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22 紅花祭(4)
含みのある言い方に、さらに玲陽は何も言えなくなってしまう。
終始、犀星は微笑み、静かに見守る。何を言われても動揺することもなく、揺れることもない。だが、心の中は玲陽へのひたすらの情が渦巻いているのだろうと、蓮章は小さく笑いながら、いつになく穏やかな犀星を眺めた。
玲凛と別れ、三人はゆっくりと歩き始めた。
夕闇が少しずつ近づき、人々の流れが変わる。
中央の舞台には篝火が焚かれ、静かな舞と弦楽がゆったりと流れている。
人々が向かう先は大通りに並行して走る、最大の水路である。丁寧に石が積み上げられた堤に、揺れる草花。この街を流れる川といった趣だ。犀星が自然の地形に近づけて、流れを作り、川底を下げて砂利を敷いた。至るところに小さな滝を設け、蓮の咲く池も配置されている。水を割って音を響かせる岩も、風情と共に大水の流れを制御する役割を兼ねて置かれている。
堤は、ゆるやかに道へとつながり、その途中には灯籠が立てられ、生け垣には季節ごとの花が咲き、柳が長く枝の影を落とす。それらはわざと上の道から見えないよう、陰を作るように植えられている。二人きりになりたい者たちの、良い隠れ場所だ。
今夜などは特に人が多く、どこにいても人目にはつくのだが、逆に誰もが想い人のことしか見ていない。二人の世界があちらこちらに点在し、その間を冷やかしながら独り身や集団が通り抜けていく。
玲凛は芙蓉と約束したという、上流に向かった。
「上は騒がしい。俺たちは下へ行こう」
蓮章が先に立って二人を導く。
大人しく蓮章の後ろに続きながら、犀星は玲陽の手を、丁寧に握り直した。
去年まで、紅花祭に参加する際、いつも犀星と蓮章の二人きりだった。荒んでいた花街が、確実に力強く息づいていく様子は、犀星にも蓮章にも嬉しい眺めだった。
しかし、どんなに賑わう祭りを見ても、犀星にはどこか遠い世界の出来事と思われ、寂しさを感じる瞬間があったのも事実である。人々が寄り添いながら歩く姿を見ると、胸深くに悲しみと寂しさが渦巻いた。
そんな犀星が、今宵、初めて大切な人を伴って、夜の街へと踏み出した。時折、玲陽の鈴のような声と、それに答える犀星の低い弦に似た声が交差する。蓮章は背後にその優しいやりとりを聞きながら、自分には叶わない恋路を想った。
大通りに沿って流れる水路は、通称、|柳川《りゅうせん》、と呼ばれている。花街らしい名前である。正式な名称はあるにはあったが、今更それを持ち出すほど、さすがの犀星も野暮ではない。人々にならって、柳川と呼ぶ。
堤の並木には、ひらひらと赤い紐がかけられ、枝とともに風にそよぐ。月は西に傾き、|星《ほし》がちらちらと空を飾り始めていた。
「雲がなくてよかった」
蓮章が一段明るい声で言った。
「今までで、一番良い星空かもしれないな」
つぶやくような蓮章の声は、犀星と玲陽に祝福を与えるようだった。それからふと、普段の調子に戻って玲陽を振り返り、にやりとする。
「陽にとっては、満天の星より、隣の星の方が美しいだろうがな」
「蓮章様……」
言い返すこともできず、玲陽は目をそらした。その視線の先に、柳に揺れる赤い紐が映る。
「親王、これ」
蓮章はふと立ち止まり、枝の紐を差した。
一瞬、犀星の顔に動揺が走る。蓮章は意味ありげに、
「俺は向こう向いてるからさ」
そう言って、柳の裏に回った。玲陽が不思議そうに犀星を見つめる。
「……こういうのは、苦手なのだが」
犀星はそっと手を伸ばすと、柳の枝から紐を解き、片端を玲陽の手首にゆるく結えた。玲陽は顔の前に手首を持ち上げて、夜空に透かして風に揺らぐ紐を見た。
「これは?」
「…………」
答えず、犀星は黙ったまま、突っ立っている。玲陽は察した。長く垂れた紐の反対を、犀星の手首に優しく結ぶ。
「これで、いいですか?」
カッと犀星の頬が朱に染まる。玲陽はにっこりと微笑んだ。蓮章がチラッとこちらを振り返るのが見える。視線で、玲陽に何事かを促す。玲陽は思い切って、犀星に一歩寄ると、肩を抱き寄せ、そっと頬に口付けた。
それがあまりに唐突で、息を詰めたような短い声が犀星の唇をついて出た。蓮章さえ、どきりとするような、色めいた吐息に、玲陽はの指が食い込む。
「星……」
星あかりの下、揺れる柳の枝の陰。
思わず互いを引き寄せ、視線が切なげに深く絡み合う。
「続きは宿でやってくれ」
蓮章が声を上げた。犀星が固まり、玲陽は慌てて顔を伏せた。
その時、玲陽の目の前にゆらりと何かが流れてきた。
水路の黒い水の上を、白っぽい小さな花びらが一枚、ゆらりと通り過ぎる。水の流れに乗って、右へ左へ回りながら、音もなく川下へと消えてゆく。
「花流しが始まったな」
蓮章が上流を見た。
「花流し?」
「椿の花びらを川に流す」
玲陽は水路に近づき、しゃがみ込んだ。
上流から花びらが一枚二枚。赤や白、桃色の花弁が星空を映す柳川を、小舟のように流れていく。
「あ……」
花びらには何か文字が書かれている。玲陽は、目で追いながら、川下へ見送った。
さりげなく犀星が玲陽の隣に膝をつく。
玲陽の目は、花を浮かべる川面よりも、川面を見つめる犀星の幻想的な横顔に注がれる。祭りの柳川は美しい光景だったが、それ以上に犀星を見ていたかった。
蓮章が後ろから、
「人の名前を花びらに書いて流すんだ」
玲陽は問いたげに小さく振り返った。
「何のために?」
「相手と想いを通じるために」
蓮章が言うと、やたらと色っぽく聞こえる。
「花街で誰かに恋をしても、叶うことは稀だ。愛しい相手が自分のもとに来てくれるよう、願いを込めて、その名を書く。それが花流しだ」
話を聞きながら、玲陽は次々に通り過ぎていく花びらを眺めた。
これだけたくさんの思いが募り、この街が動いている。
ここには多くの人たちの願いが溢れている。それは人恋しさだけではない。もしかするともっとたくさんの隠された願いが埋もれているのかもしれない。
そしてそれが簡単には手に入らない世界。さらには、願ってはならないとされる社会。
「人が人として生きていく上で、夢を見ることすら許されない。それがこの花街だ」
長くこの街で生きてきた蓮章の言葉は、ずしりと玲陽の胸に沈んだ。
「芙蓉のこともその一つ……」
犀星がつぶやく。
川を見つめる犀星の目は、その底まで見通すほどにまっすぐである。
「もしかして、兄様がこの街を大切にするのは……」
玲陽の言葉はそこで途切れたが、犀星は優しく目を細めた。
「おまえたちもやるか?」
蓮章が、軽く尋ねた。
「え?」
「花流しだ」
「好きな相手の名前を書いて?」
玲陽はにこっと笑った。暗くても、その笑みがあまりにも強く、透明であることがはっきりとわかる。犀星は何も言わず、川下の方へとわずかに顔を向けた。
蓮章は一瞬笑って、ふいと真顔になる。
「そうか。おまえらには必要なかったな」
玲陽は、惹きつけられるように、蓮章の横顔を見上げた。
「蓮章様には、名前を書きたい相手がいるんですか?」
暗がりのせいだろうか、思わずそんなことを大胆に問いかける。蓮章は、しばらく黙って、物思いにふけってから首を横に振った。
「今でこそ、人と人を結ぶための花流しだが、元は違うんだ。だから俺は書かない」
「違う?」
「もともと、この慣わしは女郎たちの間に自然に広がったものだ。二度とは会えない相手への思いを断ち切るためのもの」
「想いを断ち切る? それって真逆じゃないですか」
「そうだ。世の中には、そういうこともよくある。忘れたい相手、愛しくてたまらなくても、忘れねばならない相手の名を書いて流す。決別だ」
玲陽の胸に、犀星と引き裂かれた幼い日の痛みが蘇った。
頭の芯が焼けて全身に鳥肌が立つ、恐怖。
ぴくっと震えた玲陽の手を、すかさず犀星が包んだ。互いの手首に結んだ赤い紐が交わる。それを眺める蓮章の目は、どこか寂しげだ。
「蓮章様は……」
「あいつの名を書くくらいなら」
突然、蓮章の声が強くなる。
「この手で終わらせる」
玲陽は小さくため息を漏らした。
自分と犀星がこうして共にいられる中、蓮章の胸中はいかばかりか。
玲陽の心の古傷がひどく痛んだ。それを癒す犀星の温もりが、今の玲陽にはある。ただ、蓮章の想いだけは、乾いて川面を彷徨うようだ。
花びらは次々と流れてくる。
中には、途中で石につかえるものもある。それがあまりにも悲しくて、玲陽はそっと手を述べて、花びらを流れに戻してやった。
その細く、白い白い指先が、|星《ほし》の光に美しく光る。
犀星はそっと玲陽の背中を抱いた。玲陽は、少し遠慮がちに顔を預けた。今は、そうすることしかできなかった。
叶わぬ想いが水を彩る。
こうしていられる今が、奇跡だった。いや、その奇跡は、犀星の強い想いが引き寄せてくれたのだ。
二人の胸の内を、一体何枚の花びらが流れすぎていったことだろうか。
二度と、流しはしない。手放しはしない。
犀星と玲陽の間をつなぐ赤い紐は、決して切れることはない。
玲陽はそっと上流を見た。
いくつもの行灯が揺れて、人々が次々に名を書いている様子がわかる。
その中には、玲凛と芙蓉の姿もあった。
玲凛は目の前の薄桃色の花びらをじっと見つめ、筆を高く掲げたまま動くことができない。芙蓉は不思議そうに、玲凛を見た。険しく、困った顔している。
「好きな人、いないの?」
何事にもてきぱきと答えを出し、迷うということがない玲凛にしては珍しい。
芙蓉が小さく笑った。
「凛さんなら綺麗だから、どんな人だって振り向いてくれるよ」
「うーん……」
「思い切って書いちゃって」
促されても、玲凛の悩みは続く。
実のところ、名前を書くという行為自体が、玲凛にとっては呪術的な意味を持ってしまう。不用意なことはできなかった。当然、そんな事情を芙蓉が知るはずもない。
「決めた!」
玲凛は覚悟した。そして小筆の先を丁寧に使い、細い線で彼女らしからぬ繊細な文字を綴った。
横から芙蓉が覗き込む、そして眉を寄せ、首をかしげる。
「二歳の牡鹿? なに、これ?」
芙蓉が問う。玲陽は真面目に言った。
「次に狩りたいやつ」
思わず芙蓉が吹き出した。
「そうじゃなくて、好きな男性だよ」
「でも、|牡鹿《おじか》だからいいじゃない」
玲凛は真顔で言った。
「あ、三歳にしておこう。その方が角も固くなるし、肉もまだ美味しいし、使い道も増える」
玲凛は『二』の文字に一本線を足した。そしてその花びらをそっと水に浮かべる。
幸いなことに、それが川下の犀星たちの目に触れることはなかった。
「これで次の狩では間違いなく!」
屈託なく、玲凛はにこっと笑う。その横で、芙蓉も静かに筆を走らせる。玲凛は、そっと芙蓉の手元を気にした。
「見ていい?」
芙蓉は照れた顔を向け、それから小さくうなずいた。のぞいて、玲凛は首をかしげた。
「どうして、自分の名前?」
「私、これしか書けないの」
玲凛の眉がかすかに動いた。玲凛は幼い頃から周囲に字を習い、読み書きを覚えた。だが、芙蓉は違う。
琵琶の譜面は読めても、文字は読めない。そして書けない。唯一書けるのが自分の名前だけである。
「自分を大事にするってこと。本当の自分になれるってことだよ」
玲凛が明るく笑った。
芙蓉は一瞬戸惑って、それから涙ぐむように目を三日月の形にし、そしてうなずいた。
「そうだよね。私はちゃんと、私になる。もう誰のものでもなく、私になるんだ」
その言い方が、まるで必死に思われて、玲凛は一瞬戸惑った。
花びらは次々と流れ、明るい人々の笑い声が満ちていく。
空には半月が輝き、街には篝火が燃える。
花街の年に一度の紅花祭は、水辺にたくさんの思いの花を浮かべて、静かに更けていった。
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