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第二章 余白の使い方 4-2

「それ、本当の話?」 「俺が上手い嘘をつけるようなタイプに見えるのか」 「……見えない」 「そうだろ?」  だから、そういうことだよ。  自嘲とともに笑ってみせる。だけど小さく暴れる心臓は、義務感なんかでは到底抑えこめそうにない。  自分がおかしくなっていく。もうずっと透明だった心臓が、今でも体内に赤黒い臓器として正しく収まっていることを、ミノリだけが教えてくれる。 「俺だけが知ってるのはフェアじゃないだろ。それにこの部屋に入るなら、その、俺がゲイだってわかったうえで入ってほしいから」 「それって、踏み込んだ関係を期待してるようにも聞こえるけど?」 「……違う。むしろ牽制だ。互いに指向がわかってるなら、変な間違いは起こさない。その気もないのに勘違いをさせたって、害しか生まれないだろ」  そうかな。ミノリが苦笑した。 「勘違いすら許されない人生なんて、余白を削られたのと同じだよ。楽しめばいいのに。写真だって余白のない構図はあまりに窮屈だし、楽しくないでしょ?」  でも今日のところは、ハルの意見を尊重しておこうかな。そう言って、靴をそそくさと脱ぐとミノリは丁寧に土間の端にそろえた。  知らずのうちに細くなっていた呼吸を元に戻してから、ミノリの後を追う。 「おもてなしは期待するなよ。ちょっと休憩したら帰れ」  照明を灯してから部屋に入り、すぐにエアコンの電源を入れた。六月にもなれば、室内には体に蓋をするような湿気があふれて、エアコンなしでは到底生きられない。  だからといってすぐに効いてくるわけでもない。涼を求めて冷蔵庫を開ける。自炊をしないせいで、常に庫内はガラ空きだ。 「なにか飲む? 水かチューハイかビールならあるけど」 「ろくなラインナップじゃないなあ」 「うるさい」 「えっと、じゃあ、ビールで」  ビールと自分用のミネラルウォーターを手に持ち、声の出どころを追うと、ミノリは狭いワンルームのとある一角をひどく熱心に眺めていた。  そこにあるのは、壁の余白を埋め尽くすように貼った写真の数々だ。 「いいだろ、それ。俺のお気に入りコーナー」  返事はない。ミノリの目だけがきょろきょろと動いている。強く惹かれているのがわかるのに、湿った花火のようにうまく喜びへと点火できず、その前で漠然と突っ立ったままだ。  プリントアウトしたものもあれば、ポストカードや雑誌から切り抜いたものまで。  気に入ったものを片っ端から貼りつけていくだけなのに、いつしかそこは俺の宝の山になっていた。 「ハルのお気に入りは、これ?」  ミノリが一枚の写真を指で示す。 「やっぱりわかる?」  雑多にテープやシールで壁に留めてある中で、その一枚だけはポストカード用のフレームに収めてあった。  ビルだらけの街、気忙しい人々の足元に佇む、水たまり。そして映り込んだ青空。ポストカードの隅に印字された『UTSUGI.M』の文字。  見ているだけで、気持ちが昂っていく。 「この写真って?」  写真を見つめたまま、ミノリが言った。 「五年前のフォトコンで最優秀賞に輝いた人のやつ。俺、この写真がすごく好きなんだよ。その後フォトコンの副賞で開催された個展にも足運んで、そのときに売ってたポストカードがこれ」  ほら、とミノリにビールを押しつける。ペットボトルで乾杯を交わし、俺はソファーベッドへ横たわった。エアコンから排出される風がよく当たるからだろう、布団はほどよく冷えて火照った体には気持ちよかった。 「ねえ、ハル」 「ん?」  空気が震え、見なくてもミノリがこちらに近づいてくるのがわかる。  仰向けになった。缶ビールに唇を寄せながら、ミノリが俺を見下ろしている。未だ壁の写真たちに囚われているのか、その瞳は夢の世界を漂うように熱を含んでいる。 「ハルはなんであの写真が好きなの」 「教えない。絶対笑うから」 「笑わないって約束する。ハルの言葉で聞きたいんだ、聞かせて」  懇願にも似たミノリの声が、わずかに震えている。  ベッドが沈む。ミノリが腰かけたせいだった。  俺を見つめながら、ミノリがビールを飲む。血管の透けた皮膚の下でミノリの喉仏が上下する。まるでアルコールが通過した後のように、自分の喉までひりついた。 「言わないとこのままキスするけど」 「なんだそれ、俺を脅してるのか? そうやっていろんなやつに言うこときかせてきたのか」 「へえ。俺のこと、そんな軽薄なやつだと思ってたんだ」 「唇ひとつで落とせるような経験を積んできたのは間違いないだろ」  鼻で笑い飛ばすと、ミノリのきれいな顔が大げさに歪んだ。焦りとも怒りとも呼べるような余裕のなさで顔を近づけてくる。  やがてミノリは鼻先をくっつけて、ぴたりと止まった。わずかでも動けば、唇まで触れてしまう。そんな距離でこちらを一丁前に焦らす。  心臓が戦慄いた。  思わずシーツを掻く。体だけがミノリを強く、強く意識する。 「ほら言って。今ならどんなに小さな声でも拾える」  笑おうとした音が、喉で折れた。  途端、俺を蝕んでいくのは過去の残像だ。  俺は俺らしく生きてはいけない。求めてもいけない。  だって全ては「ダメな子」のすることだから、と自戒を込めれば急速に息苦しさが増していく。  ひどく寒い。体の熱がベッドに吸い尽くされていくようだ。  眼差しを受けとめ続けるのもいよいよ限界だときつく目を閉じた瞬間、ふと頬にささやかなキスをされた。  本能的に身構える。しかし俺が思い描いた「次」は一向になく、そろそろとまぶたを持ち上げた。 「やっぱりやめた」  一拍だけ笑って、ミノリは俺から離れていく。 「余白残しておこうかな。ハルとの関係は大事にしたいし」  最悪だ。まじで。  勝手に頬へキスしておいて、柔い場所を存分にかき乱しておきながら猫のような気まぐれさで離れていくのは、あまりにタチが悪かった。  取り乱した心臓も、気持ち悪いほどに汗ばんだ背中もなかなか元には戻らない。 「むかつく」  吐き捨てると、ミノリが声をあげて笑う。  残された余白は、やがて終電に間に合うようにミノリが帰った後も俺を存分に困らせてくれた。

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