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第一章 レンタル彼氏 3-1

 見事な晴天に恵まれた週末。待ち合わせ場所である駅前の柱時計付近に、俺のすぐあとに現れたのはほのかだった。  いつもは体に沿うタイトな服を好みがちなほのかだったが、今日はコンセプトに合わせてかロング丈の淡い水色のワンピースに身を包んでいる。メイクの仕上がりもどこか柔らかな印象を受けた。  俺が指示しなくても勝手に空気を読んでしまう幼なじみの存在はあまりに頼もしく、俺の情けなさを際立たせる。 「コスメブランドの会社に入社しただけあるよな。さすがほのか」  喉から搾り出すように賛辞を送ると、ほのかは自信をたっぷり乗せて「でしょ?」と軽く顎を上げた。 「企画も案出しからやらせてもらえるようになってきたし、ブランディングが楽しいんだよね」 「ああ、今はマーケティングにいるんだっけ」 「そう。今日の撮影も、ハルちゃんから連絡が来たときからずっと楽しみにしてたんだよ。服買いにいったり、コスメ新調したり。ハルちゃんのほうは……ってか、ヤバくない?」  目元のクマ、隠すのは得意だけど? 俺の顔を覗き込みながら、ほのかが苦笑する。 「俺、そんなにヤバい?」 「いつも以上にクマがくっきり。眠れなかった?」 「まあポートレートも久しぶりだし、これが本番かと思うとやっぱり眠れなくて。プロでもないのに、なにやってんだって感じだろ?」  軽く頭を掻く。ほのかが口を開こうとした途端、俺の背後を驚くように凝視した。  どうした。そう訊ねようとして、両頬をぎゅっと潰される感触に声そのものがかき消されていく。 「ねえ。見せて、俺にも」  気づけば俺は不自然な体勢で、顔を思いきり上へと向けていた。  頭痛がするほど今日の空は高く、青い。  そんな空を遮りながら、俺の視界がたった一人の男に支配されていく。  ミノリ。頬を指で掴まれたまま、ぱくぱくと魚のように唇を震わせる。ヘーゼルナッツを思わせる不思議な色の瞳が、ゆっくりと弧を描いた。 「本当だ。クマ、ひどいね」  遠のいていた理解がようやく歩み寄ってくる。 「悪かったな、ひどくて」  手を払い退け、ミノリから距離を取った。  ほのか同様、前回の服装と比べてミノリもまたフォーマルな装いだった。リネンで作られた同色のジャケットとパンツという洒落たセットアップは、美しい顔を引き立てるにふさわしい。 「俺に謝っても仕方がないだろ。ただハルの顔にそのクマは似合わないなあって」  本気でそう思っているような口ぶりだった。  体の底からふつりと粘度のある感情が浮かび上がってくる。眠れなかった原因の大半を担ってるのは間違いなくこの男だというのに、どこまでも他人事なミノリが妙に癪に触った。  一瞬にして思考がミノリの存在に染め上げられていくことすら悔しく、わずかな苛立ちが声に滲む。 「別に似合っても似合ってなくても、どうだっていい。俺はモデルじゃないんだから、撮影には支障ない」 「でも寝不足は判断力の精細さを欠く。一瞬の判断の迷いが、写真の出来映えを大きく左右する。それぐらい、ハルならわかってると思ってた」  拳を握る。ただの素人に忠告されなければいけないほど、俺は落ちぶれてみえるんだろうか。  しかしミノリを完全なる素人と思い込むには、あまりに早計な気がした。あの光を知り尽くしたミノリの宣材写真をどう解釈すればいいのか、俺はもうずっとわかりかねている。 「ねえ、あんまりハルちゃんを困らせないでくれる?」  黙り込んだ俺を押し除けるように、突如ミノリの前にほのかが躍り出た。ほのかの動きに合わせて、淡い水色の裾が揺れ動いている。 「あなたが例のレンタル彼氏の『ミノリ』?」 「うん、そう。きみは?」 「今日いっしょにモデルを務める『ほのか』です。ハルちゃんが予約を入れたときに事情は説明したっぽいからわかってると思うけど」 「ほのかちゃんね」 「っていうか、レンタル彼氏を名乗るなら、もっとハルちゃんにやさしくしてくれない?」  ハルちゃんに愛想尽かされても知らないよ。ほのかに言い募られ、ミノリはきょとんとした顔を披露する。 「ハル、怒ってるの?」 「少なくとも私は聞いてて不快だった」  本当にこの男でいいのか。俺を見つめるほのかの訴えが脳内で響くようだった。  ほのかは昔からそういうやつだった。正義感が強く、俺やともちゃんが飲み込んだことでも、平気で上級生に食ってかかる胆力がある。  見栄えとしてなら二人の相性はいい。でも中身としての相性は、あまりよくないかもしれない。 「ねえ、ハル。俺は用済み? いらない?」  ミノリの視線が絡みつく。人生をかけた決断を迫られているような圧力が俺の肩に重くのしかかり、首から下げた一眼レフを指先でゆっくりなぞる。  俺は、どうしたい。  体に深く沈んだ本音を探し当てるように、自分に問いかける。何度も何度も真摯に問いかけるうちに浮かび上がるのは、たった一枚の写真だった。  カメラに収めた、一枚分の笑顔。  あれはどう足掻いても奇跡でしかなく、そして俺をひどく惑わせる。 「……俺は、ミノリを撮りたい」  もっと。いや、もう一度だけでいいから。これが写真に狂った人間の末路なんだろう。  俺は被写体というミノリにすっかり囚われている。

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