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20 比翼の鳥(3)
「悪いが、誰も通すな、と言われている」
蓮章は息を整えて首を振った。
「陽兄様に何かあったら、許さないから」
玲凛は悔しげに蓮章を睨んだ。東雨が不安そうに、
「若様なら、きっと、最善の方法を選んでくれるはずだけど」
「それはわかってるけど……」
玲凛は唇を噛んだ。犀星を信用していないわけではないが、玲陽に関することとなれば、やはり心配でならない。
「そうだ」
東雨が、思い出したように口を開いた。
「蓮章様、ここに、黒い蛇が来ませんでしたか?」
「黒い蛇?」
蓮章は首をかしげて、庭の草の間や畑の畝を見た。
「いや、見かけていないが」
「動物の蛇じゃありません」
東雨は首を振って、
「空中を浮かんで移動する、怪物です」
「あ」
蓮章は息を呑んだ。自然と、玲凛の顔を見た。
「凛、それは、前に花街で見たやつか?」
玲凛は頷いた。
「伍江の上流で大量発生したの。それが、陽兄様の印に引き寄せられて、この辺りまで来た可能性がある。近くで、傀儡に取り憑かれた人……自我をなくして、大暴れした人はいなかった?」
「そういうことか」
蓮章の脳内で、すべてがつながった。
「ここの警備に当たっていた暁隊士が六名、突然、豹変した。親王と陽はそれを沈めて……」
「つまり、傀儡喰らいをしたと……?」
玲凛が顔を歪め、東雨も肩を抱いた。
「六人、全部?」
「ああ、犠牲者はいない。皆、意識を取り戻している」
玲凛がぐしゃり、と着物を握った。
六体分の傀儡喰らい。計り知れない玲陽の消耗と、それを補う犀星の献身。
誰に知られることもなく、儀式のように戸の向こうで粛々と続く痛み。
「自殺行為よ、そんなの」
「え……」
東雨が怯えた目を玲凛に向けた。
「陽兄様はもちろんだけど、星兄様の負担も相当……」
「若様が危ないのか!」
東雨が跳ね上がる。
「ダメよ、今は任せるしかないんだから」
「でも……」
「私たちにできることは何もない」
強く握った玲凛の指が白く震えていた。
東雨は深く呼吸を繰り返した。蓮章は目を細めた。
「待つしか、ないの」
そうは言ったものの、玲凛にはいつもの勢いがない。ゆっくりと、東雨は座り直した。
玲凛の視線がそれを追った。
蓮章を責めるより前に、自分の無力を認めなばならない。
亀池の混乱が蘇った。理解不能の状況下であったとは言え、東雨を守りきれなかったことは事実である。さらに、取り逃がした傀儡が玲陽を傷つけた。癒すことさえ、犀星に頼るしかない。全てが、玲凛には許せなかった。
無力が、悔しくてならない。
「あんた、ほんとに大丈夫なの」
玲凛は恐る恐る、東雨に尋ねた。
東雨は足をぶらつかせながら、上目遣いに玲凛を見上げた。
「何が?」
「ほら、黒い蛇、何匹も……」
「思い出させるなよ」
東雨は顔をしかめた。
「あの時は怖かったし苦しかったけど、もう、平気」
「平気って……」
玲凛は視線を足元に落としながら、考え込んだ。理解を超えることが多すぎた。
東雨は顔を上げた。
「俺のことより、陽様の方が……」
「陽兄様は、大丈夫」
玲凛は自分に言い聞かせるように、
「星兄様が、ちゃんとやってくれると思うから……」
犀星が何をしているのか、玲凛には想像がついた。だが、それを東雨に話す気にはならない。
「よくわからないけれど、大変なんだろ?」
東雨が、眼差しを板戸へ向けた。
「大丈夫よ。だって星兄様は……あんたの若様は強いんでしょ。だったら心配ない」
東雨は首を横に振った。
「若様は強いけど……弱いよ」
それだけ言って口を閉じる。その様子は、犀星を心配こそすれ、自分の体の辛さは感じさせない。
東雨は数体の傀儡を飲み込んだ。通常ならば一体で気がふれる。精神が支配され、体の自由を失う。そして恐怖に翻弄されるように周囲を傷つける。それが、こうして平気な様子を見せるのが、玲凛には解せなかった。
さらに、あれだけ広範囲に傀儡や巨大な塊が発生した理由、それが消えたわけも、わからないままだった。
陽兄様に聞いてみようか。
玲凛は顔を上げた。蓮章の背中の向こうで、戸はしっかりと閉まったまま静かにしていた。
太陽がゆっくりと巡っていった。流れる雲も蝉の音もいつもと変わらず、犀星の屋敷だけ、息苦しい世界に閉じ込められていた。
表の方で声がした。
蓮章がいち早くそれに気づき、目を向けた。案内する暁隊に、低く答える声がした。角を曲がって現れたのは、場違いなほどの風格を湛えた左近衛隊長だった。
「何事です?」
蓮章は思わず、姿勢を正した。備拓の訪問は異例極まりない。
東雨はまだ湿った襟を正して立ち上がった。対照的に、玲凛は親類でも迎えるようにくつろいでいる。備拓は足を止め、腰から深く礼をした。
「突然にすまぬ。礼を失するとは承知しているが、どうしても様子を伺いたく」
顔を上げると、すぐに東雨たちに向く。
「そなたら、無事であったか」
「はい」
東雨はしっかりと頭を下げた。それから、泣きそうな顔でおずおずと、
「あの、夕泉様は……」
「ご無事で奏鳴宮へお戻りになられた。こたびのこと、そなたらには大変世話になったと仰せだ」
東雨は緊張して、しっかりと膝を閉じ、手を揃えた。
「申し訳ありませんでした!」
東雨から、思わず、大きな声が出た。
「夕泉様に、失礼な態度をとってしまって……」
備拓は首を振った。
「そのことで歌仙様にお話ししたく、こうして参ったのだ」
東雨は涙をぐっと堪えた。
臣下の失態は、主の責任である。ただでさえ犀星は辛い状況に置かれているというのに、自分のためにさらに負担をかけるのかと、身が縮んだ。
「歌仙様はどちらに?」
備拓は蓮章を振り返った。
「それが……」
蓮章は板戸を目で示した。
閉じられたまま、奥は静まっている。
「こちらもいろいろあって、決して開けるな、とのこと」
「そうであったか」
備拓は板戸の側に進み出た。蓮章はそっと脇によけた。
備拓は丁重に頭を下げた。
「玲親王殿下。左近衛隊長・備拓にございます」
厳かに呼びかける。蓮章の鋭い耳が、戸の奥でかすかに蠢く音をとらえた。素早く着物を着付け、帯を締める気配がした。
備拓は姿勢を崩さず、
「順を踏まず、お目通り願いました非礼をお詫び申し上げます。殿下にお伝えしたきことがあり、急ぎ参上いたしましてございます」
かたり、と小さく戸が揺れた。内側から細く開き、白い中衣をまとっただけの犀星が現れた。
襟元はゆるく、髪は撫でつけた跡があったがほどかれたまま、乱れていた。裾もしっかりと重なっていない。白い素足が目を引いた。夕方に近い日の光に、体の線がぼんやりと光るように浮き出してた。何より、その表情があまりにも妖しすぎた。
蓮章はかすかに顔をこわばらせた。東雨の頬に朱が差し込んだ。玲凛は犀星よりも、部屋の中の玲陽を探って伸び上がった。その視線を遮るように、犀星は後ろ手に戸を閉めた。
備拓は思わず一瞬、目を上げ、すぐに戸惑いも露わに顔を伏せた。
犀星の息はまだわずかに落ち着きがなく、目は遠くを向いて視点が定まらず、青の瞳が潤んでいた。肌にはうっすらと汗の気配がある。黙って回廊の柱に手をつき、そっと身を持たせかけた。
立っているだけで辛い。
一目で限界を超えていることが、誰の目にも明らかだった。
玲凛が唇を噛む。
東雨が今にも駆け寄りたいと言う顔で、じっと我慢した。
蓮章は意識しながらも、目をそらした。
備拓は誰より、狼狽えた。
見てはならないものを見た。
堅物の備拓にも、それはわかった。
だが、同時に現実感がない。
まだ日も高い時刻である。
何をなさっていた?
答えは容易に想像がつくのに、理解はしがたかった。
以前にも似たような思いをしたことがあった。
備拓が視線を逸らした先に、蓮章のどこか儚げな横顔があった。
五亨庵界隈の規範は、一体どうなっているのだ。
厳格な武官育ちの備拓には、想像もつかない世界だった。
一瞬、法廷での夏史の言葉が蘇った。
規律の乱れ。
あやつが言った事は、真実やもしれん。
そんな考えが脳裏を掠めた。
「備拓」
気だるい吐息とともに、犀星が呼んだ。それだけで、背中を撫でらたような感覚が備拓を襲った。あってはならぬこと、と思いながらも、背徳的な欲を掻き立てる罪深い声だった。
「このような姿で済まぬ」
犀星は目を細めた。
「話とは?」
短い言葉にも、喉が掠れているのがはっきりとわかった。備拓は勤めて感情を殺した。視線が床の板目を意味もなく行き来した。
「……本日、夕親王殿下が玄武池をご訪問なさいました。その際、怪奇なる現象あり、玲姫様、近侍殿、に救われてございます」
犀星は備拓の向こうに、視線を投げかけた。しかし、いまだ定まらず、どこまで見えているのかわからない頼りなさだった。備拓は精一杯に平生を装いながら、
「我が力が至らぬばかりに、お二人にご負担をかけてしまったこと、また、身を挺して我が|主人《あるじ》をお守りくださったことに対し、謹んでお礼を申し上げたく、参上した次第」
東雨は備拓の言葉を聞きながら、玲凛と目を合わせた。
東雨のした事は、備拓にとっていたく感動することであり、感謝すべきことであった。
犀星の唇が優しい笑みを浮かべた。玲凛も東雨も、見逃さなかった。
陽兄様、無事だ!
玲凛は犀星の笑みを、そう受け取った。
若様が喜んでくれた。
東雨は、その日一日で起きたすべての恐ろしいことが吹き飛んだ。
犀星は長く息を吐いた。
「兄上のお役に立てたことを嬉しく思う。知らせに感謝申し上げる」
犀星の声があまりに艶めいて、備拓はいたたまれず、後じさった。
「玲親王殿下におかれましては、大変にお疲れなご様子……」
一刻も早く、この場を去りたい。
備拓は言葉を選びながら続けた。
「これにて、失礼仕ります」
もう、無理だ。
更に頭を下げてから、ちらりと蓮章に目を向けた。
蓮章がこくりと頷いた。
それを合図に、備拓は逃げるように回廊を走り去った。その背中は、訪れた時とは別人のように小さかった。
「若様!」
待ちかねていた東雨が駆け寄り、涙まじりに犀星を見上げた。
「大きい声を出すな、いろいろと響く……」
真っ青になって力尽き、犀星は回廊に座り込んだ。もう、立っていることもできなかった。
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