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第一章 レンタル彼氏 4

 クローズドの看板を掲げた『トレモロ』の店内に入ると、カウンターの奥からともちゃんが転がるように姿を現した。 「春輝、遅かったなあ。待ちくたびれた」  本来なら今日は『トレモロ』の営業日だったが、店内での撮影を行うためにわざわざ臨時休業にして時間を確保してくれた。  朝から始めた撮影も、昼前までには店に来る予定だったのに今はもうすっかり正午を回っている。 「ごめん、ともちゃん。もう少し早く来るつもりだったんだけど」 「気にしなーい。どうせほのかがあれこれ指示して、撮影が押したでしょうよ」 「もう。お兄ちゃん、聞こえてる。うるさい」  俺の後に続いて入ってきたほのかが、早速ともちゃんに噛みついた。 「今日の私は、ハルちゃんの選択を絶対に信じるって決めて行動してました」 「えらいえらい。できた妹を持って俺はうれしい。それで、この人が例の『レンタル彼氏』?」  俺の隣に立っていたミノリがともちゃんに向かって、名乗りを上げる。すげえイケメンじゃん。ともちゃんが感嘆の息を漏らしても、ミノリはほほ笑むだけだ。 「春輝ってこういうのがタイプだっけ?」 「あーもう、ともちゃんは黙れって。ほら撮影するぞ。まずはカウンターで撮るから、ともちゃんはドリンク作る」 「はいはーい」  それから最後の撮影カットも順調に撮り終え、俺たちはともちゃんの言葉に甘えてランチをご馳走になることになった。 「といっても、今日はまかないレベルだけど」  ともちゃんはそう謙遜するが、脱サラをしてまで調理師学校に入り直し、現状黒字経営を維持するともちゃんの腕前はなかなかのものだ。  何度かともちゃんの家でご馳走になったことはあるが、簡単そうに作るパスタも炒飯もどれも家庭料理には収まらない美味さがあったのを覚えている。 「あれ、ほのかは?」  料理を待つ間、手洗いに行って戻るとカウンター席にはミノリがひとりで座っていた。 「ともちゃんを手伝ってくるって、厨房に行ったよ」  あと、これ返すね。ミノリの隣に腰かけたタイミングで、一眼レフを渡される。 「わがまま聞いてくれてありがとう」  壊れてないとは思うけど、と手の中に舞い戻ってきた重みをそっと撫でた。 「全部目を通すけど、いいよな?」 「それはいいけど……なんにも考えずに撮ったものばっかりだ」 「本来写真なんてそれぐらい気軽なほうがいいだろ。でもミノリの撮った写真は、どんなものだとしても俺は見てみたい」  ミノリは心なく笑うだけで、賛同も否定もしなかった。  この男にとって「写真」はどういう存在なんだろう。まるで闇の中で答え探しをさせられているように、一向に真実が見えてこない。  そのヒントが俺の手にあるカメラに詰まっている気がして、電源を入れようとした瞬間「ねえ」と低い声に遮られた。 「どうしてハルって、そこまで写真に対して真剣でいられるの」 「は?」 「そういう生き方、苦しくないの」  それ以上言葉は続いてこなかった。思わずミノリの顔を見つめてしまう。  目が合った。夜空に浮かぶ孤独な月にも似た、そんなさみしげな表情でミノリは俺を見据えている。  どうしてそんな顔をするのかわからない。かけるべき言葉も掴めずに、呼吸が空間を漂うばかりだ。 「ごめん。そろそろ行く」  スイッチを切り替えるようにスマホに目を落とし、ミノリが悠然と席を立つ。慌てて俺も時間を確認する。レンタルの終わりが迫っていた。 「ともちゃんのまかないぐらい食べていけばいいのに」 「うん。食べたかったけど、また今度」  あまりにあっさりと別れを告げられ、驚いてしまう自分がいる。別れがないはずもないのに。  時間が来れば、夢から現実へと戻るだけ。ミノリにとっての日常茶飯事。  そういえばそんなおとぎ話があったはずだ。0時になれば魔法が解ける。ともちゃんたちの家に遊びにいくと、二人の本棚に必ずその絵本が並んでいたのを思い出す。 「……ハルが望むなら延長もできるけど?」  ミノリが俺をまっすぐに見つめてくる。わずかな身じろぎで触れ合ってしまいそうな距離感に、呼吸が不自然に乱れた。 「いいから早く帰れよ」 「残念」 「あ、待てミノリ」 「なに」  軽く息を吸い、勢いをつけて言葉を紡ぐ。 「今日の撮影、無理矢理笑わせたなら……ごめん」  言葉を噛み砕くように、少しの間、ミノリは黙っていた。そうして小さくうなずくと、それ以上の言葉を発することなく店を出て行く。  その背中は急いでいた。次に待つ、誰かのために。  細長く洒落たグラスが氷だけを残して、カウンターにぽつりと佇んでいる。 「あれ、やっぱりミノリ帰っちゃったのか」  残念そうな顔をしたともちゃんが戻ってくる。続けて歩いてきたほのかの手には、出来立てのまかないが乗ったトレーが握られていた。 「時間ないかも、って言うから早く仕上げるためにお兄ちゃんを手伝ったのに。やっぱり間に合わなかったかあ」  また今度連れてくる。思わずそう言いかけて、口を引き結ぶ。  次なんてあるはずがなかった。ともちゃんからの依頼はこなしたんだ。 「美味そう」  ほのかから受け取った皿の上では、あさりの乗ったパスタが白い湯気を生み出している。ひと口含めば塩気とニンニクがよく効いていて、あまりの美味さに舌が踊った。 「結構自信作だから、ミノリにも食べてほしかったなあ」  大げさに嘆いてみせるともちゃんに小さく笑い返しながら、噛み砕いたパスタを胃袋へと押し込んだ。

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