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第一章 レンタル彼氏 3-2

「ハルちゃんが決めたなら、撮影は最後まで付き合うよ。それにミノリはモデルとしての見栄えはいいと思うし」  でもレンタル彼氏としては、あいつ最悪かも。茶化すように言いながらも、ほのかの目は真剣そのものだ。  だよなあ、俺もそう思う。首をすくめれば、ほのかは「ハルちゃんの業は深いよね」と長くため息をついた。  『レンタル彼氏』の二度目の予約を入れた日、俺は備考欄に今日の撮影のことを打ち込んだ。  これで断られるならそれまでの話だ。そうやってしっかりと腹を括ったのに、意外にも予約はすんなりと成立。  キャスト用のミノリのアカウントからその日のうちに「会えるの、楽しみにしてる」と連絡が入り、ミノリを撮る口実が出来上がった瞬間だった。    撮影は街中で行うと決めていた。  どこにでもいる、やがて夫婦になる恋人同士のように。日常の延長線上を歩く男女をテーマに据え、商業ビルに囲まれた街並みの中を二人に歩かせる。 「ミノリのその黒いピアス、どこで買ったの? 本物のオニキス?」  ミノリとほのかの当たり障りのない会話が、シャッター音に紛れながら俺のところにまで届く。 「貰い物だよ」 「わかった、指名客からの貢ぎ物だ」 「残念。ほのかちゃん、ハズレ。ハルは誰からだと思う?」 「わかるわけないだろ」 「即答しないで、もっとちゃんと考えてよ、ハル」  ファインダーの中のミノリが唇を突き出す。カシャリ、とシャッターが下りる。再びミノリが前を向いた。 「このピアスをくれたの、俺のおばあちゃんなんだよね。誕生日プレゼント。あ、つい先週誕生日だったんだよ、俺」 「おめでとうございます」 「あれ、ハル、今更敬語に戻すの?」  からかうように言われ、じゃあタメ口で、とムキになりながら返す。 「ちなみにミノリは何歳になったんだ?」  俺からの質問に、二十五、とミノリが手の形で応える。俺より二つも年下らしい。  雰囲気でいうなら、ミノリは実年齢より少し大人びて見える。  忖度のない物言いには幼さが残るが、社会生活への一種の怒りや諦めから来ているような気もするのは、常に見せる外向きの笑顔にどこか温度を感じないせいだろう。 「あと俺、ゲイだよ」  まさかの突然のカミングアウトに、思わず顔からカメラを遠ざける。スクランブル交差点を渡り切った直後のことだった。  どうして、今、このタイミングで。  取り乱す心臓に無視を決め込みながら、表情の読めないミノリの横顔を見守った。  同時に言葉を失った俺とは違って、ほのかは「へえ」と踏み留まることなく相槌を打つ。 「ゲイだってわかったら、もうちょっと踏み込んだ撮影もできるんじゃない? なんか俺たち、まだ距離があるし。まあこれが通用するのは、ほのかがストレートならの話だけど」 「つまり私に警戒心を解けってことね?」 「そういうこと。ハルの要望には本気で応えてあげたいから」 「いいこと言う。よし、乗った」  そこからの二人は、恋人同士に見紛うほどだった。  ファインダーの中で、ほのかのワンピースが初夏の面影を滲ませた日差しを透かして揺れた。  隣で笑うミノリの顔に光が落ちる。  プロなら誰もが喜ぶようなチャンスに、すかさずシャッターを切った。だけどさっきから俺の心臓は妙に忙しなく、気づけば眉間にしわが刻まれている。 「ハルちゃん、どう? いい感じに撮れてる?」  振り返るほのかに、手を振って応えた。  今日のミノリは、カメラの前で本当によく笑った。  できるだけ二人の笑顔が撮りたい、と撮影開始前に俺がそう伝えたからだろう。  モデルをトークで笑わせるのは、人を撮るタイプのフォトグラファーなら必須のスキルだ。それを今、自分は完全にモデル頼みにしている。  不甲斐なかった。親の言いつけを守る子どものように、にこにこ笑うミノリを見ていると後ろめたさが積み重なっていく。  もともと話題の中心を狙って取りにいくタイプでもない俺に、この場の弾ませるための話術なんてあるはずもなかったが。  写したばかりの写真をプレビュー画面で確認しつつ、露出度の調整をしているとミノリに軽く肩を叩かれた。 「ハル。あそこの店で飲み物買っていい?」  目配せの先にはコーヒーチェーンの路面店がある。気候のよさからか、テラス席まで人が溢れかえるほどだった。 「うん、買おう」  小道具を写真内に活かすのは、動きを出すための常套手段だ。喉が渇いたのもあって即決すれば「私が買ってくる」とカスタマイズにこだわりのあるほのかが進んで店に向かった。  日差しが強い。服からはみ出た皮膚がちりちりと燃える。こっち、と突然ミノリに手を引かれ、俺たちは街路樹の木陰に移動した。体から余分な熱が消え去り、ほっと息をつく。 「ミノリ、さん」 「ミノリでいいのに」 「……ミノリ。今日は来てくれてありがとう」 「どういたしまして。というより、俺がハルに会いたかっただけだから」 「それは、どうも」  目の前を多くの通行人が行き交う。時折風が吹き、ミノリが自分の髪を耳へとひっかけると黒点のようなピアスが現れた。  シンプルな作りだ。でもミノリによく似合う。 「そういえば。俺、ハルにお願いがあるんだけど」 「ん?」 「カメラって、もう一台持ってる?」 「あるには、ある」 「ハルさえよければ貸してくれない? 俺もさ、なんかちょっと撮ってみたくなった」  どうにも即答できなかった。  撮ることが好きかどうかもわからない。埃をかぶるぐらい、もうずっと触れなかったというのに。  それでも他人に触れられることを怖がるなんて、どうあっても矛盾でしかなかった。 「……すげえ大事なんだね、ハルは」  足元のカメラバッグを無言で見つめていると、耳の縁をなぞるように再びミノリの声が聞こえてくる。 「他人に触らせるのをためらうぐらい、カメラを大事にしてるってことだろ。あまりに大事にされすぎて、ちょっと妬ける」 「なんだよそれ。カメラに妬いても意味ないだろ」  ミノリに告げながらも、自分に言い聞かせているような気持ちになる。  所詮、カメラは金で買える。壊れたら買い直せばいい。情を持つからダメになるんだ、なにもかも。 「……ほら」  カメラバッグから取り出したサブの一眼レフを、ミノリに差し出した。  いいの? わずかに目を瞬かせながら、両手でそっと包み込むようにミノリが受け取る。 「社会人になって初めてもらったボーナスで買ったやつ。一応、この撮影前にチェックはしてきたから使える。ちゃんと」 「それじゃあ、丁重に扱わないと」 「ただし、貸すからにはひとつ条件がある」 「なに?」 「俺のことだけは絶対に撮るなよ」  予想外だと言わんばかりに、ミノリが驚きの声をあげた。そもそも俺を撮るつもりでいたのか、この男は。それこそ俺にとっての予想外だ。 「どうしてもダメ?」  黙ってうなずく俺を、ミノリはただただまっすぐに見続けた。どうしても譲れないのは俺のほうなのに、ミノリもまた苔むした岩のように頑なだ。 「俺を撮っても仕方ないだろ?」  折れるのを待たれても困る、と語気を強める。これで話をおしまいにしたかったのに、途端ミノリは苦笑した。 「仕方なくなんかないだろ。撮っても仕方がないものなんてないって、俺はそう思いたいよ」  口調はどこまでも柔らかなのに、ミノリの言葉は泥水のように重く、そして責め立てるように俺の体に降り注ぐ。  ミノリのそれは、綺麗事に過ぎなかった。  全てに価値を与えてしまえば写真はただの「記録」だ。選び抜くからこそ限りあるフレームの世界が、美しく輝きを放つ。  少なくとも、こんな俺にまで価値を与える必要は微塵もなかった。 「わかった、我慢する。今日のところは」  やがて素直に身を引く声に、知らずに強張っていた体の力が抜け落ちた。カメラストラップを首にかけるミノリをただ眺めていると、ほのかが「お待たせ」と紙袋を片手に戻ってくる。  ほのかがミノリに手渡したフローズンドリンクは、店で買える一番大きなサイズだ。苺の果肉がたっぷり入ったジュレの上に、大量のホイップクリームが盛られている。  一方、俺の手元にあるのはノーカスタマイズのシンプルなアイスコーヒー。  嗜好性は正反対かもしれない。 「やば、美味すぎ」  ストローを咥えながらほころんでいくミノリを、そっと自分のカメラの中に閉じ込めた。  それからは俺のためらいがちなシャッター音に、もうひとつのシャッター音が重なった。  そのたびにミノリに向かって、自然と意識が吸い寄せられる。  随分とカメラの構え方が様になっている。  レンズの先にいるのはほのかだった。撮り終えると整った横顔に小さな笑顔が灯り、俺の肌にはまた新たな汗がじわりと浮かぶ。  再びシャッター音が数回鳴った。ミノリとほのかの笑い声が心地よく調和する。  まぶしい。見上げた空の青さに、俺は一度だけ目を細めた。

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