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第二章 余白の使い方 3

「わかった」  ミノリはそう言って俺の頬に熱だけを残し、店内の濃密な紫の中へと溶けていく。  未練がましく、その姿を目で追った。  人混みの中でも、ミノリは一際強く光を放っている。  俺から離れたのをチャンスとばかりに、さまざまな人間が代わる代わるミノリに話しかけていく。酔った勢いなのか男も女もミノリの体に軽率に触れ始め、それに応じるミノリは平常と変わらず、どこか虚ろに笑っていた。  やがてミノリの肩から指先にかけて、知らない男の手がふしだらに滑り落ちた。  瞬間、なぜか喉を掻きむしられるような不快感が湧き起こる。  ミノリに触れられたくないくせに、俺以外の誰かが触れることを許せない、なんて。  そんなこと、あっていいはずがない。  たまらずビールを一気に飲み干す。空になったグラスを掲げ、スタッフにおかわりを頼んだ。 「できるだけ口当たりがよくて、すぐに酔えるものがいい」 「でも春輝さん、なにか食べ物を口にしながら飲んだほうがいいですよ」 「いいから早く作って」 「おーい、こら春輝。俺んちのスタッフを困らせるんじゃありません」  スタッフを庇うようにやってきたのはともちゃんだった。 「春輝のことは俺が相手するから、君は他の客の対応してて」  ともちゃんが指示すると、スタッフは俺に一礼してから距離を取った。 「タイミング悪いんだよ」 「はいはい、なんにも聞こえませんよーっと」 「だってともちゃん、俺がいくら頼んでも酔わせてくれないだろ」 「そこはほら、俺の店だから。大事な幼なじみを悪酔いさせて、店内で吐かれても困るでしょうよ」 「……吐かねえよ。だから酒」  ともちゃんは呆れたようにため息をついて、俺の手からグラスを取り上げる。スパークリングワイン、続けて桃のジュースをシェーカーに注ぐと、ともちゃんが手首のスナップを利かせながら軽やかに振った。 「けどね、なにかつまみながら飲んだほうがいいのは本当。俺が適当に取ってきてやろうか。今日はビュッフェ形式にして、いろいろこだわったんだ」 「いらない」 「頑固だなあ」  ほら、春生まれの春輝くんに。カクテルグラスが差し出される。縁に添えられたミントの葉がどこまでも涼やかだ。 「これ、何色?」 「今日は店の照明がアレだからわかりにくいけど、ちゃんとピンク。カクテル名はベリーニな」 「春だから桜をイメージしたピンクって? 発想がベタなんだよな、ともちゃんは」 「うるさいなあ。どうせ今みたいな調子でミノリにも噛みついたんだろ。なんであいつを一人にしてんのよ。この前まかないを食べさせてやれなかったから、リベンジマッチのために連れてきてもらったのに」  ちゃんと飯食べるタイミングあるのか、あいつは。  ともちゃんが俺の背後にちらりと視線を送る。ミノリの腕に絡む艶めかしい手の残像が脳裏でチラついて、無性にイライラとした。 「……春輝はさ、気弱なくせに誰彼構わず噛みつきすぎなんだよ。虚勢を張るのはいい。でも噛みついた分だけ、変なやつに目をつけられてやり返されちまう」  心配だよ、俺は。ともちゃんの声がどこか遠くで反響しているようだった。  そんなこと、自分が一番わかってる。でも今更自分の生き方なんて変えられない。  グラスを掴み、逃げるようにカクテルをひと口流し込む。桃をベースにしたそれは口当たりは爽やかで飲みやすいのに、鼻を抜ける空気は熱い。ともちゃんにきっとコントロールされているにしろ、ちゃんと酔わせるための酒だった。 「わ、ちょっと、一気飲みはダメだって春輝!」  グラスを空にした。ともちゃんの忠告には無視をして、早く、と新たな酒を頼む。  息継ぐ間も与えず酒を飲むうちに、立っているのが辛くなってくる。  まるで船の甲板にいるような感覚だ。バーカウンターにうつ伏せる俺に、ともちゃんの呆れた声が降ってくる。 「だから一気飲みするなって言ったのに。春輝はそこまで酒に強くないんだからさあ」 「小言はいいから。ともちゃん、次作って」 「いやいや、ダメだろ。今のおまえにあげられるのは水だけです。ってか椅子に座ってな。動けるか?」  嫌だ。動かない。そうやって駄々をこねる俺の腕を、やんわりと引っ張る力がある。 「俺がハルを連れていく」  ミノリの声だった。ほんの少し聞かなかっただけなのに、この声を浅ましいほど待ち望んでいた気がして、どうにも顔を直視できない。 「おー助かるよ、ミノリ。俺、これでもオーナーだからずっとは付き添ってやれないし、ちょっと悪酔いして面倒くさいだろうけど」  面倒くさいは余計だろ。ともちゃんに悪態をつくよりも早くぐっと力強く腰を支えられ、ミノリに移動を促された。紫色に染まった床を、二人並んで歩いていく。 「いったいどれだけ飲んだの」  壁際にあった椅子へ、座るように促される。ミノリもまた俺の隣に腰を下ろすと、水の入ったグラスを俺に手渡した。  ひとりにしろ、と弱さをさらした手前、素直に答える気にはなれず無視を決め込む。背もたれに深く身を預けながら水を飲んだ。 「もういいのかよ」 「なにが?」  アレ、と顎で燦然と輝くフロアの真ん中を示す。俺の記憶が正しいのなら、そこにはミノリと密に体を寄せ合っていたやつらが立っていた。こちらの様子をちらちらと伺っては、ミノリの解放を待ち望んでいるようにも見える。 「うん。つまらない話ばっかり聞かされるからもういい」 「つまらないって?」 「付き合ってとか、ホテル行こうとか。出会ったばっかりなのにそういう即物的な話をしてもつまらないでしょ。その点、ハルはおもしろいよね。表情と言葉がチグハグで、すげえそそられる」  ミノリの手が四角くフレームを作った。そっと片目を閉じていく。  獰猛なほどに鋭さを増した瞳が、フレームの真ん中に突如居座った。  被写体は、俺だ。  心臓が打ち震える。早鐘となって、全身からはぶわりと汗が噴き出した。  求められている、と思った。  ミノリが撮りたがっている。俺を。俺なんかを。強く。激しく。  やめろ、そんなふうに見るな。  こんな俺に、撮る価値なんて見出すな。頼むから。  ――春輝は本当に、ダメな子だ。 「……ごめん、やばい、吐く」  ミノリを押し退け、俺はトイレに駆け込んだ。

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