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第二章 余白の使い方 4-1
次に体を軽く揺さぶられて目を覚ましたとき、窓の外には見慣れた景色が広がっていた。
「家、着いたよ」
ミノリの言葉で、情報が記憶と結びつく。タクシーの停まった路地は、夜気の匂いが濃く漂っていた。
俺の住むマンションは最寄駅すぐ近くのコンビニの裏手から、徒歩十分ほどの場所にある。入り組んだ路地に沿って、古めの家々が密に建て並ぶ住宅街だった。
マンションはさらに細い路地の奥にあり、タクシーはその手前の太い道路で停止していた。
俺の代わりにミノリが手際よく支払いを済ませ、去っていくタクシーを見送る。数歩歩いただけでたちまち体がふらついて、慌てた様子のミノリに抱きかかえられた。
ミノリの歩幅に合わせて歩く。自分の体が他人の思い通りになっていく感覚に、ひときわ強く心臓がぎゅっと収縮した。
ミノリはミノリだ。あの人じゃない。そう念じて、かろうじて気を強く保つ。
「ハルの部屋は何階?」
ミノリに聞かれ「二階」とぼそぼそと答えた。
しかしすぐに、素直に答える必要もなかったか、と後悔した。いくらこの時間がミノリにとってのプライベートだとしても、俺はミノリという名前しか知らない。
素性の知れない男を前にして警戒心を解くにはあまりに早く、いき過ぎた飲酒に反省するばかりだ。
俺が示した角部屋に着くなり、ミノリは俺の腰に回した腕をそっと解いた。
「ハル、鍵どこ」
「多分カバンの中」
「ごめん。ちょっと漁るから」
リュック型のビジネスバッグの中へ、ミノリが手を忍ばせる。
「ああもう、どこにあるんだよ」
鍵はなかなか見つからなかった。
外壁に寄りかかりながらミノリの奮闘ぶりを眺める。
共用通路の黄ばんだ照明は、夜の探し物には到底向かない。明らかな光量不足に困らされた夜が、俺だって何度もあった。
「カバンの奥って見えにくいんだよな」
淡々と事実を述べると、ミノリは露骨に唇を尖らせる。わかりやすく拗ねていた。だったら手伝ってよ、と文句のひとつでも言われるかと思ったが、一向に飛んでくる気配はない。
自分の身に降りかかった災難として、俺の鍵をずっと探し続けている。
「ねえ、ハル。なんで俺を見ながらニヤニヤしてるの?」
「なんか新鮮で。そうやってムキになってると年相応に見えて、可愛げがある」
ミノリの動きが唐突に止まった。可愛げって、と俺の台詞をミノリがなぞる。
ようやく事態を把握し、ごめん、と慌てふためいた。俺なんかのために、必死で鍵を探してくれている人間へ向ける言葉じゃない。
「別にからかったつもりはないんだ。ただ、おまえはいつも余裕あるから……」
「だから可愛く見えた?」
「……まあ、うん」
「できればかっこいいって言われるほうがうれしいけど、でも妥協点かなあ」
ミノリがどこか呆れたようなため息をこぼす。
「ハルと出会ってから、俺、困ってばっかりな気がするし」
ほら、見つかったよ。
自分の戦果を誇ることもなく、俺に確認させるためだけに鍵を目線の高さに掲げると、ミノリはすぐに玄関のドアを開けた。
先に部屋へ入る。土間で振り返って様子を伺えば、その場を動く気配のないミノリと目が合った。
待て、と合図したわけでもないのに、律儀にミノリは待っている。
殊勝で、献身的。俺が『レンタル彼氏』として抱いたミノリのイメージが、音を立てて少しずつ崩れていく。
「ミノリ、俺は……」
言いかけた口を、咄嗟につぐんだ。
足音が聞こえてくる。ドアから顔を覗かせ、外階段の方向を注視すれば、しばらくして上がってきたのは同じ階の住人だった。
こんばんは。
俺たちの存在に気づいた住人があいさつをした。無視することもできず、俺もまたぎこちなく頭を下げる。
すると住人が何気なくミノリのほうを見た。
動揺が走る。どうしようもなく後ろめたい気持ちに支配されていく。
少しだけルールから外れただけ。なのにこの罪深さはどこから湧いてくるんだろうか。
気づいたときにはミノリの腕を掴み、逃げるようにして部屋へ連れ込んだ後だった。
玄関の照明をつけると、うつむいた俺の視界にミノリの靴が鮮烈に飛び込んでくる。
「ハル」
ゆっくりと顔を上げた。すぐ目の前にあるミノリの瞳が、心許なさそうに揺らめいている。
「さっき、なにか言おうとしてた?」
自分の部屋で聞くミノリの声は、不必要なまでに俺の体を焼いた。
咄嗟の行動になってしまったとはいえ、家に人を入れるからには責任を取る必要がある、とさっきまでの自分はそう思っていたはずだ。
「実は俺もゲイだって……言おうとしてた」
え、と吐息まじりの音がミノリから漏れる。
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