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第一章 レンタル彼氏 2-1

 まだ時間が残っているからと、お腹が満たされて満足げなミノリを連れて、俺たちはそのまま近くの公園内を歩くことにした。  長袖一枚でもどこか汗ばんでしまうほどの陽気に恵まれて、新緑で生まれた木陰の下では人々が束の間の憩いを楽しんでいる。 「割と皆、事前に要望を出してくるよ。シンプルに一緒に映画が観たいとか、一人じゃ入りにくい高級フレンチ食べに行きたいとか」 「へえ。まあそれは利用する価値あるかも」 「あと意外とね、男も多い。友達にはわがまま言いにくいから、割り切った関係の俺たちのほうがいろいろ注文しやすいんだって」  ミノリは不思議な男だった。  会話を続ける意思を俺から感じ取れば、こんなふうに率先して話を広げていく。しかし俺が黙ると、ミノリは無理に話題を持ち出すことなく沈黙を選ぶ節があった。  空気を読んで、というよりミノリ自身が楽な方向へとただ流されているだけのような印象も受ける。  海に浮かぶ、クラゲみたいな男だ。  しかしミノリが流されてくれるおかげで、饒舌とは言えない俺もまた多少気楽ではあった。 「あとは、結婚結婚ってうるさい親を黙らせるために、恋人として会わせたいとかっていう依頼も結構ある」 「皆、親には困ってるんだな」 「同性愛者だと余計にかもね」  公園内にある大きな池の水面が太陽の光を跳ね返しながら、きらきらと輝き放っている。まるで丁寧に磨き上げたコインにも似た煌めきは、カメラを向けるには胃が重い。  次第に気が滅入ってくるのは、二の足を踏み続ける自分への当てつけのように思えてくるからだろう。  まばたきをするわずかな時間でさえ、水面はゆらゆらと姿を変え、光は不規則に輝き続ける。  停滞を進んで選ぶのは、いつだって人間ばかりだ。 「ハル。あれ、乗りたい?」  俺の遥か前方を歩いていたはずのミノリが、いつのまにか吐息さえ触れてしまいそうなほどの距離にいた。  わずかに後ずさりながらもミノリの示す方向に目をやると、そこには白いレンタルボートが浮かんでいる。  乗っているのは一組の男女だ。楽しそうな笑い声をあげて、不慣れな手つきでオールを漕いではまた笑顔をまき散らす。 「……乗りたくない」  否定した自分の声は、思った以上に温度がなかった。  だがミノリは「そっか」と言葉の額面どおりの意味だけを受け止め、笑っている。  彼氏でいて。そう言われたことを今更ながらに思い出し、胸にわずかな影が落ちた。 「ごめん」 「なんでハルが謝るの。やりたくないことをやるために、わざわざお金かけてレンタルなんてしないだろ?」  それはボートのことなのか、もしくは『レンタル彼氏』のことなのか。問いかけることもないまま、太陽の光を一身に浴びたミノリの背中を追いかけた。 「本当に、ごめん」 「いいよ、気にしてない。それにしても、俺が帰っちゃうまで残り三十分だけど」  ハルは本当に、今日は食事と散歩でよかった?  ミノリが右腕のスマートウォッチに目線を落としたのを見逃さなかった。  池を囲う安全柵に沿って、二人で歩いていく。特別中身のない会話を繰り広げたまま、もう少しで池の外周を歩き終えてしまう。  肩から背負ったカメラバッグが鉛を仕込んだように重い。  ミノリとの距離は再び開いていくばかりだ。  言わなければ。  思うだけで、肝心の伝えたい言葉は出てこない。  こっちはわざわざ金を払って、ミノリという非日常を買った。真っ当なサービスを受けることに、気遣いはしても気後れする必要なんてない。  ルール違反にはきっとならないだろう。そのために念入りに確認まで入れたんだ。  それでも禁忌を犯すような気の重さがついて回るのは『レンタル彼氏』という範疇を超えた私情をぶつけようとしているからだろうか。 「あの、ミノリさん。本当はやりたいこと、あるんだけど」  長い足を止め、ミノリがゆっくりと振り返る。 「写真を撮らせてほしい。ミノリさんの」  ミノリは笑顔を崩さない。色素の薄い瞳が、夜目の利く猫のように蠱惑的に浮かんでいる。 「だから今日、カメラ持ってたんだ?」  俺のこと撮りたい人、結構いるんだよね。  どこか億劫そうに呟くと、珍しく真顔になったミノリがカメラバッグへ目線を寄越す。  断られる予感がした。  だけど次の瞬間には「いいよ」と拍子抜けするほどあっさりと笑顔で承諾してくる。筋肉に染みついたような反射的な笑顔だった。 「SNSに投稿するなら、店名と俺の名前をハッシュタグで載せてくれたらそれでいい。店の宣伝になることなら、うちは大体なんでもオッケーだってさ」 「でも、その、今日はただ撮らせてくれるだけでいいから」 「ふうん。じゃあ、どこで撮る?」 「池沿いの柵のあたりで……」  ミノリは笑みを深めると、身につけていたボディバッグをためらいなく地面に放り投げた。  潔いというかなんというか。無情に横たわるボディバッグを眺めている間にもミノリはフェンスにもたれかかり、早速こちらに合図を送ってくる。 「いつでもどうぞ」  さっきまで途絶えることなくあった、あの掴みどころのない笑顔が引っ込んでいく。  鼻から顎にかけてシャープな顔のラインはあまりに整然とし過ぎていて、笑顔を失った今、人を拒むような冷たさすら覚える。  そういえばミノリは、初めから他のキャストとなにもかもが違っていた。  写真の質だけの話じゃない。  ホームページの中にいる男たちは誰もが柔和な笑顔を浮かべるのに、にこりともせず、孤独すら滲ませていたのはミノリだけだ。 「ミノリ。そのまま、どこにも行くなよ」  カメラバッグから一眼レフを取り出した。  よく晴れてはいるものの、太陽は西へと傾きつつあって日差しも和らいできている。レンズフードはなくてもいけるだろう。  ファインダーを覗き、ミノリを捉えながらシャッターを押した。何度か繰り返し、この環境におけるベストな設定を探っていく。  追い風が吹く。露出をいじる指先の震えが止まらない。  それでも俺は撮らなければいけない。  ここで撮らなければ、俺はいつまでも負け犬のままだ。 「ハルは、撮るの好き?」  シャッターを切っていく。刹那の瞬間をカメラに閉じこめる。 「正直、わからない」 「わからないのに撮ってるの?」 「違う、わかりたいから撮ることに縋ってる」  胃液が喉元まで這い上がり、酸っぱくて苦い独特の味を持て余した。 「何万、何億枚って撮ってたらいつかわかるかもしれないだろ」  考え事をするように、ミノリは口元に手を添えた。  動きがほしいと俺が思う瞬間を狙い澄ましたようにミノリがポージングに変化をもたらし、その一連の仕草は目を見張るほど美しかった。  しかしいつまでも目の奥に潜むピントが、カメラを捉える気配はない。求められたから撮られているのだ、と人任せな空気を全身から放っている。  それでも「美しい」という暴力的なまでのその一点でミノリはカメラの中におとなしく収まっていく。  俺にもっと才能があったなら。  いや、今は考えるな。呑まれたら、好機を逃す。感情をとにかく飼い慣らせ。  シャッターチャンスは、誰のことも待ってはくれない。 「ねえ。わかったらそのときは俺に教えてよ」  苦笑する。わかる日は来るんだろうか。そもそも『レンタル彼氏』であるこの男と、いつまでもが続くとは思えなかった。 「……まあ、わかったら」  俺の返事を聞き届け、ミノリが大きく体を翻した。  シャッターボタンを半押しにして、ピントを合わせる。  手ブレが怖い。自分の呼吸でさえ、時にシャッターチャンスの邪魔をする。  戦い続けるには、あまりにシビアな世界だ。  やがて柵に寄りかかりながら、光の粒が立つ水面をミノリは眺めた。まぶしそうに、しかしどこか苛立ちすら滲むその表情はぞくりとするほど生々しい。  この男も人間なのか、と。俺の中でどこか架空の存在だったミノリが、唐突に現実味を帯びてくる。  シャッターボタンを再び押し込んだ。何度も、何度も。  ミノリが音に気づき、こちらを見る。  フェンスに寄りかかりながら距離を詰めていく。もうずっと、撮影というものにうっすらとした恐怖を覚えていたのにどうしても衝動に抗えない。  足を踏み出した。  もっと、もっと近くで、ミノリを撮りたい。 「近いよ、ハル」  魂が抜かれたらどうすんの。  シャッターを切る寸前、フレームが闇色に染まった。  ハッとして、ファインダーから目を離す。ミノリの手がレンズを覆い隠したらしい。  顔を上げる。息を呑むほど間近に、困惑した様子のミノリがいた。  やばい。踏み込みすぎたか。  ミノリはその道のプロじゃない。パーソナルスペースへと踏み込んだ撮影に抵抗感を示すのは当然のことだ。 「……ごめん。でもミノリ、その魂が抜かれるってやつは迷信だ」 「うん、知ってるよ」  真面目だなあ。新緑の香りを引き連れた風を巻き込むように、声をあげてミノリが笑い始めた。  たちまちに顔に熱が集まる。 「もしかして俺のことバカにしたのか?」 「ごめん、ごめんってば。まさかそんなガチな顔して、迷信だって教えてくれるとは思わないでしょ。ごめんね?」  笑い声が止まない。本気で笑うと、眉毛の位置が困ったように下がって幼くなることを知ってしまった。 「バカになんてしてない。ねえ、ハル。それだけは信じて」  ファインダーを覗き、ミノリを捉えた。しかしすぐに構えを解く。 「俺、またハルに会いたいなあ」  自らの瞳でミノリを見つめながら、なぜか自分が自分じゃなくなっていくような恐ろしさを感じていた。

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