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23 真心(2)
今まで蓮章がそうしていたように、慎は門にもたれかかり、二階の部屋を見上げた。
背後で、着物が翻り、駆け出す足音がした。
慎は痛い喉に込み上げた声を飲み込んだ。
届かない。見送るしかない。待ち続けるしかない。
既に何を待っているのかも、定かではない。決して戻らぬ、いや、はじめから存在すらしなかった心を、ひたすら待ち続ける。
遠ざかっていく足音を、必死に聞き逃すまいとしながら。
部屋に戻るなり、玲陽はたまらず、正面から犀星を抱きしめた。
背中に回した腕がしっかりと力を込めて、暖かい人を掻き抱く。そうなることがわかっていたように、犀星は無言で応じた。玲陽の腰の後ろに両腕を組み、答えるように引き寄せる。
ふっと吐息を漏らし、玲陽は犀星の首筋に顔を埋めた。犀星は無言で、玲陽の髪に口元を擦り寄せる。
我慢できない。
玲陽は時折、息を洩らして身じろぎし、そのたびに犀星は深く抱いた。
部屋に明かりはなく、窓から差し込む月光だけが唯一の頼りだ。だが、既にその明かりすら、二人には必要なかった。自然と目を閉じる。
互いの呼吸、肌のぬくもり、胸深く吸う匂い、耳に触れる優しい声。それらは目で見る以上に、相手の存在を近く、確かに感じられる術だった。
玲陽は頬を寄せた。震える声で、
「星、あなたに、触れたい」
「うん」
犀星はそっと、玲陽の髪に指を差し入れた。柔らかい琥珀の髪が指の股を滑り、心地よくくすぐる。そのまま耳に唇を寄せ、ひんやりとした耳殻を柔らかく食む。びくりと玲陽の体が震え、一瞬こわばってから、握り締めた綿が元の形に戻るように、ゆっくりと脱力した。
犀星は体を離し、見つめる。暗がりの中で、輪郭だけがぼんやりと浮かぶ。それだけで充分だ。玲陽の腰を導き、暗がりの中、牀の端に腰掛けた。二人並んで互いの体に触れる。寄り添う息遣いが二人を結びつける。
玲陽の指が犀星の首元に触れる。そっと滑らせ襟をたどる。指先が帯にいたり、結び目を探り当てる。解こうとしたが、思ったよりも固く締められている。
「あなた、またこんなにきつく……こんなに締めては、体を痛めてしまいます」
玲陽の口調は優しく甘い。犀星の心持ちが穏やかに温まる。
「固いほうが落ち着く」
言いながら、肩の力を抜く。
「どうして……?」
「こうしていると、あの時のことを思い出す」
「あの時?」
「子供の頃、お前がふざけて、俺を抱きしめた時のことを。おまえの腕の力が忘れられず、つい、こうして締めてしまう」
「そんな……」
犀星が人よりも固く着付ける癖がある事は知っていたが、理由を聞いたのは初めてだった。
玲陽は部屋の暗さがありがたかった。今、顔を見られたら、恥ずかしくてたまらない。
「そんなの、もう忘れてください」
玲陽は首を振った。
「忘れられない。あの思い出があるから、俺はずっと耐えてこられた」
「あなたは本当に、ずっと私のことを……?」
「おかしいか」
「いいえ。でも、不思議です」
「不思議……?」
「はい」
玲陽は帯を少しずつ緩めながら、
「十年、ですよ。その間、私はあなたに|文《ふみ》一つ出さなかった。なのに、あなたはずっと私を思い続けて、私のために途方もないことを成し遂げた」
「陽と一緒に居られるだけの、礎が欲しかった」
犀星は玲陽の襟を緩めた。一呼吸、声を漏らして、玲陽は犀星の頬に手を添え、顔を覗く。
「十年……会わなければ人は変わります。あなたのこと、私は忘れていたかもしれない。あなたが思ってくれた私ではなくなったかもしれない。あなたは、そんな事は考えなかったのですか?」
答えるように、犀星はそっと玲陽の肩を撫でた。
「それは思わなかった。だが、別のことが怖かった。自分が変わってしまうのではないかと。おまえを置き去りにした。二度と会ってはもらえないのではないかと。恐ろしいほどの孤独だった」
「…………」
「でも、もしそうなら……もし陽が俺を拒絶するのなら、その時は自分を終わらせると決めていた」
命がけの想い。
玲陽の胸が高鳴る。犀星の顔に、そっと顔を近づける。額が重なり、鼻筋が触れる。
「息、止めてください」
犀星が玲陽の腕を掴み、力を込めた。それに合わせて玲陽も息を止める。
二人は唇を重ねた。
柔らかな熱が互いの間を行き来する。息はしないまま、その感触にゆっくりと沈んでいく。
闇の中に、静かな音が響く。
繰り返し、繰り返し。深く求め、溺れていく。
やがて胸が苦しくなり、どちらからともなく顔を離した。呼吸を戻すと、一気に全身に血が巡り、失われた時を取り戻すように心臓が速く打つ。
玲陽の傀儡喰らいを避けてかわす口づけは、綱渡りのように危うい。一歩間違えば犀星の命が消える。
呼吸を整えながら、玲陽は犀星の髪に手を伸ばした。簪を抜き、結い上げていた紐を解く。帯とは違い、こちらはするりと片手で引き抜くことができた。長い髪が背中に広がる。解いた簪と紐を、木架に置くのももどかしく、そのまま牀に押し倒した。
黙ってされるに任せ、犀星もまた玲陽の帯を床に落とした。ゆっくりと、時折小さく笑い声を立てながら、二人の間を隔てる布を取り去っていく。子どもがじゃれ合うような、他愛のない短い歓声が続く。
毎夜、共に眠るようになっても、着物には手をかけなかった。玲陽の方が抵抗を示したからだ。
傷ついた体を見られたくない。
その思いで、どうしても直接触れることを恐れていた。
だが、今。
花街という特殊な空間、祭りの夜という浮きたつ時間、明かりが失われた暗い部屋の中、聞く者がいないという安心感、そして一日の心地よい疲れ。
何もかもが重なって、玲陽を思いのままに動かしてくれた。
犀星の中衣の腰紐を引き、襟を割り、腹から胸にかけて、そっと手のひらで撫で上げる。心地よさそうに長く息を吐いて、犀星は体をそらした。差し出すように喉を上向ける。
吸い寄せられて、玲陽はその薄い肌に甘く歯を立てた。喉の脈動が唇に触れ、体の芯がじんと熱くなる。犀星の着物をすべて取り去り、自らも最後の一枚を脱ぎ落とした。
暗いことが救いだった。
玲陽の肌がかすかに震えているのを感じ、犀星が優しく問いかけた。
「寒いか」
「いいえ。ただ……やっぱり、私は……」
「怖いか」
「そうですね……怖いです。私の体は傷だらけで、とても……見目がよくはない。あなたがそれを見て、どう思うだろうって考えたら」
「どう思ってほしい?」
「……気にしないでほしいです」
「それはできない」
玲陽が強く犀星の手を掴んだ。犀星は、優しく笑った。
「気にしない、というのは無理だ。癒したい」
心の底まで、すべて見透かされている。
どうしてこの人は、私の内側を、私以上に察するのか。
玲陽は体の力を抜いて、犀星の上に体を横たえた。
犀星は片膝を立て、脚を開いて、玲陽の体を間に招く。
自分でもどうしていいかわからないほどに、玲陽の体は熱かった。
重ね合う肌。布越しではないその感触に、一瞬、ぞくりと背中が寒くなる。生々しく熱を帯び、血が通い、弾力がある。かつて自分が味わってきた悪夢が思い出されて、それが呼吸を浅くさせる。
その変化を、犀星は見逃さない。背中の傷をいたわりながら、玲陽を自分に、引き寄せた。少しずつ、感触を塗り込めていくように、丁寧に肌を合わせる。
手のひらが温かく、玲陽の細い肩をしっかりと掴んでいた。下から顔を見上げ、静かに話しかける。
「何も心配は要らないから」
どこまでも自分を甘やかす犀星の言葉と仕草に、玲陽はこみ上げてくる想いを必死にこらえた。
泣いてしまいそうな、叫んでしまいそうな。
衝動的な感情が溢れてくる。
犀星とこうしたいと、ずっと願っていた。だが、それは、過去の悪夢を蘇らせるのと表裏一体だった。
もし、あの時の悪夢が押し寄せ、恐怖に耐えられなくなってしまったら。
犀星を拒絶してしまったら。
それを思うと、玲陽には勇気が出なかった。
何もかも知っている。
犀星は優しく玲陽の頭を、片腕に絡めとった。
「陽」
呼ぶ声はどこまでも優しい。暗くてはっきりとはしないが、月明かりを弾く犀星の瞳が自分にまっすぐ向いていることはわかった。
「陽、おいで」
その一言が、すべての許しだった。
玲陽は静かに応じた。互いの熱が交差して、直接触れ合う。
「星……」
短く声が上がる。玲陽の体は傷ついてはいても、諦めてはいなかった。生きること、大切な人を乞うことに、正直だった。
それは本能的な渇望だ。だが、自ら潤いを求めることはなかった。犀星に対して以外は。
犀星がゆっくりと腰の位置を変える。促されるように、玲陽もそこに腰を落とす。そっと伸ばした手で、柔らかく二人を重ね、ひとつに包み込む。
びくりと、犀星の腰が浮いた。戸惑いが吐息に現れる。それをなだめるように、頬から耳へと玲陽は静かに口づけた。ついばんで、わざと音を立てる。
こんなふうに体を重ねることは、過去には嫌悪でしかなかった。だというのに、今はまるで別の意味を持っている。
相手が犀星だから。
体は思いを伝えるための道具にすぎない。使い方次第で相手を傷つけもすれば、癒しもする。
自分は、傷つけられる行為しか知らない。だが、犀星とならば、別の意味にもたどり着ける気がした。
「嫌だったら言ってください。無理強いはしたくない」
玲陽の言葉に、犀星は小さくうなずいた。
「心配するな。おまえ相手に遠慮はしない。嫌なら嫌だと言える」
「それで、いいです」
玲陽はそっと、際どく唇の端に口づけ、それから胸を合わせた。
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