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21 日陰に咲く(2)

 次々と浮かんでくる記憶は、次第と白んで交錯し、ありもしない情景すら混じり始めた。体の芯が、ふつ、と熱くなる。その正体が何か知っていて、気づかないふりをした。 「そういえば……」  湖馬は目を泳がせた。 「明日の紅花祭、祥雲は行かないのか?」 「……え?」  東雨はまた、反応が遅れた。 「俺はいいんです」  何かを吹っ切るように、東雨は大きな声を出した。 「若様と陽様の邪魔はしません」  そう言って、意味ありげににっこりとしてみせた。  その笑顔に、もう湖馬は夢中だった。頬が赤くなる気がして、精一杯に平然とした顔を作ってみるが、どうにも無理があった。東雨は気づくこともなく、 「若様は、ずっと陽様と一緒に行きたがってました。もちろん口では言いませんけど、見ていればわかります」  そう、自分は誰よりも見ていたのだから。  東雨は、引きつりそうになる口元を意識した。湖馬は恐る恐る、 「歌仙様は、承親悌のことが……その……」  最後は言葉を濁した。東雨は一つ、頷いた。 「もちろん。若様には、陽様がすべてです」  東雨の声はわずかに掠れていた。  そう、言い切るのか。  湖馬は、苛立ちとも安堵ともつかない喧騒を胸に感じた。  犀星の本音など、態度からいくらでも透けて見えた。それは湖馬にすら容易にわかることであった。だが、東雨の気持ちを思うと、素直に肯定できなかった。  東雨は、そっと首を傾げた。 「湖馬様は、紅花祭に行ったことがあるんですか?」 「……去年、歌仙様の警護で一度だけ」  東雨は上目遣いに湖馬に向いた。好奇心に輝く瞳に、湖馬は釘付けだった。 「紅花祭って、どんな感じなんですか? 俺、行ったことないんです」 「ええと……」  湖馬は少しでも期待に応えようと、必死に言葉を探しながら、 「祭の間は、花街中が本当にきれいに飾られていて……色とりどりの布や紐が揺れて、街がひとつの花みたいに思える。人も、たくさん集まる。都だけではなく、近隣からも……」  湖馬は次々と、自分が見た限りを丁寧に話してくれた。  東雨は、その一つ一つに熱心に耳を傾けた。まだ見たことのない祭りの景色が、目の前に浮かぶようであった。  華やかな街で、犀星と玲陽はどんな顔で笑うのだろう。祭りよりもむしろ、その顔が見たかった。  東雨の胸の奥に、針の先で突いたような焼けつく思いが生まれた。  それは嫉妬と呼ぶにはあまりに幼く、憧れと呼ぶには程遠い、離れて大切にしておきたい気持ちだった。  話しの最後に、湖馬は一つ、つけ加えた。 「契り紐って知ってるか? 花町の風習なんだ。一本の紐の端を、相手の手首に結ぶ。結び合った二人は、二度と離れることは無いという願掛けなんだ」  東雨はとっさに、自分が誰かの手首に、紐を結ぶ想像をした。同時に、その人が誰であるのか知るのが怖くて、考えることをやめた。  湖馬の目は、そんな東雨の心のさざ波すら愛しむように、静かに向けられていた。だが、その切なさに東雨が気づくことはなかった。  然韋が忠誠を誓う宝順帝。  しかしその権威は、決して盤石ではない。宮中には、凡庸かつ冷徹な統治を快く思わない者たちの気配が常に蠢めいていた。静かな不満のうねりは、三年前、北方の国・千義との戦乱の最中に、宮中の内乱となって吹き出した。  第一親王・|長雀《ちょうじゃく》は、皇位をめぐって、宝順帝と、第一皇位継承者である夕親王に弓を引いた。もう一人の皇位継承権を持つ玲親王は宮中にはおらず、難を逃れた。  当時、宮中では然韋率いる禁軍と、英仁が指揮する左近衛、そして、涼景不在で英仁の指揮下にあった右近衛が守りに当たっていた。  長雀は己の私兵を中心に、奇襲をもって夕泉の奏鳴宮を襲った。  長雀の動きを察知していた然韋は、英仁と結託した。  事前に夕泉を天輝殿に移し、禁軍で守りを固めた。次に、英仁率いる左近衛と右近衛が動き、長雀親王の軍勢を迎え撃った。  西側、白虎門から始まったこの争いは、函の歴史において数少ない、宮中を戦場とした乱戦となり、多くの貴人たちにも被害が及んだ。  長雀の私兵と、それに同調する民間人を交えた部隊は、白虎門を外側から打ち壊し、中央区に流れ込んだ。暴動の波が目指したのは天輝殿だった。  英仁は進路上にあった矢倉を拠点に兵を指揮した。善戦したものの、不幸にも戦いの最中に致命傷を負い、その場であっけなく命を落とした。軍を引き継いだ備拓が劣勢を押し返し、最後には反乱軍を門まで後退させることに成功した。  北方前線に出ていた涼景は、この乱を聞きつけて軍の一部を率いてとって返し、内部の備拓と協力して、門の外と内から挟み撃ちとした。こうして、長雀親王の皇位略奪を求めた反乱は、半月の混乱の末、英仁の死という悲劇を残し、幕を下ろした。  この一件は、千義との二年に及ぶ戦いに疲弊していた人々の心をさらに暗く追い詰めた。不安を煽るように、武器や火薬、食料が、高い値で取引された。誰より民心に敏感だった玲親王は、このことを憂慮し、自ら涼景に願い出て前線へと赴いた。  犀星はそこで、大規模な最終作戦に加わり、結果的に政治的駆け引きによって千義との休戦へと持ち込むことに成功した。  玲親王のこの働きは、民衆に安堵をもたらすとともに、その人気を不動のものとした。  それは、次なる乱れへとつながる危険な布石にも思えた。  成功を得た者が次に考えること、それは決まって権力の保持と安定である。  玲親王に出世の意思がないらしいと言う噂は、前々から宮中で知れ渡っていた。  有能でありながら、権力に無欲な末弟。  だが、皇帝を守る身として、然韋は決してそれを楽観視することはできなかった。  親王には、五亨庵がある。  かの地は、古より力が集まる場所として、陰陽に関わるものにも一目をかれる遺跡だった。  そこを根城とし、さらに皇帝の寵愛も得る涼景を傍に置き、自分自身も美貌と才知によって民心を得る政治を続けている。  五亨庵は決して侮ってならない相手だ。  警戒はしつつも、然韋には、五亨庵に手を出すことはためらわれた。  かつて、生まれたばかりの玲親王を都から逃し、十五年後、強く望んで召喚したのは、然韋の最愛の主人・宝順の意思である。宝順を重んずれば重んずるほど、然韋は玲親王を厚遇しないわけにはいかなかった。  実際、玲親王自身も然韋に対し丁寧に接し、礼を失することはなかった。宝順のいかなる命令にも誠意を表して応える姿勢は、従順な臣下そのものだった。  だが、気になる。  然韋は石畳の向こうに目を向けた。  五亨庵には慈玄草がいる。慈圓は事あるごとに宝順に諫言し、その意思を正そうとしてきた人物だった。  己に対し正論を突きつけてくる慈圓は、宝順帝にとって目障りで扱いにくい相手に他ならなかった。その慈圓が今もなお五亨庵にあり、政治の要職にある以上、玲親王を掌握し、どのような策謀を巡らせないとも限らなかった。  玲親王の氷の仮面のしたに、いかな素顔が隠されているか、それを読み解くのは容易いことではなかった。  五亨庵のすることは、いつも想像を超えてきた。  昨日は、玲親王の直轄地となった南西の宿場に、新たに湯治場を建てるとの申請も出されていた。その裏にどのような思惑があるのか、計り知れなかった。  慈圓と涼景。この二人が揃って味方する以上、玲親王は宝順にとって安全ではない。  然韋は常に、五亨庵の動きに敏感だった。  一つ、糸のほつれ目を見つけたならば、そこからすべてを引き摺り出す。  今の世が、宝順帝をどう裁こうと、然韋には己の信念に殉ずる覚悟があった。  忠実な臣であり、宝順を思う然韋と心を同じくする者が、もう一人いた。 弟・夕泉親王である。  今日も、訪問の予定が告げられていた。  日の光が溢れる天輝殿の|階《きざはし》は、いつもより白く輝いて見えた。  展開して警備に当たる部下たちの動きを視界に捉えながら、然韋はじっと遠くに目を向けた。  夏が近づき、緑が日々、色濃さを増した。蝶が少なくなり、代わりに蝉の声が絶え間なくなった。  ふと、然韋の胸に昔の情景が重なって見えた。  然韋が初めて宮中に上がったのは、十二になったこの季節だった。  武官の家に生まれ、ひたすらに皇家に仕えることを教えられてきた。  いつか自分の|主《あるじ》を持ち、その忠義のために身を捧げることが、幼い然韋の思い描く輝かしい未来だった。  自ら望んで武の道に入り、時の皇帝・蕭白に仕えた父とともに宮中の一切を学んだ。父は周りに信頼され、皇帝の情愛も受けた大人物であった。  その背中を追いながら、然韋もまた必死に励んだ。  その頃、彼が仕えることになる親王が、正式に継承者として世に出た。  のちの宝順帝、|齢《よわい》九つの少年だった。  宝順を前に、己の未来を夢見た感動は、夏を迎えるたびに鮮やかに蘇った。  深く記憶に浸っていた然韋は、馬のいななきに我に返った。見つめる道の先に、左近衛の隊列が見えた。  先頭を行く備拓の黒い馬。それに続く二列の騎馬隊。  騎馬の中央に守られた帳車は、夕親王のものである。柔らかな薄い緑の天蓋が、木の葉よりも優しく揺れていた。  軽快な馬蹄の音は石畳に響き、それは然韋だけが見ることを許された美しい式典のようでさえあった。  備拓率いる隊列が、天輝殿の階の下に到着した。  然韋は段を降りた。  その頃には、然韋の背後に禁軍の兵たちが整然と並んでいた。  近衛が丁重に帳車に歩み寄ると、踏み台を置き、静かに戸を開いた。  音もなく、墨色の絹の靴が伸ばされ、台を踏んで、夕泉が姿を現した。  その場の皆が、一斉に首を垂れた。  薄い銀色の袍に同色の裳を身ににつけ、帯には濃いめの銀鼠、眩しく白い艶のある紐が締められていた。百合の形に開いた袖から、白檀の扇の端が覗いてた。口元を覆う面纱の玉飾りは日の光を弾いて七色に光輝くようであった。  夕泉は常に物静かで政治の表舞台に出ることもなく、軍事に口を挟むこともなかった。  しかし、宝順を思い、その安寧を願う心は、然韋に勝るとも劣らない。十日を空けることなく、奏鳴宮から天輝殿へ足繁く通うのが、夕泉の習いとなっていた。  備拓は先に立って夕泉を案内してから、慣れた様子で脇に避けた。  左近衛の務めはここまでだった。  互いに頷き、夕親王の警護が然韋に移った。天輝殿より先は、禁軍に全てが委ねられる。  然韋は丁寧に頭を下げた。  夕泉は、宝順の敵ではないと心得ていた。  しかし、同時に、心を許すことはない。  宝順と一歳違いの夕泉を、然韋は幼い頃から知っていた。利発だった宝順に比べ、奥底が見えない薄気味悪さを、然韋はこの日陰の親王に抱き続けていた。それは、年を追うごとに更に影を濃くするようだった。 「兄上はいかに?」  夕泉は待ちかねた声で、然韋に尋ねた。 「陛下はただいま、午前の謁見に応じていらっしゃいます。しばらく、庭でお持ちくださいますようにとの仰せにございます」  然韋は階を上がり、左に折れた。石の回廊をめぐり、中庭へと案内していく。  周囲を高い城壁で囲まれた、複雑に入り組んだ通路と階段。然韋は夕泉の前を歩きながら、背後に決して油断はしなかった。夕泉の後ろから、然韋の腹心が同様に厳しい目で従っていた。間に挟まれた夕泉だけは、どこか、くつろいだ空気をまとっていた。  然韋は胸がざわついた。  夕泉は宝順をいたわりこそすれ、傷つけることはないと承知していた。だが、その有り様は、涼景同様に、然韋には許し難かった。むしろ、兄弟であるぶん、夕泉の罪の方が重いとも思われた。  誰もが、陛下を利用する。そのお心に漬け込む。

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