが、東雨の性格だ。
その時、玄関先で物音がした。暁隊が何かを知らせに来たのだろうか。
東雨は呼ばれる前から、さっさとそちらへ向かった。
玄関の引き戸を開けると、既に暮れかけた夕闇の中に、一人の男がこちらを見下ろしていた。
やたらと堂々と、自信に溢れて態度が大きい。自然と東雨の顔は引きつった。
「お、まだ起きてたか?」
訪問者、涼景はにんまりと笑っていた。
「若様は忙しいし、もう、お休みになる。さっさと、帰れ」
東雨は取りつく島もなく、追い払いにかかった。
知らせれば、犀星は会うだろう。だが、涼景を屋敷にあげれば、酒だ料理だ、と、自分の仕事が増える。
「話を持ってきたんだが?」
「明日、五亨庵に来い」
「そうそう暇じゃないんだ」
「だったら、来なくていい」
「おまえなぁ」
「おまえが来ると、ろくなことが無い」
東雨は遠慮なく言いきった。
昨年まで、東雨は涼景に対し、親しいながらも丁寧に接していた。きちんと敬称をつけて呼び、言葉遣いも正した。それが、今ではすっかり対等である。こんな口調になったのは、東雨が安珠の元で治療を受けていた頃からだったと記憶している。
意識せずとも、自然と起きた変化だった。
涼景も、それを全く意に介さず、まるでずっとこうだったという顔をして受け答えする。
「酒なら持ってきた。鰯の醤煮もある。茶碗だけ貸してくれたらいい」
「……今度は、茶碗も持ってこい」
東雨はふくれっ面で、道を開けた。こんなやりとりは挨拶のようなもので、本気で追い返すつもりも、追い返されるつもりもない。
涼景はさっさと居間に上がり込むと、隅に用意されていた茶道具から、湯のみをひとつ、ひょいと摘むと、毛氈の上にあぐらをかいて、手酌で一杯、煽った。
酒瓶の隣には、油紙に包まれた醤煮が、光沢のある色と香ばしい匂いで東雨を誘っている。
「食え」
涼景の勧めに、東雨は口を曲げた。
「別に、毒など入れてないぞ」
「そういうことは疑ってない」
「ずいぶん信用してくれるようになったな」
涼景がにやにやして二杯目を注いだ。東雨は首を振った。
「正直、魚は謀児様のおかげで十分足りてる……」
涼景は口元を緩めた。
「そうだったな。なにやら大変なことになっているようで」
「他人事だと思って……」
東雨は口を尖らせた。このような仕草はやたらと幼く見える。涼景の顔がさらに緩む。
「おまえ、もう十八だろう? まだ呑まないのか?」
「俺は、酒は嫌いだ」
「どうして?」
「……嫌なことを、思い出すから」
フッと、東雨の声が沈み、涼景は手を止めた。
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