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第二章 余白の使い方 7-1

 馴染みの現像店がある。  学生時代に教えてもらった武蔵野区にある店で、学内での展示や発表、ポートフォリオ製作におけるまでなにかと世話になった店だった。大型店より納期は長くなるが、店独自のこだわりがある分、丁寧な仕上がりを施してくれる。  使い捨てカメラ二台分のデータ化とプリントアウトを頼むと、納期は二週間だと言われた。  期日を過ぎた、平日の水曜。俺はその日に合わせて午後から半休を取り、電車に飛び乗っていた。  入道雲を車窓越しに見ながら、ひっそりと頭を悩ませる。  現像できあがったら、いっしょに見よう。  先日の別れ際、ミノリは俺にそう告げ、半ば強制的に連絡先を交換することになった。  俺からお願いしてるのに、ハルがお金を払ってレンタルする必要はないでしょ、とミノリは言う。  その主張に理解を寄せられないわけじゃない。  ルールを破るかどうか。関係性を覆すほどの選択が俺に委ねられている。そのことが、怖い。  ミノリとは連絡先を交換してすぐあいさつ程度のメッセージを送ったぐらいで、それ以降音沙汰はなかった。  連絡が来ないことにホッとする反面、選択を委ねておきながら放置するふてぶてしさを思えば、少しだけ憎たらしい気持ちになる。  おかげさまで、俺は連日ミノリについて考える羽目になった。  知らせのないスマホの画面を睨みつけていると、車内アナウンスが目的の駅名を告げる。そろそろと重い腰をあげた。  プラットホームに立った瞬間から匂った夏の蒸れた空気は、構内から出るとますます存在感を増した。  今日はめまいがしそうなほどの炎天下だ。  皮膚をちりちりと焼く太陽の魔の手から逃れるように、自然と歩くスピードが速くなる。  駅を出て、徒歩五分。目印となる立て看板が見えた。  アパートの一階にあるテナントタイプの現像店は、ドアをくり抜く窓ガラスから中の様子が覗ける。後ろ姿しか見えないが、男の先客が一人いるようだった。 「宮永さん。いらっしゃいませ」  店内に入るとすぐに、壮年に差しかかるオーナーと目が合った。ぎこちのない会釈で応えながら、先客がいるカウンターに近づくべきかどうか迷っていると、件の男が振り返った。  あ、と声がこぼれる。俺の目、いや体の全てが男の存在に縛られていく。  空調がしっかりと効いた店内にいながらも、冷や汗が背中を伝った。 「なんだ驚いた。春輝じゃないか」 「……夜野、さん」  何事もなく、夜野さんは俺に「久しぶり」と笑ってみせた。  最後に見てから、二年は経っただろうか。  夜野さんの髪は、俺の記憶と比べてかなり伸びている。肩にかかるぎりぎりの毛先をゆるく巻いて、かねてから身なりにこだわりがある人だったと同時に思い出した。ファッション雑誌を切り貼りしたような洒落た服装が似合うこともあって、俺より八つも年上なのが嘘のように今も若々しい。 「元気にしてた?」 「……はい、それなりに」 「こちらは随分辛い思いをしたんだよ。春輝が突然、僕のフォトスタジオを辞めてしまったから。連絡しても返事はないし」  夜野さんが並べた出来事に、なにひとつ誤りはなかった。  たちまち自責の念に囚われていく。血の気が引いて、とにかく謝らなければ、と深々と頭を下げた。 「その節はご迷惑をおかけして、本当にすみません」  夜野さんの声にわずかな動揺が滲んだようだった。頭を上げてくれないか、春輝。 「いいんだ、もう。さみしくはあったけど。でも、ここでまた会えてうれしいよ」  夜野さんがほほ笑みかけてくる。しかしそれを素直に受け止めきれず、すぐに目をそらした。  それでも夜野さんの視線が重く体にまとわりつくようで動けずにいると、オーナーがカウンター越しに話しかけてきた。  「懐かしいですね。そうやってお二人が並んでると、夜野さんが宮永さんを初めてここに連れてきた日を思い出しますよ。あのころはまだ宮永さんも大学生でしたよね」  オーナーの言葉に夜野さんは「懐かしいね」とうれしそうに相づちを打つ。それから俺に向けて手招きをした。 「ほら来なさい、春輝。僕の隣に並んで」  まるで取り憑かれたように夜野さんへ近づくと、ふわりと懐かしい香りに包まれる。俺より少し低い夜野さんの体温と混ざり合い、嫌味なく体から放たれる香水は甘くスパイシーだ。  好きだ、と伝えた日のことを思い出す。この匂いが好きだ、と夜野さんの腕の中でまどろみながら伝えると、夜野さんは、おそろいだ、とはにかんでいた。僕の匂いが春輝に移ってしまったんだね、って俺の髪を撫でてくれた。 「そういえば宮永さん、ご用件は?」  オーナーが夜野さんから預かったらしいフィルムをカウンターの端へ片づけながら訊ねてくる。そういえば夜野さんは、仕事の場では徹底してデジタルカメラしか使わないが、趣味となると古いフィルムカメラを時折引っ張りだしていた。 「あの、このまえ頼んだ現像物を引き取りに」 「ああ、そうでしたね。持ってきますので、少々お待ちください」  バックスペースへとオーナーが姿を消す。  沈黙が満ちる。昔は俺たちの間にある無言の時間にも、多くの種類があった。互いに話を控えて、シャッターを切ったり、触れ合ったり、見つめあうだけで気持ちが高鳴るような、そんな甘やかな日々を送っていた。  いつからこんなにも会話を恐れるようになってしまったんだろう。  話し合わなければと思えば思うほど、言葉は心の奥底に沈殿していく一方だった。 「ねえ、春輝。いい加減、僕の目を見なさい」  ああ、まただ。逆らえない。やわらかな口調とは裏腹に、いつだって夜野さんの放つものには呪文が織り込まれている。

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