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第二章 余白の使い方 7-2

「ようやくまともに僕を見たね」  笑うと夜野さんの右頬には小さなえくぼができる。そのえくぼが愛おしかった。夜野さんに笑ってほしくて、俺はいつも身の丈に合わないほど躍起になっていた。  絆されて、飲めないはずの憤りを無理矢理飲み込んでは右腕であることを誇りに思い、最愛の人であろうとした。 「まだやめてないんだろう?」 「なにを、ですか」 「写真だよ。そうじゃなきゃ、現像屋になんて来る必要がない」  俺の頭にぽんと夜野さんの手が添えられた。香水の匂いがいっそう濃密になっていく。 「春輝にはたくさんカメラについて教えたね。春輝自身が僕になれるように、徹底的に」  まるで愛を囁くように、夜野さんの声に熱が帯びる。 「僕やスタジオから離れたのは、もう写真を嫌になったからだと思ってた。でも違ったんだね」  本当にうれしいよ。夜野さんはつらつらと話し続けた。 「春輝が撮り続ける限り、このままずっと君の中で僕が生き続けるってことだろう? それって単純に恋人として付き合うよりもすごいことだと思うんだ」  俺の頭を夜野さんがゆっくりと撫でる。撫でられるたびに、夜野さんに支配されていくような気がして恐ろしさがこみ上げてくる。カウンターを睨みつけることでなんとか自分を保つが、いつまで持ちこたえられるかわからない。  耐え忍ぶ俺を尻目に、やがて夜野さんは鼻から抜けるような笑いを漏らした。 「その目を見てると昔を思い出すな」  指の腹で目のふちをなぞられる。まるで蛇が這うような触れ方に、怯えた奥歯がかちんとぶつかった。 「春輝、ちゃんと聞いて。覚えておきなさい。僕は心から君を愛してたよ。屈服を嫌がる君の瞳がたまらなく好きだった」  どこか悲痛を思わせる、苦しげな声だった。  心臓を夜野さんの大きな手で握りしめられた気がして、咄嗟に胸を覆うTシャツをきついぐらいに掴む。 「出会ったころは自分の世界を守るのに精一杯で、僕のアドバイスなんか聞く耳も持たずに小型犬みたいに噛みついて。なのに春輝の撮る写真は、いつのまにか僕の写真そのものになってた。贋作と呼べるぐらいに」 「……うそだ」  うそなものか、と。夜野さんがやさしく、だけど議論の余地を挟むことなく否定する。 「あなたは褒めてくれた。俺を撮るもの、全部、いつだって素敵だって……」 「それはそうだろう。僕は自分の撮るものが好きだ。僕の写真そっくりな春輝の写真だって、当然愛しいに決まってる。むしろそうあってほしくて、僕は君の先生になったんだよ」  不意に頭を抱き寄せられた。夜野さんの熱っぽい吐息が耳をなぶり、訳もわからず全身がぶるりと大きく震える。 「君と過ごす時間は幸せだったよ。いつまでもそばに置いておきたかった。でも――」  贋作が本物を上回ろうとするのはダメな子のすることだって、わかるよね?  体のどこかで、骨の軋む音がした。  夜野さんの手が名残惜しげに離れるのと同時に、オーナーが戻ってくる。カウンターの上に、俺の現像物が入っているだろう袋が二つ並ぶ。  それを一瞥すると夜野さんは「頑張ってね」と俺に笑いかけ、そのまま店を出て行った。  そのエールは、誰に向けてのものだろう。俺自身になのか。それとも俺の中に今も根を張る、あなたに向けてのものなのか。 「夜野さん、冬には二店舗目のフォトスタジオをオープンさせるようですよ。波に乗ってますよね、彼」  オーナーは世間話と変わらない調子で言った。  それから取り違えがないように、軽く袋の中の写真を俺に見せる。視覚が壊れてしまったのか、L判サイズのプリント紙からなにも情報を得られないまま、うやむやにうなずいた。  代金を支払い、写真を受け取るタイミングで再びオーナーが「あの」と語りかけてくる。 「夜野さんの言葉を借りるようですが、私としても久しぶりに宮永さんの写真を預かれてうれしかったですよ」 「ありがとう、ございます」  憮然とした態度でなんとか礼だけを告げる。  一呼吸するだけで、残り香が肺に満ちた。  少しでも早く、と写真の入った袋をリュックに押し込み、追われるように店を出た。  駅までのわずかな道のりを、息を切らして歩く。足が幾度もつれそうになる。  すれ違い様に人とぶつかりそうになって、かろうじて避けると舌打ちとともに軽く睨まれた。  たったそれだけのことで、もう足が動かなくなる。  歩道の片隅でうずくまると、通行人の何人かが無関心な顔つきで目線だけをこちらに投げてきた。  俺は随分と浮かれてたのかもしれない。  あの店に行けば、いつか必ず夜野さんと顔を合わせることになるとわかっていた。ミノリと過ごす言い訳に「写真」を利用した時点で、遅かれ早かれこうなることも本当はわかっていたのに。  過去の精算はまだ終わってないのだと、さっきから止まらない体の震えが教えてくれた。  写真を撮れなくなったのは、ある日突然だった。  ふつりと充電が切れたようにカメラにすら触れることができなくなり、俺は逃げるように夜野さんから距離を置いた。  なのに、忘れられない。どうしても。  夜野さんの匂いが、目が、言葉が、俺の体にこんなにも棲みついて忘れ去ることを許さない。  ふと、どうしようもなくミノリに会いたくなった。  慰めの言葉がほしいわけじゃない。一人でいたくなかった。  誰かを選べるなら、その相手はミノリがいい。  震える手でパンツのポケットをまさぐり、スマホを取り出す。祈るようにメッセージを打ち込んでいく。  ――会える?  あやまちに気づいたときにはもう遅い。送信を終えたメッセージには、既読マークがついている。  それでも息を呑んで、ミノリの返事を待っている。

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