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21 日陰に咲く(1)

 五亨庵は、岐路に立たされていた。  東雨と玲凛がもたらした亀池の情報は、五亨庵の政策そのものを大きく転換させた。 「まさか、温泉が湧いていたなんて」  玲陽は机案に広げた地図の上に、堤防の紐と水門の印の木片を並べながら、ため息混じりにそう言った。  ぴたりと隣に寄り添う犀星は、その手元を助けながら、なぜかうっすらと笑みを浮かべていた。怯えたような緑権の目が正面から見守り、慈圓はもう何も言わず、腕を組んで緑権の隣にどっかりと座っていた。東雨は少し離れた席で、目線だけを几案に向けた。  五人が頭を突き合わせて覗き込んでいるのは、紅蘭周辺の地図であった。  玲陽の指が地図上をゆっくりと辿った。 「太久江が東へ流れて、ここで二手に分かれ、西側が|京河《けいが》、東側が五江。そして亀池がここ」  そう言って、亀池を指した。 「ここに間欠泉が湧いて、そこから下流域は川の底が赤い状態が続いています」 「間欠泉で吹き出した地下水の成分が、川底を染めていたということか」  慈圓は地図を睨んだ。玲陽は頷いた。 「間欠泉がいつからなのかはわかりませんが、目立たずとも、川底では長い間、地下水が湧き出していたものと思われます」 「地下水で、川底が赤くなるんですか?」  首を傾げて、緑権は玲陽に答えを求めた。 「そういう特別な水が湧くことがあるんです」  緑権は、その水はどんな味がするのだろうと考えた。 「しかし、問題だな。そのようなみずでは、ここで魚を育てるのは難しくなる」  慈圓の言葉に、全員が同じことを想像し、沈黙した。  宝順は、最初から、知っていたのではないか。  五人の視線が空中で重なりあった。  それからまた、同時に地図に目を落とした。 「この状況を、どうにか逆手に取れないものか」  慈圓の声には、負けず嫌いの気配があった。 「このままやられっぱなしなんて、面白くありません」  緑権が恐れ多くも皇帝に喧嘩を売った。玲陽も引き下がるつもりはないらしく、鋭い目を見せた。 「特殊な状況ですが、こういう時こそ、兄様の出番です」  言いながら、犀星を見た。迫力のある期待の眼差しだった。  犀星はそれを受け止め、口を開いた。 「湯屋を開こう」 「やっぱり!」  東雨は大声を上げてから、呆れたように微笑んだ。 「若様なら、そう言い出すと思ってました」  慈圓はにっと笑い、緑権は心配そうに眉を寄せた。 「でも、伯華様。亀池のあたり、人通りもないですし、化け物が出るって噂もありますし……誰も寄り付きませんよ」 「亀池ではない」  犀星は、続きを辿るふりをして玲陽の指先に触れ、亀池から川の流れを追った。 「伍江は下って、南東の宿場に至る」 「そうか」  東雨が目を輝かせた。 「ここは陽様のおかげで、直轄の許可が下りましたから、若様の好きに出来ますね!」  誇らしげに、東雨は犀星を見た。犀星は頷くと、 「今はまだ開発途上の町ではあるが、もともと旅人が行き交う場所だ。都から距離もほどよく、湯治客も見込める。需要はある」  犀星の言葉は、一言一言に力がある。突拍子のないことを言っても、皆それを素直に受け入れてしまうのだ。 「川の水を使うんですか?」  緑権は身を乗り出して、地図を覗き込んだ。犀星は頷いて、 「魚も育たず、農業用水としても使いにくいが、湯としては効能を持つ」 「なるほど」  緑権はにやりとした。 「それなら、湯屋では魚料理を振る舞いましょう」 「その魚はどこから調達するんです?」  思わず東雨が言った。  それに答えたのは犀星だった。 「予定通り、養殖は行う」  犀星は堤防を示すための紐で輪を作り、亀池の上流に一つ置いた。 「亀池は養殖には使えないことがはっきりした。間欠泉の混じらぬ上流に、新しく池を作る」  緑権の顔が明るくなった。犀星は更に、 「ただ掘り起こすのではない。東雨、この辺りは地面の下は?」 「泥炭、ですか?」  東雨は小首を傾げた。 「それが、どうしたんです?」 「ああ、そういうことですね」  玲陽が気付いて、声をあげた。 「泥炭は、乾かせば薪にも勝る燃料になります」 「燃料?」  東雨は話の流れから、ハッと先が読めた。 「湯を沸かす燃料、ですか?」 「そうだ」  犀星は亀池よりも上流のあたりを指先で叩いた。 「ここに新規の池を掘り、泥炭を得る。それを乾かし、五江の水運を使って宿場町まで運搬する。そこで、湯を沸かす燃料に使う」  玲陽が一つ一つを確かめながら、 「新しい養殖池、魚、泥炭の燃料化、水運による運搬経路の整備、温泉水、湯屋……全てがつながりますね」 「相変わらず、とんでもないことを考えるお人だ……」  慈圓が嘆息した。  理屈は通っているが、その発想の規模はなかなかに挑戦的だ。東雨は興奮気味に目をしばたいた。  犀星は仲間たちを眺め、 「危ない橋かもしれないが、渡ってみないか」  いたずらな笑みを見せた。  この笑顔を見せられたら、乗らないわけにはいかない。  四人とも力強くうなずいた。  こうして、宝順帝から投げかけられた食料確保のための魚の養殖は、湯屋の経営という副産物を生み、五亨庵には珍しい金をにつながる政策となって、前へと動き始めた。  話が一区切りすると、東雨は内扉から顔を出し、近衛詰所を覗いた。長榻に座ってぼんやりしていた湖馬と目が合った。東雨はにっこり笑い、湖馬はわずかに戸惑ってはにかんだ。 「か、会議は終わったのか?」  事前に事情を聞いていた湖馬は、気まずさを隠すように尋ねた。 「はい、面白いことになりそうです」 「面白いこと?」 「まだ、内緒です」  東雨は片目をつむって、唇に指を当てた。それだけで、湖馬はすっかり動揺し、背筋を伸ばして正面を向いて固まってしまった。  湖馬の気持ちを知る由もなく、東雨は両手足を思い切り伸ばした。新しい期待が、この五亨庵から国中に広がっていく気がした。初夏の風が気持ち良く、東雨の前髪を撫でた。  東雨は厩舎に向かうと、一頭ずつ、丁寧に馬の世話を始めた。  いたわるように順に額を撫で、濡らした藁で丁寧に体を拭いてやった。乾いた布で毛並みを整え、蹄の状態を確かめた。井戸から水を汲んで水入れに注ぎ、飼い葉は柔らかく手揉みし、塩の欠片を添えて餌台に並べた。  手を添えて優しく声をかけながら、東雨は終始笑顔だった。  馬たちは皆おとなしく東雨のするに任せ、時折、安心したように鼻を鳴らし、顔をすり寄せた。  近侍と言うより、見事な馬丁である。悲しいかな、これが、東雨の現在位置であった。  その姿を、湖馬はじっと目で追っていた。  一通りを終えて、東雨は濡れた手を拭きながら、湖馬の隣に腰掛けた。 「俺、なんだか、政治ってやつが楽しくなってきました。若様と一緒なら、国も動かせそうです」  すぐ隣で生き生きと語る東雨を、湖馬は直視できないでいた。近くはないが、過剰に緊張してした。 「若様から学ぶことは本当にたくさんあって……いつか、俺もちゃんと意見が言えるようになれたらって……」  黙り込んでいる湖馬に、東雨はすまなそうに眉を下げた。 「すみません、まずは、湖馬様に教えていただいていること、ちゃんとできるようになるのが先ですよね」 「いや、そんなことは……」  湖馬は慌てて手を振った。  少し前から、東雨は湖馬に近衛の動きを習っていた。湖馬の教え方は丁寧すぎるほど丁寧である。人の良い気性に懐いて、東雨は素直に湖馬の話を聞いていた。涼景が相手では、こうはいくまい、と、内心、複雑な思いを抱きもした。 「俺、全然だめですね」  東雨は首を振った。 「教えていただいた通りに試してみるのですが、思ったように体が動かなくて。正直、ここまで自分が鈍いとは思っていませんでした」 「祥雲はよくやっているよ」  湖馬は東雨を見ないまま、笑った。一生懸命な東雨に、湖馬はさらに好感を募らせていた。 「俺、頑張りますので」  黒い大きな目が、真摯に湖馬に向けられた。  だから見捨てないでください、といわんばりのきらきらする目に、湖馬は思わずぶるっと体を振るわせた。  官位は東雨の方が上である。だというのに、どこまでも東雨は謙虚だった。  東雨は、陽の光にきらめく小径の景色に目を向けた。  湖馬は黙ってその横顔を盗み見た。白い頬にかかる黒髪は艶を帯び、良い香りがする気がした。結い上げた後ろ髪が長く背中に垂れ、馬の尾よりもしなやかだった。うなじがさらけ出され、柔らかそうな後毛が風に揺れていた。思わず、襟から覗く肌に視線が流れ、湖馬は小さく喉を鳴らした。  涼景から、東雨の指導を任された時は、内心、飛び上がるほど嬉しかった。涼景は湖馬の甘い気持ちを知っている。背中を押されているようで、湖馬は勇気が湧いた。 「な、なぁ、祥雲」  東雨はぼんやりしたまま、湖馬を振り返った。  湖馬は引きつった笑みを浮かべた。頭を掻き、ごまかしながら横を向く。どうにも照れくさくて、まともに東雨の顔を見ることができなかった。事情はどうあれ、話をする機会は存分にあるのに、深く踏み込めない自分の性格が恨めしかった。 「祥雲がそこまで頑張るのは……やっぱり、歌仙様のため、か?」 「……え?」  軽く混乱したように、東雨の表情が動いた。その反応さえ、湖馬の鼓動を早めるには十分だった。遅れて、東雨は頷いた。 「はい。近侍には、最低限、近衛と同じ行儀が求められます……若様に恥をかかせたくないんです」  今更ながら、湖馬は東雨の犀星に対する思いの深さに胸が締まった。  湖馬も涼景に忠誠を抱いているつもりではあるが、それはあくまでも仕事の延長である。その点、東雨のそれは忠誠心と呼ぶには、少し違う。正確にはもっと危うく深く、個人的な感情に裏打ちされているように思われてならなかった。それはすなわち、恋と大して変わらないのではないかと、湖馬は結論した。  やっぱり、歌仙様が好きなのだろうな。  そんな考えが湖馬の頭の中をぐるぐると回っていた。素直に表情に出て、目元が揺らぎ口元が震え、そわそわとしてしまう。  東雨は不思議そうな顔をしながら、きちんと膝を揃え、そこに手を重ねて置いた。さりげないその動きに湖馬は見とれていた。 「若様に、安心して欲しいんです。俺、もっとしっかりしないと……」  東雨は唇を結んだ。目元に浮かぶ儚い痛みが、湖馬の奥を震わせた。 「……祥雲には、こういうのあまり必要ないのかも」 「それって、やっても無駄ってことですか?」  東雨は肩をすくめ、声を落とした。湖馬は焦って、 「いや、そうじゃなくて……右衛房で聞いたんだ。備拓様が祥雲のことを褒めていたって」  東雨は顔を上げた。湖馬は頷いた。 「備拓様は実力に厳しい人だ。それが、祥雲はまるで、昔の燕涼景を見るようだ、って」  突然飛び出した名に、東雨は膝の手を握りしめた。  涼景と比べられることがあまりにも意外すぎて、東雨は思考が追いつかなかった。それ以上に、思い出された横顔がやたらと鮮烈だった。  ……会いたい。  そう思ってしまってから、東雨は慌ててそれを打ち消した。 「祥雲は、形を気にしなくてもいいと思う」  控えめに、湖馬は言った。 「きっと、祥雲にはそんなの飛び越えた、何かがあるんだと思う」  東雨はまた、小径に向いた。気持ちは落ち着かず、わずかに細めた目の奥に、不安定に揺れる光があった。  隣に湖馬がいることも忘れ、一人の思考に沈みこむ。犀星の面影と涼景の眼差しが東雨の心を埋めていた。さらに、玲陽の微笑みが差し込み、白い蓮章の背中が蘇った。  気持ちが、おかしい……  東雨は目尻に力を込めた。

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