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17 濁る湖底(3)

 蓮章は一人、閑散とした房内をぶらつき、練兵場に異常がないことを確かめながら、どこか気持ちだけは頼りなく月夜をさまよっていた。  今夜、涼景は都番を口実に、犀星の屋敷に行っている。  代わりに宮中を預かるのが自分の役目だった。  都と宮中。暁隊と右近衛。  交互に分担しながら、二人で役割をになう。  涼景が無事に都に帰還してから数日、話をする暇もないほど、様々なことに追われた。  夏史の裏切りの後始末で、備拓は忙しく動き回り、その間、蓮章が天輝殿の近衛をまとめた。  涼景は長期の不在で揉め事が蓄積していた暁隊をおさめるために奔走し、暁番屋で過ごす日が続いている。  無事を確かめただけで、個人的に顔を合わせる時間もない。  聞きたいことは山のようにある。いや、語る言葉より、ただ、その姿を見たかった。その想いは今までになく強く、蓮章自身を焦らせ、困惑させた。  待つ身の辛さ、苦しさは幾度くり返しても慣れることはできなかった。  それでも、いつも涼景の帰還には平気な顔をして、皮肉たっぷりに迎えるのが蓮章なりの流儀だった。それが何より、涼景を安心させることを、蓮章は経験から学んでいた。  しかし、今回は心の調子がおかしい。  涼景の姿を目にした途端、言葉が出なくなる。自分に正直になれそうで、同時にそうしてはならないと踏みとどまる。  どうしてこんなに、気持ちが乱れる?  原因には、心当たりがあった。  |兎角《とかく》、眠れないのだ。ただの睡眠不足ではない。それは確実に心を乱した。  一通り見回りを済ませ、仮寝の部屋で、蓮章は天井を見つめていた。牀に横になってはみたものの、まんじりともできない。天井の板目を数え、少しでも眠気が来ることを祈るのだが、やはり冴えて落ち着かない。何度も寝返りを打つ。一瞬くつろげる気がするが、やはり瞼は落ちなかった。無理に目を閉じてもそのままである。  もともと、二、三日に一夜程しか眠らない生活を送ってきた。だが、この一年ばかり、それがさらに間を空けるようになった。最近では十日間眠らずに過ごしたこともある。  起きていなければならない理由はない。体は疲れている。頭もはっきりしない。眠るに越したことがないのはわかっているものの、どうにもそこまでたどり着けない。  しばらく前に、慎と体を交えた時が蓮章が眠った最後だった。  あの夜、肉体の疲れは、そのまま眠りの中に自分を引き込んでくれた。不意に、同じことをすれば眠れるのだろうか、と、期待が湧き出してくる。だが、花街に行こうにも、持ち場を離れることはできなかった。  蓮章は耳を澄ませた。壁の向こうから、規則正しい虫の音が聞こえてくる。じっとそれに耳を傾けても、眠気は訪れない。  眠りを誘うという茶も飲んだ。香も焚いてみた。ひとかけらの蜜を口に含み、その甘さで心を溶かそうともした。  だが、何も変わらなかった。生来、蓮章は薬や香に耐性が強く、影響を受けることはない。痛み止めすら効果がなく、どんな些細な傷も、彼には大きな負担だった。  異常な睡眠時間の不足。  その最も辛いしわ寄せは、情緒面に現れた。  体は無理にでも動かせる。考えねばならないことを前にすれば、それなりの決断もできる。しかし、感情だけは簡単ではなかった。  ひたすらに、揺らぐ。荒れる。  細かなことにも、心が震え、余計に被害妄想にとりつかれた。  今日も、ささいな事件があった。大抵のことには動じない蓮章が、槍の発注本数の手違いで声を荒らげたのだ。近衛たちは予想外のことに、呆然と顔を見合わせた。普段なら、責任者に酒でもおごらせておけ、と笑い飛ばす蓮章である。それが、厳しい顔をして黙り込んだものだから、周囲は対応に窮した。  蓮章自身、どうしてそのような態度を取ってしまったのか、わからずじまいだ。  そして、夜。  眠ろうにも、相変わらず瞼が重くならない。寝返りを繰り返し、効かないと知りながら強い酒を煽った。それでも、甲斐はなかった。仕方なく、牀から起き上がり、畳んであった上衣を羽織り、裸足で窓ぎわに寄った。  格子に手をかけ、空を見上げる。独房に囚われた罪人の心地がした。  細い月。その鋭い輝きは、蓮章の刺々しい心と重なって見えた。  風流を知る蓮章である。いつもなら、冴えた月を美しいと感じ、詩歌の一節でも思い出したことだろう。  だが、今はひたすらに胸が泡立つだけだった。  蓮章の気持ちを煽る理由の一つに、姿を消した慎の存在があった。  数日前、暁隊が玲凛とともに狩りに出た。そこに『蓮章』がいた、と、玲凛が耳打ちして知らせてくれた。仕方なく、暁隊には自分が参加していた、という話で通している。  一方、備拓に捕えられ、牢の中にいる夏史も、あの場には蓮章がいたと証言した。そちらには逆に、絶望と恐怖で気がふれ、恨みごとを言っているのであろう、と、無視を貫いた。実際、あの頃、蓮章は天輝殿におり、禁軍大将の然韋がその存在を確認している。他の多くの近衛も証人である。  面倒なことをしてくれた……  余計な嘘をつかねばならない。やり場のない苛立ちは、慎へと向いた。 「いったい、どこにいる?」  逆立った声で、蓮章は呟いた。その声は小さかったが、小屋の壁一枚隔てた向こうの男の耳に届いた。  ふっと、風が揺れて、外側から、格子の隙間を顔が覗いた。鏡のように、自分と同じ姿。灰色の、左目が交差する。 「おまえ!」  思わず、蓮章が鋭く声をあげた。 「すまなかった」  弱気な声が、珍しくすぐに謝った。いつもなら軽口を返してくる慎が、今回ばかりは気まずそうに横を向く。  ぽつりぽつりと、慎は自分の身に起きたことを伝えた。  話をすべて聞き終えても、蓮章は不服そうな表情を浮かべていた。慎は遠慮がちにそっと上目遣いをした。 「勝手なことをして済まない。凛には見抜かれてしまったし……」 「そんな事はどうでもいい」  蓮章は言い捨てた。 「凛を騙せないのはわかっていたことだ。他の連中に気づかれなかっただけ、ましだ」  一見、寛容にも思われた蓮章だったが、その怒りの矛先は別の方向へ向いていた。 「おまえ、亜塵渓谷で涼に会ったんだろ?」  その声は、切なさを含んで、まるで叶わない願いへの嘆きのようにも聞こえた。  慎の胸が音を立てて、締め付けられる。蓮章の感情は、ことのほか慎には深く響く。 「ああ。成り行きだ。おまえより腕が悪いから、役には立てなかったが」  蓮章は慎を睨みつけた。 「近くにいながら、役に立てない? 何のための影だ?」  慎はわずかに目を上げ、蓮章を見て首を振った。 「俺はおまえの影であって、涼景のものじゃ……」 「俺の影なら、涼のために死ね!」  思わず、蓮章は叫んでいた。  その声に、慎が一瞬で顔をしかめる。  蓮章がどれほど涼景を想っているか、慎なりに理解しているつもりだった。だが、今の言葉は聞き捨てならなかった。 「俺の命は俺のもんだ。どう使うかは俺が決める」  慎は静かに、言い返した。 「俺は影だ。あんたに代わって死ぬなら構わない。だが、もしあんたが他の誰かのために死にたいって言うなら、自分で死ね」  嘘のない言葉で突き刺し合う。それは白い月を血に染めるほどに容赦がなかった。  蓮章は、格子を握りしめた。この壁一枚が隔てていなければ、震える身体が慎を殴りつけていることだけは間違いなかった。  だが、それはあまりに理不尽な怒りだ。  いや、怒りですらない。  嫉妬。  ただ涼景のそばにいられなかった悔しさが、慎を前にして破裂してしまった。  蓮章の弱さそのものである。 「悪かった」  小さく、蓮章は喉を震わせた。慎は、そっと眉を寄せた。 「リィ、おまえは悪くない。ただ、無理をしすぎているだけだ」  互いに、見つめるだけの沈黙。優しい表情も、触れ合いもない。むき出しの感情がせめぎあう静かな葛藤。 「あれから……眠っているか?」  慎の言葉に、ぴくりと蓮章の指先が震えた。それを盗み見て、慎は息を吐いた。 「だめか……」 「別に、問題はない」 「ある」  頼りない月を見上げ、慎は壁に体をもたれかけた。 「最近のあんた、本当に良くない」 「……見てたのか?」 「まぁ、な」  格子を掴む蓮章の指が、一層強くなる。 「おまえは……」 「怒るなよ。あんただって悪いんだ。あんな顔されていたら、出て行きにくいだろ」  蓮章は手を離すと、黙って格子に背中を預けた。壁越しに、慎の気配が近い。 「あんた、涼景のことが大事なら、まずは自分をどうにかしろ」 「…………」 「あんたに何かあったら、涼景もただじゃ済まないんだぞ」  ちくり、と蓮章の胸が痛む。慎の声色は、いたって静かだった。 「偉そうなことは言えないが……あんたは腕が立つわけでもない。刀で守れない分、気持ちで支えるしかないんだ。それがぐらついていたら、どうにもならねぇ」 「……本当、偉そうだ、おまえ」 「真面目に聞け」  慎の声が低くなる。 「あんたがそんなじゃ、俺だって迷惑する」  我が身を抱くように、慎は腕を組んだ。呼吸すらない蓮章の横顔は凍りついて、月よりも白い。  相当、まずいな。  ゆっくりと、慎は息を吐いた。初夏の風が虫の音を運び、甘ったるい匂いが立ちこめる。風は重ねた着物の隙間に僅かに吹き込み、ぬるく肌を撫でた。蓮章と同じように首に巻いた布の下で、喉がこくりと鳴る。 「とにかく、休め。眠れなくても、横になるだけでいいから」  慎の息遣いを感じながら、蓮章はそのままの姿勢でぼんやりと宙を眺めていた。遠くで、低い鳥の声がした。 「何なんだよ……」  誰にともなく呟く。短く咳き込んで、蓮章は胸を抑えた。口の中に、血の味が広がったような気がした。気遣わしげに、慎は振り返ったが、何も言わずに目を閉じた。  蓮章は唇を硬く結んだ。  格子のこちらと向こう。  閉じ込められているのは、果たしてどちらなのか。  一人の人間を演じ続けながら、決して一人にはなりきれない二人の夜。  それは傾いた月のように、不安定に揺れていた。

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