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第二章 余白の使い方 1

「あら、それ素敵な写真ね」  会社の昼休み、背後から声をかけてきたのは俺と同じ水無瀬製作所(みなせせいさくじょ)の事務職として働く荻野(おぎの)さんだった。  同じといっても、荻野さんは二十五年以上もここに勤める大ベテランの女性だ。社員やアルバイトを含めても十人ほどの下町工場の事務職として雇われ、まだ入社して一年ばかりの俺は足元にも及ばない。 「荻野さん、写真に興味があるんですか?」  食べ終えた弁当をビニール袋に片づけながら振り返る。  荻野さんの視線は、さっきから俺のパソコン画面に釘づけだった。  画面に映る『黎明(れいめい)フォトアワード』という文字といくつもの写真。新人フォトグラファーの登竜門として数年前に新設されたフォトコンテストのホームページだ。  金属加工場の二階に備えつけられた事務所は、都内の洗練されたオフィスビルの様式とは程遠く、目の前のパソコンだってシステムの更新が追いついていないような有り様だ。だけど休憩中に私用で使っていても咎められない、社内のこの緩さはありがたかった。 「そういうわけじゃないんだけど、私の娘が少し前に子どもを撮るためにカメラを買ったらしくって」 「去年生まれたんでしたよね、お孫さん」 「そうなの。スマホで撮った写真もよかったのよ。でも最近送られてくる孫の写真の質っていうのかしら、とにかく綺麗でびっくりしちゃって。それからふと、いいなって思った写真には目がいくようになったのよね」  私、この写真すごくいいと思う。  荻野さんが指で示したのは、五年前に最優秀賞に選ばれた作品だ。 「上手な感想は言えないけれど『幸せ』を思い出させてくれる感じがするのよね」  改めて、写真を見る。  ビルが立ち並ぶ街並み。スマホやビジネスバッグを片手に気忙しそうに歩く人々の足元には、雨上がりを思わせる水たまり。そしてなにより見る人の目を奪うのは、水たまりに映り込んだちぎれた雲と青空のコントラストだろう。 「……俺も、このときの受賞作が一番好きなんですよ」  写真を拡大する。好きだ、と何度でも思う。  毎日を生きることに精一杯で、写真の中の人たちは誰一人として空の青さに気づいてない。だがこの写真を撮った人間だけは、きっとその青さに魅了されてシャッターを切ったはずだ。  下手すれば誰もが忘れてしまうような日常の美しさを見つけ出し、そっと教えてくれる。そんな一枚に、当時の審査員たちも心を震わせたのかもしれない。 「これを撮ったのは有名な人?」  受賞作の下に残された『UTSUGI.M』の名前を見ながら、俺は荻野さんというより自分を納得させるために口を開く。 「当時はちょっとした話題になりましたよ。弱冠二十歳で賞を獲ったらしいんで。でもその後、副賞としての個展が一度開催されたきりで、今では全く活動を聞かなくなりましたけど……今は、どうしてるんだろうな」  そうなの、と荻野さんは機械油の臭いが染みついた事務所の中で俺を気遣うように笑うばかりだった。  働く工員たちは時折怒号を飛ばし、無骨な態度の男たちがほとんどだが、それに比べて荻野さんはこの会社に似つかわしくないほど人当たりが柔和で、マダムのような雰囲気をいつも醸し出してる。  そして荻野さんはいつだって必要以上の詮索をしてこない。俺もまた、荻野さんの過去に不必要に踏み込まない。  なんとなくここで働ける理由は、不干渉な人間模様にあるような気がした。  午後の仕事が始まる。といっても午前中と大して仕事内容は変わらない。伝票処理や納期のスケジュール管理、仕入れ先から時折かかってくる電話応対。  たまに事務所内の片隅に置かれたお菓子を食べにやってくる工員たちと軽く雑談を交わしつつも、時間はひどくゆっくりと過ぎていく。  十五時を回ると、いつものように事務所内にコーヒーの匂いが漂った。  この時間になると荻野さんはインスタントコーヒーを淹れ、軽くお菓子をつまむ。俺もまた毎日繰り返される普遍的な光景のおかげで時間を把握し、軽く伸びをしながら立ち上がった。 「今日も賑やかねえ」  淹れたばかりのコーヒーを片手に事務所の窓辺に立つと、ふと荻野さんは言った。  網戸だけを残して開け放った窓からは、下校中の子どもたちの声が流れ込んでくる。  これもまた毎日のことだ。甲高い声と少しだけ粗暴な態度。大人からすればくだらないことでいつまでも子どもたちは笑っている。  住宅街に点在し、戦後からしぶとく生き残ってきた工場で起こる出来事は、誰かの日常といつも隣り合わせだ。 「荻野さんのお孫さんも、あっという間にランドセル背負うようになりますよ」  階下を見下ろすと、黒やネイビー、水色、紫にピンクとさまざまな色をしたランドセルが、紙吹雪のように軽やかに舞っていた。 「見たいけど、まだ見たくないような」 「意外ですね。見たくないものなんですか?」 「そうね、いつだって今が一番かわいいから。大きくなるのはもちろん楽しみ。でも今しか味わえない時間だって全力で楽しみたいじゃない?」  好き勝手に時間を止めたり、進めたりできたらいいのにね。  荻野さんの発言に頬をゆるめつつ、マグカップを空席の机の上にそっと置いた。  階下に向け、両手で四角くフレームを作る。  職場にカメラは持ち込まない。過去を無遠慮にかき回されるのは嫌だった。  水色のランドセルの少女がくるりと半円を描いて、友人のほうへと振り返った瞬間、まぶたのシャッターを閉じた。まばたきを繰り返すうち、ランドセルはあっという間に遠ざかっていく。  あの『UTSUGI.M』なら、どう映すんだろう。  写真を撮るとき、いつからかそう考えることが増えたように思う。  現存する写真は『黎明フォトアワード』のホームページに掲載されているものだけ。折りに触れて検索をかけてみるが、目立った活動も全く見当たらない。  なのにいつまでも俺は、正体どころか生死すら不明のフォトグラファーに固執していた。  もしも『UTSUGI.M』が雲隠れすることなく活動を続けていたなら、俺の人生は今よりもう少しだけ違っていたんじゃないか。そう、思ってしまうほどには。  手を下ろす。胸のわだかまりをほぐすようにコーヒーを口に含み、俺は再び納品書を作るために無機質な数字を打ち込んだ。

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