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22 紅花祭(3)

 男は周りに聞こえる大声で言い、客から笑い声が起きた。見ると、舞台の隅で芙蓉が体を小さくして震えている。  蓮章の隣に、案の定、じっとしていられない玲凛が駆け寄った。黄色い着衣がひらひらと舞い、それだけでまるで花街の女のような風情があった。蓮章と並んだ姿に、観客たちが冷やかしの声を上げる。玲凛は一睨みでそれを封じた。 「芙蓉のこと、とことんいじめる気なのね」  玲凛の目尻に、強い怒りが沸いた。 「いいわ。だったら私がやる」  采の男が、一瞬きょとんとする。  玲凛は、蓮章が止める間もなく、つかつかと階段を上がり、舞台の上に立った。鮮やかに艶を放つ絹の中衣がひらりと舞う。  玲凛はそっと着物の袖から右腕を抜いた。下に着込んだ白い襦袢が肌の色と相まって、柔らかく光を跳ねる。ゆるやかに着物を着崩したその姿は、客を取る女そのものだった。  周りから、下卑た声が上がる。それは感嘆であり、ため息であり、期待であり、そして一種異様な興奮だった。  十六歳の、まだ何も知らない生娘の玲凛。だが、それゆえの魅力が、確かに備わっている。  犀星たちの部屋を見上げる勇気は、蓮章にはなかった。 「凛のやつ、俺を殺す気か」  舞台の裏で、蓮章は思わずよろけて壁に背を預けた。  よりによって、歌仙親王の従兄妹、いや、あの玲陽の妹を、あられもない姿で、舞台の上に立たせ、男たちの好奇の目にさらしたとあっては、まず、少なく見積もっても八つ裂きは免れない。  蓮章の絶望をよそに、玲凛は腰に刺していた大太刀をずらりと抜いた。身の丈に合わぬ長い刀身が、白々と日の光を弾き、それ自体が輝きを発するかのように、人々の目を引きつけた。  玲凛は、小さく芙蓉を振り返って微笑んだ。 「どんな曲でもいい。あなたが好きなのをやって」 「でも……」 「大丈夫。私が舞うから」  舞う?  蓮章は耳を疑った。  玲凛が芸事に全く興味がないことは、蓮章も知っている。  覚悟を決めたのか、芙蓉が息を消し、静かに一つ目の音を鳴らした。  玲凛は舞台中央ですっと背筋を伸ばすと目を閉じ、刀を横一文字に構えた。見た目は美しい少女である。女郎も真っ青の立ち姿。だが、その手には強者とて扱いに困るほどの大太刀が、片手で軽々と構えられている。重量があるというのに、軸が震えることすらない。  見物人たちは皆、ほとんどが剣術の素人であるが、中には何人か知る者もいて、その技量に目を見張った。  芙蓉の音が、徐々に連なってゆく。その旋律は春風を巻き込み、人々の心に景色を見せた。花街の十字路の舞台ではなく、それぞれの心の中にある懐かしい故郷の景色が、鮮明に浮かび上がってくる。音のひとつひとつが思い出と結びつき、心を捉えていく。  玲凛はしばし音を聞き、そして何かを掴んだように一歩、踏み出した。音の合間に、刀が空を裂く音が鳴る。それはまるで琵琶と呼応するように、語り合うように響き渡る。震える弦の音と、風の裂ける音。  そして玲凛の一切の無駄のない美しい踏み込みと、剣舞の型。  普段荒っぽい戦い方が板についている玲凛が、このような整った型を踏めることに蓮章は驚いた。基本ができている。玲凛の傍若無人ぶりは、確固とした一沙流の型に支えられたものだった。  蓮章は自分の悲惨な運命も忘れて、しばし、玲凛の剣舞に見入った。  初めは野次や下品な笑いを振りまいていた観衆も、次第にその力量に気づいたのだろう、少しずつその声は静まり、場は琵琶と風音、玲凛の衣摺れすら聞こえる静寂に満たされる。  春風に乗って飛ぶ、可憐な蝶のように裾ははためき、光となった刀身が白い奇跡を描いて人々を魅了する。  妓楼の二階の部屋で、犀星と玲陽は、その姿を目にし、思わず湯呑みを取り落とした。 「あれって、一沙ですよね」  玲陽が震える声で言った。犀星は無表情のまま、しかしこめかみに薄く血管が浮く。犀遠が編み出した一沙流を知る者は限られる。見まごうはずはなかった。その太刀筋は一筆書きを描き、一度鞘から抜かれたなら、一瞬たりとも止まることはない。大太刀は生き物のように玲凛とともに舞台の上を躍動した。 「なぜ、凛が?」 「なぜでしょう」  二人はいつしか、しっかりと手を握っていたが、それは愛情を確かめるというよりも、互いの動揺を抑えるためだった。  観客たちからどよめきが起こる。琵琶の音は美しく、そしてそれに合わせる玲凛の舞も、非のうちようがなかった。舞踏も剣術も理解する蓮章には、ことさら、響く。  花街の祭りの舞台で、剣舞が披露されたなどという話は、前代未聞である。だが、それでも人々は徐々に喝采を上げ始めた。一人が手を叩けば、次がまた続く。  玲凛の動きが、曲に合わせ少しずつ変化していく。調子が乗ったのか、芙蓉も普段よりも激しい旋律を、余すところなく、誤ることなく、弾き切った。  曲の高まりに合わせて、玲凛は身を翻し、上に下へと刀を自在に走らせ、右手で振ったかと思えば、軽く放って左手で掴み、それを横に薙ぎ払い、さらに自分の跳躍と重ねて高く突き上げる。  それはもう、一沙流の型を越えて、玲凛なりの美しい新たな剣術であった。 「こいつ、こんなこともできるのか……」  蓮章が、ぼそりと呟いた。 「陽、あれ」  犀星が、呆然としている玲陽に、琵琶の少女を見るよう促した。 「凛が言っていたのは、あの娘か?」  玲凛の姿に混乱していた玲陽は、うろたえながら、琵琶奏者を見た。 「あれ、凛どのの着物ですよね?」 「ああ。おそらく、簪も。蓮章の肩掛けと……」  犀星は状況をある程度、状況を察した。 「陽、頼みがある」 「はい?」  玲陽は間近く犀星の横顔を見た。頬に犀星の唇が触れて甘やかに囁く。 「これは、やむにやまれぬ人助けだ。蓮章を、殴らないでやってくれ」  犀星の一言が効いたのだろう。夕方、妓楼の門の前まで迎えに来た蓮章を、玲陽はこわばった笑いを浮かべたまま、震えつつもどうにか迎え入れた。  蓮章のほうも相当な覚悟を決めていたようで、いつ首を切られてもおかしくないという絶望的な表情を浮かべ、それでも体は少しだけ玲陽から距離をとってわずかな延命を計っているように思われた。  その二人を犀星と玲凛は顔を見合わせ、安堵を交えて何度がうなずきあった。  物事がややこしくなる前に、と、犀星が先に切り出した。 「あの娘の琵琶は、相当の腕前だったな」 「そうなの! すごいんだから」  よりによって、芸事の素養が皆無の二人が揃って褒めたところで、はるかに造詣の深い玲陽と蓮章の眼差しを、より冷たくさせるだけだった。 「確かに素晴らしい腕前でした」  とりあえず、ここは流さなくては、と玲陽は平常心を保つ。先ほど見せつけられた玲凛の危うげな姿については、あえて触れずにおく。蓮章は、玲陽から三歩の距離をとりながら、 「どれほど実力があろうと、花街では、お互いに足の引っ張り合いが必定。あの娘もその犠牲者だ」  犀星がうなずいた。 「あの娘の妓楼、手を入れる必要がありそうか?」  蓮章は少し唸った。犀星が一声かければ、妓楼ごと、簡単に潰すことができる。  親王の従兄妹である玲凛の友人を辱めた罪、玲凛自身にあのようなことをさせた事実。その詫びすらなく放置している現状。素性を知れば、妓楼主が震え上がることは間違いない。  平穏が訪れれば、徐々に街の質を乱すものも現れる。今後の見せしめのために罰するのもまた、治安の維持には欠かせない。 「このまま見過ごすことはできないが、親王は関わらない方がいい」  蓮章は、首を横に振った。 「ここはわざわざ、恨みを買う必要はない。あの妓楼には、俺から言っておく」  眉間にしわを寄せ、玲凛が蓮章を睨んだ。 「何を甘いこと、言ってんのよ。ここはさっさと潰しちゃえばいいのに」 「おまえには情けがないのか?」 「それは情けって言わないの。甘さ。あの子がこれからどんな目に合うか考えてもみてよ」 「考えるのはおまえの方だ。妓楼を潰せば、無関係の者まで路頭に迷う。重要なのは、このようなことが繰り返されないよう、芙蓉の今後を確保することだ」  二人の言い合いが始まる。 「もしここであの妓楼が潰されたら、芙蓉が逆恨みされる。しかも、親王の後ろ盾がある娘を粗末にはできない。待遇に苦慮するのが目に見えている芙蓉を、他の楼閣も容易に受け入れはしない」 「あれだけの腕前があるなら、文句はないでしょう?」 「実力だけではどうにもならない世界もある。女の嫉妬や情念は、時に理不尽を押し通す力となる」  玲陽はじっと考えていた顔を上げた。 「どうにか、なりませんか? このままにしておくのは、あまりに忍びないです」 「それとも、ここでも役立たずなわけ?」  玲凛が嫌味たっぷりに蓮章を煽る。 「……きついな」  蓮章は言葉を濁した。  黙っていた犀星が、皆を見回した。 「誰もが歓迎するとは限らないだろう。特にあのように派手に振る舞ってしまっては。だが、陽も言うように彼女の腕は良い。俺もどうにかしてやりたい。蓮章、無理を承知で、頼めないだろうか」  三人は揃って犀星を見た。|蒼氷《あお》の親王として、情を見せることは稀である。不器用な犀星だが、その心の中には柔らかな感情が溢れている。東雨などはよくそれを言い当てて、若様は本当は感情豊かだと言う。  犀星の表情は大きく変わりはしないが、青い瞳には人としての思いやりが宿っていた。  花街において、女同士の嫉妬の渦は避けられない。たとえ芙蓉ひとりをどうにかしたところで、こんこんと湧き出す妬みの泉を止めることは、誰にもできない。 「わかった、やれるだけはやってみよう」  蓮章がついに折れた。 「ここは歌仙親王の街だ。おまえが望む理想を追いかけて良いと思う」  玲凛は少し首をかしげて蓮章を見た。  普段の蓮章は常に軽く冗談を口にし、物事を茶化して歩く軽い男である。だが、それはあくまでも一面に過ぎない。蓮章にとって犀星は、自分の大切な花街を蘇らせてくれた恩人である。面と向かって言う事はなくても、できる限りの力を貸したいと願い続けている。  犀星に対する、忠誠にも似たまっすぐな思いが根付いているのだと、この時初めて、玲凛は思った。  これなら、兄様たちを任せて大丈夫かも。  玲凛は、ふっと笑顔になった。 「じゃあ、私、芙蓉と会う約束があるから」 「また約束ですか」  玲陽が途端に悲しそうな声を出す。玲凛の身を心配してというより、単に寂しい、という思いが出る。 「せっかく一緒に居られると思ったのですが」  目を伏せた玲陽の顔の下に玲凛は素早く潜り込み、上目遣いの、妹特有の特別な視線で見上げた。 「兄様、今夜一番、一緒にいなくてはいけない人は誰ですか」  その言葉に玲陽の頬がぱっと赤くなる。昼間、酒に酔った時よりも、危うげに目が潤む。 「陽兄様は、この世界で一番大切な人と一緒にいてください。それは私ではないはずです。だって私は、兄様の二番目ですから」  言い訳のしようのないその言葉に、玲陽は何をどう返していいか、わからぬまま、ただ困り果てて、そっと犀星の手元を見た。待っていましたとばかりに、犀星の手がすんなりと玲陽の指に絡む。そのまま、玲陽は恥じらうように下を向いてしまった。  玲凛は腰に手を当て、胸を張った。 「こうしてちゃんと着替えも済ませました。芙蓉にも、祭りを楽しめるだけの着物は用意しました。私は女同士楽しんできますから」  そこで、ちらりと蓮章を見る。 「兄様たちの邪魔、しないでよね」 「俺は親王の警護でここにいるんだ。邪魔はしないが目を離すことはできない」 「そうでした。そうでした」  玲凛は軽く明るく笑い、そして手を振る。 「今夜は安全な場所に泊まりますので」  花街に安全な場所などあるのか、と、思わず玲陽が心の中で叫んだ。それを察したように蓮章がそっと横から、 「宿についてはちゃんと手配してある。誰にも手出しさせない場所だ。安心しろ」  蓮章は悪戯めいて笑った。 「陽は余計なことは考えず、眠りたい場所で眠ればいい。まぁ、眠らないというのも一興か」

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