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22 紅花祭(2)

 と、手を振って去って行く。すれ違う者たちの顔はみな明るく、晴れ渡った青空に高く笑い声がこだまする。少しホッとした顔で見送る玲陽を、さらに柔らかな表情で犀星が見つめる。  華やかな世界も色彩も、玲陽の目には本当に久しくなかったものである。何よりも隣に犀星がいるのだから、目に映る全てが美しく見える。既にこの二人の間に入る者はなく、言葉をかける者もいない。勝手にやっていてくれという、優しい放置の目が彼らを見守っていた。  半分の月が美しく南の空に見えた。いたるところで様々な曲が奏でられている。ひとつの風に乗って、協奏曲のように重なった。  通りの店を覗いて冷やかしながらゆっくり歩き、ようやく目的の街の中央にたどり着いた。犀星を迎え入れてくれる楼閣は毎年決まっている。中央の辻の舞台を上から見下ろせる、張り出しのある二階の部屋だ。 「じゃ、俺はここで」  蓮章は、役目はここまで、と門の前で足を止めた。 「部屋からあまり身を乗り出すなよ。それから、勝手に出歩くな。夜の案内の頃に迎えに来るから待っていろ」  玲陽は店に入る前、確かめるように蓮章を見た。 「蓮章様。凛どののこと、くれぐれも、本当に、絶対に、よろしくお願いします」 「よろしく、か? じゃあ、せっかくだから、花街の真髄を俺が直接……」  蓮章の冗談に、ぴりりと真剣な怒りが玲陽の顔を走る。蓮章は軽く跳ねて、玲陽の一撃をかわす。 「だから、その性格、どうにかしろ!」 「お互い様です!」  玲凛に関しては、一歩も引かない玲陽である。蓮章もさすがに辟易して、話題を放り出した。 「俺をあてにするな、凛の方が強いんだから。だいたい、俺がどうにかしようとしても、こいつが勝手に……」  蓮章が振り返ったとき、三人の目の前から、既に玲凛の姿は消えていた。 「ほら、これだ」  蓮章は肩をすくめた。背後で、玲陽の殺気が高まる。 「すぐに探さないと……」  玲陽が、自分も行こうと踏み出すが、それを犀星が引き止める。 「心配するな、陽。俺たちがうろつくと、警備を困らせる。蓮章はうまくやってくれる」 「ですが……」 「なにより、玲凛は自分で自分の身を守れる」 「わかってるなら、最初から俺の味方をしてくれよ」  蓮章の嘆きを静かに一笑に伏して、犀星はそっと玲陽の腰に腕を回した。 「では、頼んだ」  犀星は目で蓮章に後を託し、後ろ髪引かれる思いの玲陽を促して、店に上がっていった。  蓮章はふっと長く息を吐いた。  とりあえず犀星と玲陽の身は安全だ。見物客を装って店の前にたむろしていた自警団の数名が、蓮章に頷いてみせた。  問題は、と、蓮章は人混みに目を走らせた。  玲凛の桃色の華やかな装いは、普段であればよく目立つのだが、この花街の客層の中では埋もれてしまう。  どこかで騒ぎでも起こしてくれれば、すぐにわかるのだが、と物騒なことを考えつつ、とりあえず歩みだす。  彼が一人で歩いていれば、あれこれと声がかかる。知り合いは勿論、初対面、男に女。様々だが、誰もが揃って袖を引く。  だが、残念ながら今の蓮章は、完全に対象外の、しかし決して見逃してはならない相手を探している。 「あの娘、琵琶の舞台に出ると言っていたな……」  蓮章は舞台を振り返った。大勢の前で、それぞれの楼閣の代表者が技を競い合う。  今、舞台上にいるのは南側の老舗の楼閣だ。琴を弾く者が一人、笛が二人、鼓が一人。そこに歌い手が一人立ち、さらにひときわ華やかな服装の舞子が二人。それぞれに技を競うかのように、音に乗せ、風に乗せ、優雅に舞う。近くにいる客には、舞い手の香の匂いまでが漂ってくる。  観衆は舞台に群がり、酒を飲み、何かを食いながらその一時を楽しむ。楽の音と、優美な曲線の布が風に舞うさまを、誰もが無心で楽しむ時間である。  蓮章は、辻に設けられた巨大な舞台の周りを中心に、あたりを覗いて歩いた。人の間を器用に抜け、大太刀を下げた少女を探す。少しして、路地の陰でようやく目指す玲凛を見つけた。その隣に、琵琶を抱え、背中を丸めている少女がいる。  蓮章は人目を避けて、二人の後ろに近づいた。すぐに玲凛が振り返り、見てくれ、というように少女を目で示す。  少女・|芙蓉《ふよう》は、かつて玲凛が花街で出会った女郎である。女郎と言っても、気立てと容貌が優れず、客に縁は薄く、その分、琵琶の腕前でどうにか食いついないでいた。今日も、所属する妓楼の舞い姫のために、辻舞台で演奏するはずだ。  すでに、直前の出し物は始まっており、舞台の周りには人だかりができ、思い思いに歓声が飛び交っている。  犀星と玲陽も、二人だけの部屋から、舞台の様子を見物しているはずである。 「支度はいいのか?」  蓮章は、芙蓉に声をかけた。芙蓉は蓮章をちらりと見た。その小さな目は、涙でぐっしょり濡れている。 「何があったの?」  玲凛はそっと声をかけた。 「もうすぐ、出番なんでしょう? 着替えは?」  芙蓉の格好はどう見ても、舞台に上がる着物とは思えなかった。以前会った時と変わらぬ、地味な麻の着古したものだ。  玲凛は、今、舞台上で琴を弾いている芸妓たちの姿と見比べた。舞姫が主役とはいえ、楽器を奏でる者もそれなりに華やかな服装をしている。  玲凛は口元を歪めた。 「もしかして、着物、用意してもらえなかったの?」  小さく芙蓉はうなずいた。グスッと鼻をすする。 「これじゃ、笑われる……怖くて、弾けない」 「そんなことで自信をなくす必要なんてないわ。着物で音楽の良し悪しが決まるわけじゃないんだから」 「でも、やっぱり恥ずかしい」  芙蓉は膝と琵琶を抱えた。 「妓楼の連中は、何も言わないのか?」  蓮章はわずかに苛立って問いかけた。芙蓉は首を振った。 「貸してくれる、って言われてたの。でも、さっき、墨をこぼしてしまったから、貸せなくなったって」 「それ、わざとじゃないの!」  玲凛の声が高くなる。 「ただの意地悪じゃない。そいつら、どこ? 殴ってやる」 「おい、待て、凛」  蓮章はいきり立つ玲凛を遮った。 「全く、血の気が多いのはさすが兄妹だな」 「だって、腹がたつじゃない!」 「だからって、おまえが殴りつければ、余計に芙蓉の立場が悪くなる。ここは恨みを買うと後戻りできない」 「じゃあ、どうするのよ?」  残念ながら玲凛には花街の外聞に関する機微はわからない。だが、少しでも芙蓉の為に、何かしてやりたいという気持ちだけは誰よりも強い。 「そうだ」  玲凛はふと自分の着物を見た。 「ねぇ。これでもいいの?」  芙蓉が驚いたように顔を上げた。 「その着物……?」 「うん。これ、貸してあげる」  玲凛は蓮章が止める間も無く、帯を解いて袍と裳を脱いだ。下に着込んだ薄い黄色の絹の中衣が、体の線を浮き出させ、まるで寝所に座る女郎の身なりを思わせた。蓮章の顔色が変わる。 「凛、やめろ! こんなところでそんな格好……」 「別に裸じゃないんだから、構わないでしょ」 「構う! 見られたら、俺が陽に殺される!」 「芙蓉をこのままにするよりマシよ」  思わず、蓮章は返答に詰まった。どこから悲しんで良いのかわからなかった。 「そんな上等な着物、申し訳ないです」  芙蓉は差し出された玲凛の着物から体を引いた。玲凛は、自分がどんな着物を着ているのか、よくわかってはいない。ただ玲家にいた頃から、与えられるものの中で好みのものを選んでいただけである。  しかしどれを選ぼうと、玲家の娘として与えられるその着物は、どれも相当な代物だった。価値も気にせず身にまとい、泥にまみれ川に飛び込み、土埃を浴びる。玲凛とは、そのような人間である。  幸い、今日はまだ、着物は汚れていない。 「好みじゃないかもしれなけど、我慢して」 「そういう問題じゃない、別の問題がいろいろ……」  蓮章は頭を抱えた。  一度言い出すと、玲凛は曲げない。  芙蓉も、中衣一枚に仮帯の玲凛に焦っている。 「凛さんに、そんな格好させられない」 「私こそ、あんたにそんな格好させられない」  玲凛は黙って、無理矢理彼女から琵琶を取り上げると、着物を着せた。 「帯も」  言いながら、手早く芙蓉に着付けていく。 「少し大きいけれど」  玲凛は襟元を調えようとするが、どうにもうまくいかない。  見かねて、蓮章が手を出した。 「任せろ」 「あんた、できるの?」 「脱がせる方が得意だが」  背中側に少したるみを持たせ、緩やかなひだを作る。蓮章は自分がまとっていた首の洒落布をはずすと、袍の袖をくくるようにたすき掛けし、飾りの結び目を作った。 「凛、簪と櫛」 「うん」  玲凛は、自分の髪から白玉の簪とつげの櫛を抜き、芙蓉の髪に刺した。  服装に比べて地味な芙蓉の顔を見て、玲凛は眉を歪めた。 「ごめんなさいね。化粧は知らないのよ」  言い終わらぬうちに、蓮章が自分の荷物からさっさと化粧道具を取り出し、白粉をはたいていた。 「あんた、そんなの持ち歩いてるの?」 「近衛副長の必需品だ。覚えておけ」 「絶対嘘でしょ」  手際よく、蓮章は化粧を施すと、芙蓉を立たせ、全身を軽く手直しした。 「隅に座って琵琶を弾くだけなら、どうにか形になるだろう」 「そろそろ行かなきゃ。前の曲が終わっちゃう」  二人がかりで整えてもらい、少しは落ち着いたのか、芙蓉はもう一度琵琶を抱きしめた。 「大丈夫よ」  玲凛は身軽になった格好で、ひらひらと袖を振った。薄い菜の花色の優雅な中衣の下に、白い襦袢の色が透ける。腰には不釣り合いの大太刀の紐をくくりつけた、なんとも色めかしい姿である。 「凛、おまえ、その格好で……」  蓮章の方が気を遣う。 「大丈夫。寒くないから」 「そういう問題じゃない」 「じゃあどういう問題?」 「下着姿で歩くなと言ってるんだ」 「下着じゃないわ。もう一枚着てるもの」 「そういう問題では……」 「だったらどういう問題?」  答えが出そうもない。二人のやりとりを見て、思わず芙蓉がくすっと笑う。それを機に、蓮章も玲凛も黙った。 「二人とも、ありがとう。私、がんばるね」  芙蓉が精一杯の声を出し、舞台へ歩いていく。玲凛は蓮章の陰に隠れ、路地の目立たないところから芙蓉の様子を見守った。  ちょうど直前の演目が終わり、壇上で優雅な礼が済んだところだ。続いて芙蓉が所属する妓楼の番である。芙蓉は舞台の端の小さな階段を一歩一歩登って、琵琶奏者の席についた。交椅に座り調弦する。その音すらも、春風の中で美しく響く。 「まぁ、見てくれはどうにかなったか」  蓮章は、ホッと息をついた。 「顔の方は、あれが限界だ……」 「琵琶の腕前は一流よ」  玲凛が路地から身を乗り出し、蓮章に押し戻される。このような姿を衆目にさらすわけにはいかない。  観客たちがざわざわと声を立てる。楼閣に身を置く者は、皆、見目が良いと相場が決まっている。が、残念ながら芙蓉はそれには当てはまらない。それが逆に面白いらしく、あのようなもので夜が務まるのか、と、揶揄が飛ぶ。  芙蓉の耳にも、その心ない言葉が入ってくる。だが、それは今に始まったことではない。玲凛は、蓮章の後ろで、下卑たことを口走る男たちを睨みつけていた。 「イラつくわねぇ」  自然と拳が固くなる。 「文句言ってないで、黙って聞きなさいよ」 「……凛、おかしい」  蓮章が舞台の周りを見回しながら、声を低めた。  芙蓉が琵琶を奏で、琴や笛と合奏を行う。楼閣一の舞い手がそれに合わせて踊るはずであった。だが、調弦が終わっても誰も現れない。芙蓉の表情に不安と焦りと、そして色が抜けていく感があった。 「凛、絶対にここにいろ。人前に出るな」  蓮章は強めに玲凛に釘をさすと、舞台脇で薄ら笑いを浮かべていた采に近づいた。  花街を知り尽くしている蓮章である。  その男が、芙蓉の妓楼の関係者だということは一目でわかった。 「おい」  蓮章は男に声をかけた。 「次の演目だろ? もう琵琶の準備はできている。他の奏者と舞い手はどうした?」  男は蓮章を一瞥し、それからふっと笑う。 「同じ舞台に上がるのは恥なんだとさ」

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