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第二章 余白の使い方 6-2
立ち上がったミノリの手には、しっかりと使い捨てカメラが握られていた。出会ってから今までミノリが率先して熱を募らせる姿は見たことがなく、思わず目を丸くする。
「なんか妙にやる気だな」
「ね。俺もちょっと戸惑ってるかも。ここまでワクワクするの久しぶりすぎて」
ミノリに与えたルールはいつものようにひとつだった。
「俺を撮るなよ」
店を出て早々に伝えると、えー、と不満げにミノリが口を曲げる。だから俺を撮ってどうするつもりなんだよ。モデル向きの外見でもないのに。
「やっぱりダメ?」
「ダメ」
「一枚も?」
「一枚でも撮ったら即解散」
「やっぱりそのルール、すげえ不満」
それでもミノリは渋々了承して、カチカチとおもちゃのような安っぽい音でフィルムを巻いた。
ミノリが好む被写体の対象は、人物だけに留まることなくあまりに広かった。
横断歩道の信号の上に止まるハトを撮ったかと思えば、次の瞬間には敷き詰められたコンクリートの隙間から生えた、よくわからない小さな雑草を写している。
人が住んでいるかもわからない路地裏も、道すがらに見つけたおいしそうな食品サンプルも、興味津々で話しかけてきた通りすがりのおじさん相手にだって、ミノリはシャッターを切る。
ミノリの体は、きっとアンテナそのものだ。
生まれつきそうなのかもしれないが、それにしたって日常的に撮る環境にいなければ、ここまで被写体への感度はよくならない気がする。
「なんかこのチープさがクセになるかも」
カチカチカチ。ミノリがまた一枚撮り終え、フィルムを巻いた。
心から楽しんで撮影に取り組んでいることは、ミノリがまとう空気で伝わるというものだった。どこまでも軽やかで、ミノリは縛られない。
「あと何枚撮れるんだ?」
次のモチーフを探そうと歩き始めミノリに声をかける。
「そっか、上限あるんだっけ。残り八枚だ」
「もう?」
「そういうハルはどれぐらい残ってるの」
「……おまえよりは多いかな」
ミノリと違って、シャッターボタンに添えた俺の指は石のようにもうずっと重かった。
被写体を目で追い回すばかりで、何度となく好機を逃している。
デジタルカメラのように撮り直すこともできず、たった三十枚にも満たない枚数の機会しかもらえないことも、俺の判断を鈍らせる要因だろう。
あの『UTSUGI.M』なら、と思う。
あなたならこんなとき、どんなふうに世界を切り取るんでしょうか。
しかし『UTSUGI.M』の例の写真はまるで宗教画のように俺の脳裏に存在し続けるだけで、いくら待ったところで救いの手は差し伸べてもらえそうにない。
「ねえ、すげえ汗かいてる」
気づくと、ミノリが日差しを遮るようにして俺のすぐそばで立っていた。
手の甲で汗を拭う。ちょっと触れただけでびっしょりだった。
「ちょっと休憩にする? 今日のハル、あんまりノッてないみたいだし」
見抜かれている、いろいろと。体調が悪いわけではなかったが誘いを断る気にもなれず、ミノリに促されるまま歩いた。
通りがかった公園のベンチに誘導されて、素直に座り込む。
日が暮れかけている。縦に長く伸びた木陰が俺の周囲を包みこんで、蒸し風呂のような気候の中にわずかな清涼感をもたらしてくれる。
手に握ったままだった使い捨てカメラを確認すると、まだ残数は半分もあった。いつものカメラならあっという間に撮り終わる枚数だ。
だが随分と苦しめられている。
気楽に。内心で唱えては、顔をしかめた。
本気で写真と向き合おうとすると、俺からは気楽さが失われていく。
昔はこうじゃなかったはずだ。楽しい、という気持ちだけでどこまでも行ける気がした。
しかし写真というものを本格的に学び始めたころから楽しさだけでは撮れなくなり、今となっては長い時間をかけて身につけた技術や知識も欠如して、俺の体は見事にもぬけの殻になってしまった。
ミノリのように、どうしたって俺はなれない。
わざわざ個人的にレンタルをしたのに、今日は非情な現実を目の当たりにしただけだった。
「スポーツドリンクでよかった?」
「ありがとう」
自販機で買ってきたドリンクを手にし、ミノリが戻ってくる。受け取ったペットボトルを頬に当て、その冷たくも心地いい温度に軽く目を閉じる。
「ねえ、ハル。もしかしてオーバーヒートしてた?」
ミノリの問いに、小さく笑ってうなずく。
「そうかも。写真のこと、いろいろ考えすぎてた」
「ハルは真面目だし、情熱家だね」
「そんな大層なもんじゃない。このままじゃ満足できないから、今日は真剣におまえのスキルを盗もうと思ったぐらいだ」
「言わなくてもいいことまで言っちゃうのが、ハルらしいよ」
ミノリが自身のペットボトルのふたを開けたのか、プシュ、と鋭く空気の抜ける音がする。
目を開き、気づけば俺の隣に座っていたミノリを見つめる。吸い込まれるように、ミノリの体内へとコーラが少しずつ消えていく。
ふと使い込んだあのシャッターボタンの感触を求めて指先がぴくりと動いた。だけどすぐに思い直しては手をきつく握りしめる。
ここにあるのは使い捨てカメラだけだ。俺のカメラは家に置いてきてしまった。
「俺は、構図とか光の当たり具合とか、そういう小難しい技術的なことを考えるようになったの、割と最近なんだよ」
互いに中身を空にするころ、ミノリが落ち着いた声で切り出した。太陽はもう随分と西へ傾いて、空には夕日からこぼれたグラデーションが広がっている。
「俺に初めてカメラを教えてくれたのは、フランス人のおばあちゃんなんだよ」
「じゃあ、もしかしてミノリのその目の色って?」
「うん。おばあちゃん譲り」
ずっとカラコンかと思ってた。俺の言葉を受け止め、ミノリが笑う。それから仕切り直すように小さく息を吐いて、話し続ける。
「昔はこの目のことでちょっとトラブルになることもあって。友達と遊ぼうとしない俺を心配して、いいものがある、っておばあちゃんが写真のことを教えてくれた」
「そうだったのか……」
「でも教えるっていっても技術的なことはなんにも。自分が好きと思ったものを撮ればいい、答えはあなたの心が教えてくれる、っていう心構えだけ。大人になった今でも、おばあちゃんの教えのとおりでいいんじゃないか、って時々強く思うときがある」
ハル。そう名前を呼ばれただけなのに、胸が熱く震え、訳もわからず泣きたくなる。
理由をうまく説明ができない。夕日に包まれながら静かに笑うミノリを見ていると、泣きたい衝動ばかりがこみ上げる。
必死に築いた防波堤を崩しかねない、強烈な衝動をこらえ「なに」とざらついた声でなんとか応えた。
「俺のこと撮ってよ」
まさかミノリのほうから誘ってくるとは思わず、ぎこちない表情になったかもしれない。
「撮られるの、本当は好きじゃないんだろ?」
「俺、そんなことハルに言った?」
ゆるく首を横に振る。
直接言われたわけじゃなかった。だけど、今も忘れられない。
初めてミノリに撮影を頼んだあの日。強固な心の隔たりを保ったまま俺に撮られていた冷たい瞬間を、俺はいつまでも覚えている。
当然レンタル彼氏として「笑顔」を頼めば、いくらでもミノリは笑うだろうし、満足いくまで撮影に付き合ってくれるだろう。
でも俺が狂おしいぐらいに求めているのは、作り置かれた笑顔じゃない。
「嫌なんだよ。レンタル彼氏として依頼して、ミノリを無理に笑わせるのは嫌だ」
「ねえ。ハルは今の俺を見てもまだ、無理に笑うと思う?」
「それは……」
「正直な話、撮られることがめちゃくちゃ好きなわけでもないけど。でも俺、ハルに撮られるのは好き。ハルが撮影のときに俺に向ける真剣な目が、すげえ好き」
俺のことを好きなんじゃないか、って勘違いしそうになるぐらい。
ミノリが俺を下から覗き込む。距離の近さに呼吸を止め、目を逸らした。
しかしどれほど振り払おうとしても網膜にミノリの姿が焼きついて、突き動かされるように使い捨てカメラへと手が伸びていく。
「撮って」
甘やかな声が俺をさらった。
ミノリに視線を送る。わざとらしいキメ顔と、無言のピースサイン。写真スポットに群れる旅行客さながらの様子に、思わず吹き出しそうになる。
「……撮るぞ」
一枚。また、一枚。ミノリの呼吸に合わせながら、シャッターボタンを押していくだけ。
きっと誰にでも撮れるような構図だ。
ミノリもまた、俺がいつシャッターを切ってもいいように、ポーズを作っては待ち構え続ける。子どものころを思い出すような、つたない撮影だった。
やがてあまりのミノリのキメ顔っぷりに堪えきれなくなって、とうとう笑ってしまい、ミノリもつられて笑い出す。
自然とまたシャッターを切った。
「今の写真、俺、絶対変な顔してるんだろうなあ」
笑いの尾を引きずりながら、ミノリが言う。
変な顔してても、ミノリは格好いいだろ。そう返せば、ミノリは虚をつかれたようにまばたきを繰り返す。
そんな姿もまた、絶好のシャッターチャンスだった。
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