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第二章 余白の使い方 2
久しぶりに『UTSUGI.M』の話題を口にしたその日の夜、俺はカフェバー『トレモロ』の前でミノリと待ち合わせることになった。
ともちゃんの強い要望により『トレモロ』の二周年記念と称したちょっとしたパーティーに合わせてミノリを誘うことになったのだった。
「ハル、久しぶり」
撮影をしてから一か月ぶりに会うミノリは、いつものようにオニキスのピアスでさりげなく着飾りながら、抜群の存在感で店の外に立っていた。
梅雨入りを果たし、重たい湿気を含んだ夜の空気に清涼感をもたらすような存在に目を細めながら、俺もまたうつむきがちに「久しぶり」と返す。
「ハルは元気にしてた? 全然誘ってくれなくて、俺はすごくさみしかったのに」
むず痒さをごまかすように、俺から出たのはシステムに対する皮肉だ。
「あいかわらずいい彼氏っぷりだな」
「当然だろ。だってハルに会うときは、ハルだけのものだ」
「まあ……そう、なんだけど」
金で借りる専属になんの意味があるんだろう。ミノリから放たれる甘い言葉や仕草にも、さっきから金の影がチラついて仕方ない。
だから嫌だったんだよ、ともちゃん。心の中で密かに嘆く。モデルとして呼ぶならまだしも、彼氏として呼びつけるなんて。器用さに欠ける俺に、このシステムはどうあっても向いてない。
ノリのよくない俺は、ミノリからすれば相当かわいくない客であることは間違いないだろう。ただどうにも内心はざわついて、表情は硬くなるばかりだった。
しかしミノリは大して気にする様子もなく、すぐに笑顔へと切り替えて俺を指さす。
「ハルのスーツ姿、初めて見た。もしかして今日は仕事帰り?」
「ああ、まあ」
「普段なんの仕事してるの」
「……事務」
「へえ。フォトグラファーとして働いてるのかと思ってたけど」
「ほら、俺の話はもういいだろ。店の前で立ち話してても仕方ない」
俺たちがただ突っ立っているわずかな時間でさえ『トレモロ』への入店客を数人見送った。
入るぞ、とミノリを促しドアを押し開く。
足を踏み入れると、俺たちをさっそく出迎えるのは体の重心を揺さぶるようなパーティーチューンだ。いつもは仄暗い照明のおかげで居心地のよさを味わえる店内だが、今日ばかりは艶やかな紫色の明滅に包まれている。
多くの来店を見越してハイテーブルや椅子を壁伝いに並べ、さながら立食パーティーのような趣きと化している『トレモロ』に気後れしながらも俺はレジで先に会費を払った。
ドリンクチケット片手に、バーカウンターへ立ち寄る。顔馴染みの男性スタッフが見えて、ほっと胸を撫でおろしながら声をかけた。
「春輝さん、いらっしゃいませ。お連れの方も今日は……って、あれ。もしかしてモデルをしてくださったミノリさんですか?」
ミノリの顔を見るなり、スタッフは目の色を変えた。
思わず漏れた「イケメンですね」というスタッフの声はBGMに負けることなく鼓膜に届く。隣にいるミノリにも間違いなく聞こえたはずだが、肝心の男は感情を濁したような笑顔を少しも崩さない。
「写真よりも実物のほうがもっとかっこいいですよ」
「ありがとう。そう思ってもらえるのは素直にうれしいです」
ついでにミノリがビールを頼むので「おなじものを」と俺も続いた。
「ともさん、写真の出来栄えがよくてすっごく喜んでます。二次会の予約も少しずつ増えてますし」
スタッフが示した壁には、一枚のポスターが貼られていた。
ツーショットのメインビジュアルの周囲を、コマ割りするような形で複数枚の写真が使われている。そのどれもが幸福を思わせる笑顔に満ちていて、ともちゃんの希望する内容になんとか応えた形になっただろう。
SNSを想定とした二次会パーティーの宣伝広告はどうやら好評らしい。店内掲示用のポスターもまた、ともちゃんのツテを頼って先日作成したばかりなのだとスタッフが教えてくれる。
「そういえば俺、あのときの写真初めて見るかも」
派手な照明を浴びながら、ミノリがポスターを真剣なまなざしで見つめている。
俺もまた、ポスターを直接見るのは今日が初めてだった。
「お待たせしました。今日はごゆっくりお楽しみくださいね」
スタッフが手際よく細身のグラスにビールを注ぎ、カウンターに並べる。それからすぐに俺たちから離れ、あとから来た客の対応に当たった。
「ミノリ?」
ビールの存在に気づいていないのか、ミノリはさっきからポスターばかりを見続けている。
観念して、俺も再びポスターを遠目で眺めた。
「ねえ、ハル。納品物の中に俺の写真も混ぜたの?」
なんで。ようやくミノリは目線を俺に向けた。人を突き放すような笑顔を浮かべたミノリからは、静かな圧が放たれているように思えて、そわりと背筋が粟立つ。
「……おまえが撮った写真、すごく、よかったから」
ポスターのメインビジュアルに使われているのは、ミノリの撮った写真だった。
うつむきがちに、そして甘く照れを含んだほのかの笑顔。風にたなびくほのかの髪に触れる、男の手。
それはまさしく「彼氏の目というレンズを通して見た、最愛の彼女」という構図だ。
ほのかがこんなふうにはにかむことすら初めて知った俺には、きっとこの写真は撮れなかった。
ミノリにしか、きっと。
あの写真をポスターのメインビジュアルに据えようと思ったともちゃんたちの感性は、あまりに正しく俺を打ちのめす。
「わざわざ俺の写真を納品物に入れる必要なんてなかっただろ。ハルが受けた仕事なのに……ハルには自分の作品へのプライドはないの?」
「いい作品を作るためなら、俺のプライドなんていくらでも捨ててやるよ」
プライドを持った途端、足元を払われるのだと身をもって学んでいる。
金を支払うのなら質の高さを求められるのが世の常だ。
依頼者を満足させる、そんな単純で難しいことをミノリはやってのける。ミノリがレンタル彼氏としてやっていけるのだって、他より勝るところがあるからだろう。
写真だってそうだ。
ミノリの撮る写真は、俺が撮るものを凌いでいただけにすぎない。
それだけの話だ。それだけの。
「きっとともちゃんは、どっちが撮ったかなんて区別もついてないだろうな。いいと思ったからポスターに使われたんだよ。純粋な評価だ」
よかったな、ミノリ。才能があって。
そう吐き捨てながらも、本当に憎んでいるのは「撮れない自分」なんだと気づいてしまう。なのに抑制することもできなくて、嫉妬に濡れた言葉があふれて止まらない。
「ああ、そうか、わかった。俺がレンタル料しか払わないのが気に入らないんだろ?」
震えを押さえつけるように拳を作る。爪が皮膚に食い込んで痛覚が刺激された。
そんな俺の手を、ミノリが一瞥してくる。
「撮影料は払ってないもんな。ほら、いくら欲しいんだ。言えよ。今すぐ払うから」
ミノリは黙って、俺を見続ける。
あまりにまっすぐなその視線に、言葉の裏にひた隠した震えを探り当てられてしまいそうで怖くなる。
結局負け犬のように目を逸らしたのは俺のほうだった。
「ハル」
気づけばミノリの手が俺の頬に触れていた。全身に極度の緊張が走り、筋肉が強張っていくのに振り払えない。
ビートに乗った重低音に体を震わせながら、人肌にじりじりと灼かれていくばかりだ。
「自分で自分を傷つけるのも、ほどほどにしたほうがいい」
「……なに言ってんだ。俺のことなんてろくに知らないくせに」
「うん。そうだね。俺は所詮『レンタル』で、ともちゃんたちみたいにハルのことは深く知らない。でもハルが泣きそうな顔してるのは俺にもわかる」
ああ、いっそのこと罵ってくれたらよかった。
まるで壊れものに触れるような繊細さで、俺なんかに触れないでほしかった。
よりにもよって金で買ったおまえになぐさめられるなんて、情けなくて消えたくなる。
ろくに写真も撮れない俺に、いったいなにが残っているんだろう。
体の底からこみ上げてきたものが目元へとたどり着き、その衝動をやり過ごすためだけに静かに息を吐く。
「……ごめん。しばらく、一人にして」
絞り出したそれは、ひどく掠れていた。
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