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23 真心(1)
芙蓉と別れた玲凛は、蓮章と落ち合い、宿の二階で体を休めた。
部屋の格子窓から前庭を見下ろす。篝火が灯された門のそばに立つ蓮章がよく見えた。
歌仙親王の護衛である蓮章が、そちらの警備を部下に任せ、自ら玲凛の元についている。もちろん、これは全て玲陽の望みであり、それはすなわち犀星の意思だった。
玲陽は、決して部屋には入るな、と蓮章に何度も言い聞かせていた。玲凛は呆れた笑みを浮かべた。
「近づかずに護衛しろ、なんて、難易度高いわね」
玲凛は、さっぱりとした木綿の夜着に袖を通した。野宿もいとわない玲凛には、花街の宿の角部屋など贅沢すぎる。置かれた調度品の価値も、楽しむ者がいなければ無意味だった。
玲凛はとりあえず牀に横になったものの、落ち着かなかった。
「下で寝てもいいかな」
褥を引き寄せながら床に降りる。硬い床の上の方が、柔らかな牀よりも体に馴染む。毛氈を敷いただけの床板の感触に、玲凛は小さく息をついた。
やはり、こちらの方が落ち着く。
枕元の低い木架に乗せた油灯がひとつだけ、かすかに部屋を照らしている。
宿のすぐ脇を水路が走り、その水音が玲凛の敏感な耳に、かすかに聞き取れた。
今日一日の、多彩な出来事が暗い天井に浮かび、幻燈のように揺れた。
歌仙の野山でひとり、猪を追っていた自分が、紅蘭の花街を玲陽たちと笑って歩く日が来るなど、思いもしないことだった。
世界って、本当に広い。この先、何があるかわからない。
玲凛にとって、それは希望であり、胸躍る幸せである。
陽兄様たち、今頃、どうしてるだろう。
想像して、玲凛は思わず微笑んだ。
明日、からかってあげなくちゃ。
満ち足りた思いで目を閉じると、綿のような疲れに包まれる。
ぼんやりとしてきた聴覚に、かすかに不審なものが混じり、玲凛は目を開けた。抱いて寝ている大太刀を握り、上半身を起こす。
かすかに、床板がきしむ音がした。
刀の柄を握り、すぐに引き抜けるよう構える。万一、間合いに入ってくれば一太刀で沈める。玲凛に容赦はない。
絹の帳がよけられ、弱々しい灯りの中、蓮章《《らしき》》人物が、姿を表した。
玲凛は少しだけ肩の力を抜く。
「あんた、どこから入ってきたの?」
「裏口から堂々と」
気づかれる事は想定していた見えて、落ち着いた様子で慎は答えた。慎のまとう気配に敵意はない。玲凛は柄から手を離した。
「裏口に誰かいたでしょ? 変な噂でも立てられると厄介なんだけど」
玲凛は過保護な兄のことを思い出し、顔をしかめた。
「心配するな。他人の逢瀬を話題にするほど、花街の自警団は無粋じゃない。それよりおまえ、どうして床で寝ている?」
「こっちの方が落ち着く」
鼻で一つ笑うと、慎は室内を見回した。牀の上には、玲凛の袍がきちんと畳まれて置かれていた。
「少しの間、袍を貸してくれ。人に着せるのは得意だろ」
玲凛は首を傾げた。昼間の芙蓉とのやり取りを思い出して、
「もしかして、あんた見てたの?」
「一日中」
慎は袍を手に取ると肩に羽織った。静かに窓際に交椅を運ぶ。格子枠の縁に肘をついてそっと外を覗く。
温い月明かりが、慎の面を照らし出した。そのまなざしは、美しい月ではなく、眼下の前庭へと注がれる。
玲凛は半身を起こした。
蓮章様のことを見てる?
灰色の目は、開いてはいるが見えてはいない。それなのに、一途に思う眼差しがある。ただひたすら、じっと動かない。
慎の横顔を見つめ、玲凛は声を低めた。
「あんた、何しに来たの?」
「どう見ても夜這いだろ」
軽い口調で言うその素振りは、蓮章にそっくりである。
「なるほどね。夜這いの相手は、窓の下ってわけか」
「こうしていれば、こちらに気づかれても、おまえだと思うだろ」
慎は袍の襟を引いた。
「やはり、ここからはよく見える」
あまりに真剣な目に、玲凛は深いため息が漏れた。
似たような目を、玲凛はいつも間近で見ていた。犀星と玲陽も、互いを追う時、同じ顔をする。相手が尊くてたまらないというような、不思議と寂しげな顔だ。
そばにいて、思いも通じているというのに、どうしてそんな顔をするのかと、玲凛には不思議でならない。
自分には縁がない。
玲凛は慎に体を向けたまま、横になった。玲凛など眼中にないというように、慎はひたすらに庭を見つめる。時折、唇や瞼がぴくんと震える。押し殺した感情が、体から溢れ出す。
しめやかに月明かりに濡れたその姿は、どこか儚くさえあった。
「おまえなら、どうやって皇帝を殺す?」
「え?」
突然の不穏な問いかけに、玲凛の声が思わず高くなる。
「そんなこと、考えたこともないわ」
玲凛は首を振った。
「宝順が星兄様を都に呼び寄せたせいで、陽兄様は寂しい思いをすることになったから、恨みがないと言えば嘘だけど」
「…………」
「でも、さすがに殺そうなんて思わないわ。星兄様や叔父上……犀侶香様の命の恩人でもあるから」
「恩人、か」
慎はせせら笑った。
「俺にとっては仇でしかない」
玲凛に目を向けることなく、慎は窓の外を見たまま、
「俺の家族はあいつに殺された」
「…………」
「俺は一度、あいつを殺そうとして、し損じてる。その時、俺の代わりに毒を飲んで匿ってくれたのがリィだ」
「それで惚れ込んで、そばにいるってわけ?」
「それもある。だが、あいつの近くにいれば、また機会も訪れようと思ってな」
「皇帝を殺す?」
玲凛は、突然の慎の話を持て余したように、
「そんなこと、私に話してどうすんのよ」
「少しくらい付き合え。俺には、他に口をきく相手がいない」
拗ねた口調で、慎はつぶやいた。
「俺はあの時、死んだことになっている。もうこの世にはいない人間だ。リィの影としてしか存在できない」
慎はじっと目を動かさない。その想いはどこか切羽詰まっていた。
「あんた、なんかやらかす気?」
「どうしてそう思う」
「今のあんた、相当参ってるように見える」
「……だろうな」
「蓮章様のそばを離れるつもり?」
「俺にそんなことはできない。だが、あいつの方が俺を置いていくんだ」
慎の目が歪む。
「どんなに思い続けようと……絶対に振り向いてくれないってわかってるのにな」
「あんたも蓮章様も、見かけによらず一途ね」
「……みっともないか?」
「ううん」
玲凛は首を振った。
「でも、苦しいだろうな、って」
玲凛は幼い日に見た、玲陽の横顔を思い出した。
犀星を都に奪われ、ひとり残された玲陽は、呆然として風の中に立っていた。
「苦しい、な」
慎が悲しく笑う。
「今、あいつ、何を考えてると思う?」
玲凛は蓮章の飄々とした顔を思い出した。
「少しくらい、仕事のこと、考えてるんじゃないの?」
「ない、な」
慎は目を細めた。
「……俺とおんなじ顔してやがる。恋しくて、恋しくて、たまらねぇって」
「…………」
「少し前まではこうじゃなかった。もっと心を押し隠すことができていた。今じゃ全部丸見えだ」
慎の声には、悔しい思いが感じられた。
見つめるだけで苦しくてたまらない。それなのに、目をそらすことができない。気持ちを隠せないのは、慎も同じだった。
玲凛にまで、その息苦しさが伝わって来る。
「……あんた、本当に、蓮章様を見るためだけに来たの?」
「それ以外に何がある?」
「そんなに会いたいなら、直接行けばいいでしょう? 姿なんて、ごまかせるでしょうに」
「…………」
「喧嘩でもした?」
「いや……」
慎の声は痛いほどに鋭く細かった。
「必要だから……」
「よくわからないんだけど?」
「だろうな」
非難するでもなく、ただ、ありのままに、慎はつぶいやいた。
玲凛は言い返さなかった。慎の背負う情の重みが、玲凛を黙らせた。
玲凛は褥を整え、目を閉じた。闇の中に、慎の白い姿がいつまでも消えなかった。
静かに、夜風が柔らかな慎の髪を揺らした。
唇が動き、蓮章を呼んだが、声にはしない。
灰色の瞳が、月の光の下で美しく輝く。二度と像を映すことのない瞳。蓮章のそばにいるために、激しい失明の痛みにも耐えた。そうして手に入れた居場所は、想像した以上に孤独だった。
「邪魔して悪かった」
袍を畳み、牀に戻す。
玲凛を一瞥することもなく、静かに慎は部屋を出た。
ゆっくり歩いても、心臓は早く鳴った。
玲凛のために借り切った妓楼は、どの部屋もしんと静まり返っている。火の気のない部屋は牢のようでさえある。
慎もかつて、花を売る一人だった。
その扉を開き、外へ連れ出してくれたのが蓮章だった。自分には生きる意味も価値もある。そう、思わせてくれた。
だが、それは同時に、慎の心に別の鎖を固くかけた。それこそが、妓楼の扉よりも重く、決して開くことのない孤独の部屋だった。
暗闇は、慎から全てを奪う。
たった一つの瞳は、暗闇の中であまりにも頼りなかった。指先の感触と、外から漂ってくるわずかな風の気配にすがる。
静かに階段を降り、一歩一歩確かめるように、表へと向かう。入り口を見張っていた自警団が、ちらりと慎を振り返ったが、何かを言う事は無い。
慎もまた無言のまま、扉を細く分け、外へ滑り出した。
星空の下に出ると同時に、蓮章と目があった。数瞬、互いに動けず、沈黙が続く。
見回りの足音が近づき、慎は我に返って蓮章に近づき、背中に顔を寄せた。
「天輝殿へ」
素早く蓮章が振り返った。その顔には誤魔化しようのない戸惑いと、そして悲しいほどの期待があった。慎の呼吸が告げる。
「おまえは、俺だ」
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