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22 紅花祭(1)

 ついに待ち望んでいた日が訪れた。  犀星にとって、それはいつ叶うとも知れない悲願の日であった。  そして、玲陽にとっては、触れるもの全てが初めての、都の祭。  二人は五亨庵から蓮章と三人で連れ立ち、まるでどこにでもいる庶民の顔をして、花街の門までやってきた。  今回の警備計画は、右近衛では密かに、逢引き警備と呼ばれていた。その名からも想像できる通り、発案も執行も蓮章である。ものものしさを嫌う犀星のために、私服の右近衛や暁隊が市井にまぎれてさりげなく見守っている。花街に入れば、景色に溶け込んだ自警団が目を光らせている。  あくまでも、犀星と玲陽が周囲に気兼ねなく過ごせるように、との蓮章の計らいが随所に見られた。不器用な涼景では、こうはいかない。ずらりと並んだ近衛や、無骨な暁隊士に囲まれていては、安全は確保されても趣は無視されることになっただろう。  犀星が丹精込めて育ててきた花街を、玲陽は大変に気に入っている。これまでも、何度か治水工事で訪れるたびに、玲陽は町の皆に歓迎された。  歌仙様の従兄弟がきた、しかも美麗である、と、花街は大盛り上がりだ。そして街の性質らしく、ふたりが恋仲である、という話が公然と語られた。  今までどれだけ出入りしても、犀星が花街の『客』になることはなかった。どんな女郎も敵わなかった難攻不落の歌仙親王。蒼氷の親王が寄り添うように歩く玲陽が、『只者』であるはずがない。  人々の屈託のない接し方は玲陽を驚かせたが、今は照れながらも笑顔で返せるまでになっていた。  花街の住人は警戒心が強い。  それをここまで解きほぐしたのは、犀星の人柄と、ここに残してきた数々の実績である。  数年前までの荒れっぷりが嘘のように、街の景観は見事に、そして機能的に整えられた。治水を中心とした犀星の事業は人々の生活を大きく向上させた。同時に、裏の事情に通じた蓮章の助けもあり、自警団の質の改善にも着手して治安の安定にも貢献した。  実利を重んじる犀星には珍しく、見た目の美しさにも配慮したのは、種を明かせば、すべて、玲陽のためであった。  優雅にそよぐ柳並木の水路は、人工の川のせせらぎで、玲陽を懐かしい心地にさせた。河川敷に植えられた草花も、水路に作られた小さな滝も、何もかもが、玲陽の胸に優しい水音と清涼感を届けてくれた。街の奥行きや道幅、柳の下に並べられた長榻の色形に至るまで、玲陽の好みにぴたりと重なる。  ここでは誰も、公私混同などと野暮な事は言わない。それも上等ではないか、と蓮章などは開き直って笑う。結果として、多くの民衆に役立っている。それで良い。  まさに、こいつが国を動かしているな。  蓮章は、光沢のある金色の髪を結い上げた玲陽の横顔を見て、にやりとした。  犀星に寄り添い、玲陽は終始穏やかだった。濃灰の絹の袍は、彼の髪色と並ぶと銀糸のように見えた。墨色の直裾は一見質素だが、わずかに色の違う糸で細やかな刺繍が施されている。腰帯は暗紅色に濃紺の紐を絡めて綾取り、音の良い玉佩が揺れる。  誰にとがめられることもなく、玲陽の腕を取る犀星は、対照的に淡い色合いをまとっていた。好みの薄水と白襟の袍に、生成りの裳。黒地の帯にあしらわれた金の綾紐は、玲陽と対をなす互いの髪色だ。  最近の多忙と睡眠不足で調子を崩している蓮章だったが、犀星と玲陽の静かで優しい雰囲気に触れていると、心の波が収まっていく気がした。  これなら、夜には……  蓮章らしくそこまで想定して、滞在する部屋の内装、小物の指示まで抜かりはない。  すべては順調に見えた。だが、玲陽の曇りのない笑みは、花街の道の途中で、突如、途切れた。 「陽兄様!」  こちらを見て手を振る少女に気づいて、玲陽は言葉をなくした。  柳の下で、玲凛は一人の暁隊の隊士とともに、兄たちを待っていた。 「お待ちしておりました」  見つけるなり、玲凛は玲陽の元に駆け寄ってきた。玲陽は心配顔で、玲凛の無事を確かめた。よもや可愛い妹に悪い虫でもついてはいまいかと、気が気ではない。 「凛どのが、どうしてこんなところに? ……まさか!」  険しい顔で、玲陽は暁の隊士を睨んだ。隊士は慌てて顔を背けた。 「どういうことです! あの人はどなたです! どうして花街にあなたがいるのです!」 「まぁ、落ち着け、陽」  矢継ぎ早に質問をぶつける玲陽に、蓮章が、 「別に、あの隊士は問題ない。凛の護衛を頼んだだけだ」  玲陽の疑いの眼差しが、蓮章を貫く。玲凛が笑って、 「あいつ、私より弱いから、護衛の意味はないんだけどね。一人でいるなって、蓮章様がうるさいから……」  実に不本意だ、と玲凛も首を振った。罪のない隊士はうなだれて、やれやれとその場を離れていく。玲凛は犀星と玲陽を見比べた。 「心配しないでください。私、兄様たちの邪魔はしませんから」  悪戯っぽく片目をつむる。 「ただちょっと、友達と約束があって来たんです」 「友達? 約束? 何のことです!」  玲陽の顔が、さらに険しくなる。  玲凛は、たった一人でも戦場を生き残る強者である。だが、玲陽にとっては、いつまでも可愛くて大切な、か弱い妹なのだ。 「心配しないでください。友達といっても、男じゃありませんから」  玲凛は、玲陽の過保護な気質をちゃんと理解し、うまくあしらう。 「前にここに来たときに、紅花祭で琵琶を奏でるから聞いてくれって、言われたんです。その約束で……」  玲陽の顔が困惑と動揺、そして最終的に険悪に歪む。 「前に来た、ってどういうことですか?」  蓮章が横から、 「以前、凛に花街の事件の調査に協力してもらったことが……」  何の罪もなく、ただ事実を説明しただけの蓮章の頬に、玲陽の容赦ない不意打ちの平手が飛んだ。  こ気味よく乾いた音が辺りに響き、思わずすれ違う人々が足を止めて振り返る。 「いきなり殴るな!」  蓮章はよろめいて、玲陽を睨む。だが、それ以上に玲陽の怒りが上回っていた。 「事件の調査? 蓮章様、凛どのをそんなことに巻き込んでいたんですか!」 「それは、その、いろいろと事情があって……」  蓮章は、確実に痕がついたであろう頬を撫でた。玲陽に殴られるのはこれが初めてではない。 「まったく、おまえはどうしてそう、すぐに手が出るんだ?」 「出させるようなことをするからです」 「そこまで悪いことしたか?」 「しました。よりによって、いたいけな少女である凛どのを、花街へ……しかも犯罪の捜査に協力させるなど……」 「いたいけな少女は、ひとりで三十人の男を倒したりしない」  ピクッと、玲陽の目尻が動いた。 「それ、何の話です?」  声が、明らかに怒りに震えていた。玲凛がにっこりして、 「大丈夫ですよ。単に暁隊の連中をのしただけですから」  びん、と空気が張った。  蓮章は飛び退き、玲陽は踏み込み、犀星がため息をついた。物見高い通行人までが、あとじさり、逃げるように離れていく。 「蓮章様! 凛どのを暁隊に任せるのはいいですが、危険な目に合わせないって約束したじゃないですか!」 「危険な目に合っているのは凛じゃなくて、隊士の方だ」 「そんな詭弁を!」 「事実だ!」  犀星が、ちらりと玲凛を見た。玲凛はその視線の意図に気づいて、頷いた。 「陽兄様、行きましょう」  言いながら、素早く玲陽の手を取る。引き寄せられて、玲陽の怒りが一瞬で消沈する。柔らかい玲凛のからだの感触に声も出ない。 「ほら、陽兄様、こっち! あそこのお店の鹿肉、美味しいんですよ」  玲凛にしかできない力技で、玲陽を蓮章から引き離す。犀星は真顔のままそれを見送り、蓮章は着物の乱れを気にしながら、呆れた顔でそばに寄った。 「なぁ、陽のあの性格、どうにかならないのか?」 「無理だ」  犀星は首を振った。 「さすがに、あれだけは俺にも止められない」 「昔からか?」 「ああ。俺も何度やられたか、覚えていない」 「……苦労してるんだな」  ため息混じりの一言に、犀星は真顔のまま、何も答えなかった。  少し先を、楽しそうに歩く玲凛は、年相応の無邪気な少女に見える。見えるだけで、騙されてはいけない、と蓮章は知っている。  玲陽は、すっかり怒りをおさめて、はにかみながら玲凛の手をとっている。 「でもさぁ」  蓮章は、チラチラと町並みを見た。紅花祭と言うだけあって、赤い花弁を巻いた紙が路地の軒先にかかり、甘い香の匂いが漂っている。艶やかな花模様の布、窓にも飾りが揺れる。 「この街で、男女が手をつないで歩いてるって事はさぁ」  意味ありげに、蓮章は犀星を見た。 「ああいうのに引っかかるんだけど」  と、顎で示す。  蓮章が懸念した通り、派手な羽織の男が、玲陽と玲凛の足を止めていた。 「あのまま、宿に連れ込まれるぞ」 「…………」 「まぁ、親王がいいならいいんだが……」 「よくない」  蓮章の言葉に、犀星は一気に二人に追いついた。素早く間に入り、さらうように玲陽に腕を絡めて引き寄せる。 「わかりやす過ぎるだろ」  にやりと、蓮章はさらに顔を緩めた。  紅花祭の花街は、一年で最も華やかで美しい。そこかしこから聞こえてくる笛や、太鼓、琴の音。そしてそれに合わせて響き渡る歌声、きらきらとした多くの人々の笑い声、話し声。時には、ちょっとした怒鳴り合いも。  皆が美しく飾り、特別な着物をまとって、化粧を濃くし、髪を複雑に盛り上げ、揺れる簪を挿し、扇を持って高い靴を履く。一人の者は少なく、友や伴侶と連れ合って出かける。祭のときだけは、花街は男女遊郭の街ではない。人々の憩いの場、弦楽の娯楽の場に変わる。  さすがに幼子の出入りは避けているが、それでも老若男女があふれる眺めは、普段の花街とは一つ違う。  花街の賑わいは、喧嘩沙汰になりかけた四人の間を柔らかく繋いでいく。  通りの向こうから仮面をつけた芸妓たちが、艶やかな踊りで練り歩いてくる。道の脇に避けて眺めながら、蓮章がふとつぶやいた。 「あの中に俺の知る女が何人いると思う?」  犀星と玲陽が、思わず黙り込む。  玲凛がすかさず、 「全員でしょ」  あっさりと言い切った。蓮章はいたずらっぽく笑っただけで否定しない。  今日ばかりは金を持たなくても花街が楽しめるとあって、あちらこちらに人だかりができている。  普段より品揃えのいい簪や髪紐が、所狭しと店先に並ぶ。色とりどりの飴や、糖蜜につけた果実もある。  薄荷の飴の白さを眺めて、蓮章が微笑して手に取る。東雨への土産に、と、犀星が果実を物色する。  試飲と称し、街路で怪しげな酒が配られている。赤い花弁を浮かべた甘い酒だ。  警戒して、玲凛はこのようなものには興味を示さない。  勧められると断れない玲陽が、また一口受け取ってしまう。見た目は透き通って少量だが、かなりきつい。ぽっと頬が赤くなり、一瞬、足取りが危うくなる。そこは慣れたもので、犀星が背中からさりげなく玲陽を抱えた。  蓮章がそれを見て口笛を吹き、玲凛がコロコロと可愛く笑う。  正面から非番の暁隊の面々がこちらに気づいて、色めき立って寄ってきた。旦次を先頭に、これでもかというほどの悪人面が揃う。玲凛はにっこり笑った。  すっかりこの集団に溶け込んでいる妹を、玲陽は嬉しさと心配のないまざった目で眺める。こんなに可愛い妹は、さぞ、男たちによこしまな目で見られているのだろうと、兄として腹立たしい玲陽である。しかし、旦次が遠慮なく引き寄せたのは、玲凛ではなく、蓮章だ。 「祭りの後で飲まねぇか?」 「今日は警護で来ている」  珍しく、蓮章が真面目なことを言った。 「じゃあ警護の後で? 奢るぜ」 「飲むだけじゃ済まねぇだろう」  言いながら、蓮章はそっと旦次の耳に唇を寄せた。だが触れはしない。これが蓮章のいつもの遊びである。わかっていると見えて、暁隊の面々も揃って下卑た笑みを浮かべた。 「じゃあ俺たちは俺たちで楽しむとするか」

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