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第一章 レンタル彼氏 2-2
住み慣れた一人暮らしの真っ暗な部屋に、慣れた手つきで電気を灯した。
水回りへと続くドアの前を通り過ぎれば、リビング兼ベッドルームにたどり着くほどの狭い賃貸物件。社会人になってすぐに住み着き、それ以降契約更新を繰り返しているだけの愛着もなにもない部屋だ。
帰りがけに買ったコンビニ弁当はまだ暖かかった。パソコンの電源を入れ、デスクチェアに腰かけると、一眼レフから取り出したSDカードをカードリーダーに差し込んだ。
今日撮影した写真が、パソコンの中へ次から次へと吸い上げられていく。
高速で移り変わるサムネイル写真。その残像を薄目で捉えつつ、俺は弁当を覆うプラスチックの蓋を開けた。
なんとなく選んだハンバーグ弁当だったが、もしかしたらミノリの影響もあるのかもしれない。あいつが食べていたハンバーガーの肉厚さは、本当においしそうに思えたから。
やがて全てのデータを取り込み終える。緊張で締めつけられた心臓の鈍い音を聞きながらマウスを操作し、俺はそっと写真を開いた。
「……ひっでえな」
愕然とした。技術の欠損が、あまりに目立つ。
モニターの中に佇むミノリは、こんな俺が切り取ってしまったせいで妙にかしこまって見えた。
あの男はこんなものじゃない。画面越しに肩の線をそっと指でなぞっていく。
もっといい撮り方があったはずだった。
陳腐な構図。配置の悪さ。ピントの甘さもよく目立つ。
そして言葉で言い表せないさまざまな感情がミノリの中では確かに渦巻いていたはずなのに、拙い技術をもって写せたのはどれも一辺倒な姿ばかりだ。
ふとテーブルに置いたスマホが受信を示す。ともちゃんからのメッセージだ。
――今日の撮影、どうだった?
返事を打つことなく、スマホを伏せる。大きなため息とともに立ち上がり、もう長いこと元の形に戻したことのないソファーベッドの上へ寝転んだ。
カフェバー『トレモロ』の近くには、真っ白なチャペルと長い階段を売りに掲げた、人気の結婚式場がある。
近年結婚式自体を挙げないペアは増えてはいるが、完全に需要が消え去ったわけじゃない。二次会需要の恩恵を受けてまだオープンして二年にも満たない『トレモロ』でも、近隣の式場から流れるように貸切パーティーの予約が入ることがあるのだという。
「そろそろうちでもウェディング二次会目的のマーケティングを、本腰をいれてやるのも悪くないかなと思って。春輝にSNS用の撮影を頼みたいんだけど、どうかな?」
数週間前、カウンター越しにそう告げたともちゃんは不安そうに眉を歪めて、だけど口元だけはきっちり笑みを浮かべていた。
今回の依頼に関していえば、ともちゃんはほのかと結託しているんじゃないかと俺は踏んでいる。
無益に日々を過ごすだけの俺を心配し、内輪な企画を立ち上げたんだろう。
それでも最初は断ろうと思った。本当は。
こんな俺が大切な幼なじみの店の販促に手を出していいのかどうか。ちゃんと金をかけてプロを雇うほうが、よっぽどいい作品に出来上がるのは目に見えているのに、どうして俺なんか。
そもそもカメラを再び握れるようになったのだって、最近になってのことだった。
ひどく悩んだ末に断りきれなかったのは、長年の付き合いであるともちゃんたちの信頼を裏切りたくない、その一点に尽きる。
義理堅い、なんていうと聞こえはいい。でも俺のこれはただの虚勢だ。
ともちゃんから提示されたコンセプトは、ウェディングを意識したペアの自然体な写真であることだった。
おまけでほのかもつけるから、とともちゃんの雑な売り文句により、こうしてもう一人のモデル候補は、スレンダーな体型で身長も平均以上であるほのかとバランスの取れる人材であることが最低条件になった。
「いいと思ったんだけどな」
独り言が天井へと吸い込まれていく。
二人を恋人同士として見立てたときのバランスを想像してみる。
新卒で入ったコスメブランドの会社で働くほのかには、ミノリの持つ存在感に決して引けを取らない華やかさがある。
屈託なく笑うほのかと控えめに笑うミノリという笑顔の対比は、上手く作用し、引き立て合う要素になるだろう。
あとはフォトグラファーの腕さえよければ、撮影は完璧なものになるはず、だった。
「あーあ」
体を軽く捻った瞬間、ジーンズのポケットの中にささやかな違和感を覚えた。
手を突っ込むとそこから出てきたのは、今日の別れ際にミノリからもらった営業用の名刺だ。店の名前と「ミノリ」と癖のある書体で印刷されている。
また絶対に会おうね、ハル。
ミノリの軽やかなほほえみを思い出す。金がなければ会うこともできないのに、あの男は平気で「また」と口にする。
しかし、需要と供給が成り立っているからこそ「ミノリ」はビジネスの世界に存在しているんだろう。たとえ俺が次を望まなくても、別の誰かが「また」を望んであの男をレンタルするだけだ。
いい加減、断ろう。ともちゃんにメッセージを送るため、足で反動をつけながら体を起こすと俺は再度パソコンデスクに向かった。
スマホを手に取る。だが視界の端でモニターがちらついて、時間をいくらかけても断りの文面がうまく打てない。
くそ、と悪態をつき、意識の矛先をスマホから強引に写真へと向けた。
さっきよりも、もっとずっと丁寧に写真を確認していく。
データが終わりに近づいていく中、フレームの端が徐々に黒く染まり始めた。
「近いよ」と。その言葉とともに、ミノリの手がレンズを塞いだのを思い出す。
そして完全な黒へと変わる寸前、たった一枚の写真に俺は釘付けになった。
手の向こう側にいるミノリは笑っていた。あまりにも自然に、はにかむように。
カメラの前では進んで笑おうとしなかったミノリの、一枚限りの笑顔だった。
心臓の焼ける音がした。
火が燃え移るように、やがて胸から全身へと熱が広がっていく。
衝動に身を任せ、ともちゃんにメッセージを送る。
それからすぐに『レンタル彼氏』のホームページを開き、言葉を選びながら依頼フォームの中に文字を打ち終えるまでに、大した時間はかからなかった。
もう一度、さっきの写真を見る。
見間違いじゃない。きっと虚構でもない。
雑に口にしたコンビニ弁当はすっかり冷め切り、胸の奥だけがいつまでも余熱を持て余していた。
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