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17 濁る湖底(2)

 憎まれ口を叩いて、どこまでも生意気な東雨だが、その会話の間に唐突に本音がこぼれる。涼景がそれを拾い上げてくれると知っていて、わざと口にする。 「酒ってのは、色んな意味がある」  涼景の声が、一段落ち着いた。 「嫌なことを忘れたくて飲むのも、そのひとつだ。それが逆に思い出しちまうなら、意味がないな」 「だから、いらない」 「わかった」  涼景は少しだけ目を細めた。ゆるり、と湯呑みの中の酒を回す。 「俺はいつか、おまえと酌み交わせるのを楽しみにしているんだが」  つぶやいた横顔に、嘘はなかった。意外な一言に、東雨は不思議そうに眉を寄せた。涼景はあえて視線を避けて、中庭に目を向けた。  どくん、と東雨の胸が予想外の強さで鳴った。 「……涼景は」  東雨は思わず、醤煮の鰯を一尾、咥えた。 「忘れたいくらい嫌なこと、あるんだろうな、相当、たくさん……」  涼景の表情は変わらない。ただ、ちびりと酒に口をつける。 「話す」 「え?」 「いつか、な」  そう言って、見たこともない柔らかい顔で笑う。 「いつか、おまえが酒に付き合ってくれたら」 「……ずるい奴」 「今更だろ?」 「知ってる」  ひとしきり、会話が切れる。  東雨は黙って鰯を齧りながら、涼景と並んで春の庭を眺めた。 「そういえば、夕泉様の警護、大変だったんだって?」  東雨は小さく言った。 「胡断と、戦ったって聞いた」 「戦ったというか……」  涼景は苦笑した。 「あれは、どうなんだろうな、お互いめちゃくちゃだった。正直、見せられたもんじゃない」 「見たくもない」  突然、東雨が声をあげた。涼景は驚かず、ただ、少し振り返った。 「涼景、おまえ、死ぬかもしれないんだぞ! そんなの……」 「言ったろ。俺は戦場では……」 「そんなの、気休めだ」  いつになく、東雨の言葉は鋭かった。 「いいよな、おまえは。死ぬだけなんだから。残された方は、もっと辛い目に会うってのに……」  知らず知らずのうちに、東雨は手を握りしめていた。  こんなこと、言うつもりはなかったのに……  何事もなかったような顔をして、のんびり酒など飲んでいる涼景を見ると、急に腹が立ってきて、東雨は我慢できなかった。 「……そうだなぁ」  涼景は、深く息をついた。それから、声を穏やかに、 「もし、俺が死んだら、おまえはどうする?」 「やだ!」  叫んでしまってから、東雨は息を止めた。自分に向けられた涼景の目は、決して笑ってはいなかった。ただ、わずかに、嬉しそうに見える。 「ありがとうな」 「はぁ?」 「いや、そう言ってくれる奴が一人でもいてくれるってのは、嬉しいもんだ」 「……ひ、一人じゃない」  まるで言い訳だ、と思いながら、東雨は続けた。 「若様だって不便になるし、陽様は優しいから悲しむし、暁隊は野党に逆戻りするし……蓮章様は……」  その名を口にして、東雨はなぜか少し、胸が苦しくなった。  不意に、奇妙な気分になる。  どうして、自分はこいつとこんなことを?  考え始めると、急に落ち着きがなくなってくる。 「そ、そうだ、若様に話があったんだろ? 呼んでくる」 「いや、いい」 「は?」 「明日、五亨庵に行く」 「なんだよ、それ」 「おまえがそうしろ、と言っただろ?」 「それは、そうだけど……」 「おまえはあいつの近侍だ。あいつの予定を管理するのはおまえの役目だし、あいつもおまえを信頼している」 「でも、おまえが俺の意見を聞くなんて」 「わからないか? 星のことに関して、おまえの方が俺より上だ。だから、従う。何かおかしいか?」 「…………」  東雨は明らかに困った顔をして、下を向いた。  涼景の言った意味が、頭の中をぐるぐると巡った。 「……あのさ」  東雨は膝を揃えて、涼景の前に座り直した。背筋を伸ばして顔を上げる。所作について、犀星は自然と東雨を躾けていた。 「俺は別に、|下手《したて》に出るつもりもないし、頭を下げたくないし、借りを作るのも面白くないし、本当はものすごく嫌なんだけど」 「うむ」 「その上で……お願いします。俺に、近衛の儀礼を教えてください」  指先を揃えて、東雨はしおらしく深々と礼をした。 「俺、若様が恥ずかしくない近侍になりたい。剣の腕は全然足りないけれど、せめて礼儀とか儀式での正しいやり方とか、そういうのは覚えたい。涼景……様に、頼めないかと……」  声は次第に力がなくなるが、それでも精一杯だ。  東雨は、どこを見てよいかわからぬまま、ただじっと床に目を向けていた。本来なら、きちんと涼景の顔を見て頼まねばならないのだろうと思いながらも、つい、照れが優先する。今まで散々にぶつかり合い、乱暴な口まで聞くようになってしまった。それなのに、都合の良い時にだけ頼み事をするのは、身勝手だと感じる。  涼景は何も言わず、酒を継ぎ足した。酒が注がれる軽い音がやけに響く。珍しい東雨の姿を見下ろしながら、美味そうに飲み、いつもより長く味わう。そのまなざしは、優しくそっと包み込むようだ。  沈黙が続く。  不安になって、東雨はそっと顔を上げ、涼景を見た。そして、思わず素顔になる。  自分を肴に酒を飲む涼景の顔は、戦場帰りとは思われないほどに、平穏で満ち足りていた。  いつまでも見ていたい、そんな気持ちにさせられて、東雨は焦った。  涼景はそんな東雨の動揺さえ、好ましいというように微笑した。 「……あの……だめ?」 「……だめだな」  東雨の顔色が、瞬時に真っ青になる。  いろいろと文句をつけられ、条件を出され、嫌味を言われたとしても、てっきり、受けてくれるものと期待していた。それが、一刀両断である。 「そう……」  東雨は露骨に失望を表して、うなだれた。 「どうして……?」  恨めしそうに、つぶやく。潔く引き下がった方が惨めではないのに、どうしても心が震えてしまう。  涼景は長く息を吐くと、湯のみを弄びながら、ゆっくりと、 「勘違いするな。おまえに非があるわけじゃない。ただ、俺に関わると、ろくなことにならない。今回のことで、身にしみた」 「え?」 「実は、な」  涼景はそっと、中庭ごしに、明かりが灯る犀星の部屋を見た。 「以前から、その話は、星としていた」 「その話?」 「おまえを、引き取りたいと」 「……ハァ!」  東雨には寝耳に水である。 「俺は、若様の元を離れるつもりはない!」 「早合点するな。俺もおまえの世話などごめんだ」 「だったら……」 「あくまで、近衛として学ぶ機会を与えてやれたら、と思っただけだ」 「……涼景……?」  東雨は、喜んでいいのか落胆すべきか、わからない顔をした。 「俺も星も迷った。おまえにとって、右近衛の訓練は役にたつだろう。だが、俺に関われば、嫌でも宝順の目につく。おまえにはとっては、忘れたい記憶だろう」 「…………」 「それでも、俺はおまえを呼びたいと、星を説き伏せた。夕泉の警護から戻ったら、おまえに話すつもりだった」 「…………」 「だが、気が変わった。今日は、それを星に伝えに来ただけだ」  東雨は困惑して視線を彷徨わせた。 「気が変わったって? 俺の態度が良くないから?」 「違う。おまえのせいじゃない」  涼景は東雨以上に、目を歪めた。 「俺に関わるな。余計なことに巻き込まれる。いらぬ恨みを買い、巻き添えを食う。おまえをそんな目に合わせたくはない」  その言葉を聞いても、東雨は素直にはなれなかった。  何を理由にしたところで、断ることに変わりはない。 「結局、俺は邪魔ってことかよ?」  思わず、そんな言葉が飛び出していた。 「そうだよな。俺が首突っ込んで、余計なことが起きて、それでまた迷惑するのはおまえだもんな」 「東雨」 「いいんだ。別に、おまえに面倒をかけたいわけじゃないし、どうしてもおまえじゃなきゃだめってことじゃないし、どうせ、俺が何をしたって、うまくできるはずもないし……」 「らしくないこと、言ってんじゃねぇよ」  延々と続きそうだった東雨を、涼景が呆れたように遮った。 「話しは最後まで聞けって」 「最初も最後もない。結局、だめなんだろ」 「そうじゃない」  涼景は湯のみを置いて、腕を組んだ。 「いいか、東雨。よく聞け。俺の周りには、おまえが思う以上にいろんなことを考えている連中がいる。どうやって俺を落とすか、周囲を巻き込んでも構わない、って奴らがな。今回も、夕泉を殺してでも、俺をはめようとした奴がいた」  東雨は息を呑んで涼景を見た。 「それくらい、根が深い。だから、俺には関わらないほうがいい。守りきれる保証はない。おまえに、自分で自分の身を守れるだけの自信があれば別だが」  さすがに、東雨も黙った。  涼景の言葉は、自分が思う以上に重たかった。 「だが、代わりに……」  涼景は、言いにくそうに、口ごもった。 「俺ではなく……湖馬から学べ」 「湖馬様?」 「ああ。あいつの五亨庵勤務を増やす。あそこでなら、おまえたちが何をしようと、気にする者はいないだろう」  東雨はそっと、唇を噛んだ。自然とうつむき、目が揺れる。涼景はそれを横目で見た。 「何だ、あいつでは不満か?」  東雨は首を横に振った。 「そうじゃない……でも、俺は……」  東雨は、自分でも気づかぬうちに喉元まで昇ってきた言葉を、押し込めた。 『俺は、涼景がいい』  それは、言ってはいけない言葉だと、本能的に東雨は判断した。  自分と涼景との間に、決定的な楔を打ち込んでしまう一言だった。  もの言いたげな東雨の顔を、涼景もまた、真剣に見つめていた。  涼景には、自分の判断が冷静で、的確だという自信があった。最善の道を選んだ。  あらゆる意味で、それは最も、安全な、そして、自分の心にそぐわない道だ。  酒のせいでもないだろうに、涼景の心音は早かった。  再び、沈黙が降りてくる。  東雨は言葉を見つけられず口を閉じ、涼景の茶碗は乾いていた。視線を外したまま、ふたりは遠くに虫の声を聞いていた。  夜の静けさが支配する、宮中、右衛房。

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