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21 日陰に咲く(3)
然韋はひたすらに宝順を思い、案じ続けていた。
夕泉たちの姿が消えると、すぐに禁軍が入り口に立ち並び、人の柵を作った。
備拓は心の中で息をついた。然韋も、夕泉も、遠い存在のような気がした。
時を分けず、宮中には様々な思惑が交錯する。
誰が誰を信じ、誰が誰を利用し、誰が誰を切り捨てるのか。それは誰にもわからなかった。
その策謀の渦には、個人の願いなど酌量されはしない。
一言の呟き、一つの仕草、視線の動き、それで全てが簡単に崩壊するのだ。
真に心許せる友は、宮中では得られない。
備拓は長く、それを噛み締めてきた。
かつて仕えた英仁もまた、確実に見えない力に犯され、晩年はひどく歪んでしまった。
そんな英仁を、夏史は信頼し、己を賭けた。
そしてその夏史もまた、いつしか壊されてしまった。
すべてが終わった今も、備拓には夏史が全てを一存で行ったとはとても思えなかった。何かに取り付かれたような夏史の動向は、間近で見ていた備拓にも不可解だった。
備拓は部下たちを振り返った。
左近衛を門前の詰所で休ませ、馬上で備拓は、先日の玄武池での出来事を思い出していた。
夕泉が、状況が不透明な中で、その場を動かぬと言った時、備拓は強く撤退を進めることができなかった。
長く染みついた宮中の習慣のためと、思いたかった。だが、本当の理由は、己の保身ではないのか。怒りを買い、失うことに怯え、諫言をためらった。
あの場は夕泉の身の安全が優先だったはずだ。己の権力が散ることすら恐れずに、行動を起こすべきであった。自分の至らなさは、夕泉だけではなく、部下たちをも危険に晒した。
いつから、これほど臆病になった?
儀礼を重んじると言えば体裁は良いが、実際には意気地がなかったのだと、備拓は自分を嘲った。
あの時、まるで備拓の弱さを見抜いたように、若い五亨庵の近侍は、夕泉に対し言い放った。
夕泉一人が残れば良い、周りを巻き込むな。
直属の臣下である備拓にすら、はばかられる暴言だった。そして皮肉にも、まことの忠臣であればこそ、言うべき諫言であった。
あの青年には、それができた。
備拓は、東雨の決意に満ちた面差しを思い出した。
あの言葉の裏には、主人への厚い敬愛があった。夕泉の悲劇は、犀星の悲劇である。
そのたったひとつの思いが、あの青年に、あの言葉を叫ばせたのだ。
厳格に生きてきた備拓にとっては、初めて見る荒れた場面あった。官吏同士の罵り合いは、飽きるほどに目にしてきたが、皇族に対する暴言を聞いた事は無かった。
なにより、備拓をじわじわと追い詰めたのは、言葉そのものではなかった。
犀祥雲の胆力、冷静な判断と迷いなき行動、うちに秘めた主人への愛。
玲親王が危険を冒して宝順を策に落とし、法の網をかいくぐり、自ら侍童殺害という冤罪を負いながら、それでも守りきったのは、あのような人物であったのだ。
裏を返せば、玲親王にとって祥雲は、それだけのことをする価値のある人間だったということの証明だった。さらに、その愛を受けたからこそ、祥雲は一層、身を投げ出して玲親王に尽くすのだ。
愛し、愛され、応え、信頼する。
宮中において人とのつながりほどもろく、儚く、頼りないものはない。毒とはなっても、薬とはならぬ。鎖とはなっても、暖かな糸とはならぬ。
だというのに、五亨庵ではその奇跡が確かに現実になっている。
それを目の当たりにした備拓の心には、玲親王と祥雲との深いつながりが、生涯忘れることのできない記憶として刻みつけられた。
犀星と祥雲。そして、玲親王と涼景。
五亨庵とは……
備拓は、天輝殿を振り返った。
夕泉は今夜、兄と過ごすことになっていた。
夜になれば、左近衛はこのまま、天輝殿の夜間勤務に入る手筈だった。
備拓の年と苦労を重ねた顔に、表現しがたい哀愁が浮かんだ。
禁軍、夕泉、左近衛。
清々しい初夏の日差しの下で見えた宮中の暗い影の一部始終を、慎は木立の陰から覗き見ていた。
蓮章は午後から、犀星たちの警護で花街へ行く。当然、自分も隠れて同行するつもりである。準備で手が離せない蓮章に代わって様子を見に来た慎は、思いがけない場面に出くわし、苦虫を噛み潰した。
夕泉が天輝殿に入るとき、決まって良くないことが起こる。
一応、リィに知らせておくか。
五亨庵へ向かおうと、茂みの中を歩き出した慎は、数歩のところで再び立ち止まった。腰を落として身をひそめる。
右衛房の方角から、落ち着いた身なりの涼景が一人、歩いてくるのが見えた。
思わず、慎の顔が毒でも吐くのではないか、という歪み方をした。
涼景が、一人で、徒歩で、天輝殿へ。
これが最悪を意味することを、慎はよく知っていた。
リィに……知らせられるものか!
慎は唾を吐き捨てた。
優しい安珠を前にしても、東雨は長いこと、言葉が思いつかなかった。
伝えたいことははっきりとしていて、あまりにも単純である。
しかし、それをどのように説明したらよいかとなると、難しい問題だった。
初夏の白い光が、安珠の小さな庵の中に優しいぬくもりを注ぎ込んでいた。
寒くもなく暑くもなく、湿ってもおらず、肌はピリピリするような乾燥も感じない。
安珠は黙って、少しまどろむように座ったまま、東雨の言葉を待っていた。膝の前に置かれた茶は、とうに冷めていた。
せかせることもなく、話題を出すこともしない。
ただじっと東雨の心の準備が整うのを、温かに待ってくれた。
東雨は数を数えるように呼吸した。
それからようやく、指先で膝を強く掴みながら、安珠の襟の合わせのあたりを見つめて、口を開いた。
「とても恥ずかしいのですが……」
声は、それを聞くだけで、本当に言いにくいのだとわかるほど、上ずっていた。
「わしは医者だからどんな話でも聞くし、安心して話してくれていい」
安珠の言葉に、東雨は自信なく頷いた。
「安珠様のことは信頼していますし、そういうものなんだろうと思うのですが……でも、なんと言っていいか言葉に迷います」
「一番使いやすい言葉を使って、話してごらん」
「でも、失礼があったりしてはいけませんので……」
「何を言っても、失礼ということはない。先に約束しよう。安心して話してみなさい」
「……わかりました」
東雨は大きく息を吸い、長くそれを吐いた。目線は上げられなかったが、声は少しだけ張りを取り戻していた。
「あの、冬の大怪我が過ぎてから……」
東雨はゆっくりと話し始めた。
「俺の体は、少し調子を崩しています」
「あれだけの傷を負ったのだ。そうなってもおかしくない。おまえが悪いわけではないのだよ」
安珠の優しい相槌に、東雨は、少し肩の力が抜けた。
「体力は、もともとそんなにないですけど、でも、だいぶ楽になりました」
「歌仙様も気にかけてくださるか?」
「はい。大事にしてくださいます」
大好きな犀星の笑顔が思い出されて、東雨は膝をぎゅっと縮めた。
「痛みもまだ続いてますが、俺の周りには古傷を抱えている人が多くいて、助けてくれます。どうにかやっていけそうです」
「そうか、それは心強いな」
「はい」
東雨は、先に言うべき事は言った、と一度呼吸した。そして視線を横にずらした。
「問題はそこじゃなくて……」
話そうとしても、言葉が喉でつかえた。
それを見て、安珠の柔らかな顔が、喉の奥から東雨の言葉を引き出してくれた。
「情動に関わることかね?」
東雨は迷いながら顔を上げた。
かすり傷に優しく軟膏を差し出すような、よく見る安珠の顔だった。
東雨が、黙っていると、安珠はそのまま続けた。
「おまえくらいの歳だと、色々と心に合わせて体も動くだろう。だが、おまえの傷では、自分でどうすることもできない。体の内側に熱が溜まり、それを冷ます術もない」
東雨は唇を噛んだ。
見るもの、聞くもの、思うこと。その全てが体の中に溢れ、逃げ場を失って、自分自身を翻弄するのだ。
「もしかしたら、そんな生きづらさを背負っているのではないかと案じていたのだ」
「はい……おっしゃる通りです」
東雨は、何度も頷いた。安堵に、全身の力が抜けた。
「なんと説明していいかわからなくて」
力なく、東雨は言った。
「前はどうにかできましたけど、今はどうしようもなくて、何か方法があれば……」
安珠は黙って腕を組んだ。東雨の抱えた問題を解消するための手段は、いくつかあった。まだ恋も知らず、人との情に慣れず、そして誰よりも心優しい東雨には、何を言うのが適切か、迷うところだった。
「よく使われる方法としては……」
と、安珠が探りながら、
「気持ちを他のものに向けるのは有効だ。剣術でも家の仕事でも、書を読むことでも絵を見ることでも、楽を奏でることでも良い。心を違う方向に持って行く」
東雨は黙ってそれを聞いていたが、少し寂しそうに瞬いた。その様子から、安珠は察した。
「そのようなことは、すでに試したようだな」
東雨は、こくんと頷いた。
「それでも、うまくいかなくて」
「そうか」
安珠は穏やかな顔のまましばらく考えると、心を決めたように東雨の目を見た。
「これからわしが話す事は、少し難しいかもしれないが……」
東雨は真剣な目で、安珠を見返した。
「いずれ、おまえの助けになるかもしれないから、知識だけは伝えておこうと思う」
言いながら、安珠は笑顔から真面目な顔へと切り替えた。語り口調も深刻さが増した。
「はい」
背を伸ばし、東雨は一つ息を飲んだ。
「今すぐにとは言わぬが……」
安珠は一言、前に置いてから続けた。
「もし、おまえがいつか、思いの通じ合う相手と出会い、寄り添えた時、その体の熱も自然と収まる」
思いの通じ合う相手……
いつか自分にも、そんなことが起きるのだろうか。
東雨の脳裏を、様々な出来事が駆け抜けた。最後に残ったのは、遠くを見つめる涼景の横顔だった。
東雨は左右に視線を動かし、それからまた安珠に戻した。
「おまえの心が、その誰かと響きあった時、おまえの体も響き合うのだ」
それはとても抽象的だったが、なぜか東雨の心に、すとんと入ってきた。
「相手の喜びが、自分の喜びになる。たとえ肉体的に困難を抱えていたとしても、心が満たされれば体もそれについてくる。心と体は不可分であり、分けて良いことはない」
東雨は黙って頷いた。
「今はまだそのような時ではないかもしれないが、体の熱を否定せずともよい。それはおまえの心がそう動いているからだ。その動きは自然なものであり、豊かに人を思える証拠でもある。誇って良いことなのだ」
涙が、ポロリと東雨の両眼からこぼれ落ちた。喉の奥が痛くなった。
それは、熱い熱い涙だった。
東雨は拭うこともなく膝に落ちる雫を見た。
これでいい。
これでいいのだ。
心の中の重荷が、みるみる抜け落ちていった。
安珠の庵を訪ねてからずっと不安そうだった東雨の顔に、ようやく柔らかな笑みが浮かんだ。
「ありがとうございます」
透き通る声で、東雨は頭を下げた。
安珠もまた笑顔に戻って、柔らかな眼差しで東雨の涙を見た。
日差しがふっと緩み、風が柔らかく、部屋の中を撫でた。
わずかな薬草の香り、そして忘れていた茶の香りまでが東雨の世界に戻ってきた。
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