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第二章 余白の使い方 8-1

 夜の街には、俺の知らない世界がまだまだある。  板を強く踏み込む音がして、次の瞬間熟れすぎた果実のようにピンク色の水面が弾けた。  水しぶきが頬を打つ。体にまとわりつく熱帯夜がわずかばかり冷めていく。  激しくうねった水面の下では、さっきから黒い影が見え隠れしていた。  記憶の底に沈めたはずの夜野さんの残像が影と重なって、体が不自然なまでに強張るのがわかる。  違う、と否定する。頭を振る。  間違えるな、俺と今一緒にいるのはミノリだろ。  飛び込み専用のプールへ見事入水を決めてしばらく経っても、ミノリはなかなか浮かび上がってこなかった。  リゾートホテルの敷地内に備えつけられた屋外プール。水深はそれほど深くないはずだった。 「ミノリ」  ライトアップの色がピンクから青へ変化する。今日は偶然にもDJナイトと銘打ったイベントが行われていて、プール全体に大音量のアッパーソングが流れていた。 「なあ、ミノリ……」  もう一度呼んだ名前は、かすかに震えている。水中にまで俺の声が届くはずないとわかっていても、あぶくのように生まれる焦りが俺にそうさせた。  このまま、浮かび上がってこないのなら。  嫌な想像が駆け巡る。プールサイドに膝をついた。揺れの小さくなったプールを、水面すれすれまで覗き込む。  すると突然、俺のすぐ目の前で噴水さながらの勢いのまま水中から飛び出してくる人影があった。  プールの縁をつかむ手。浮上したミノリを中心に、照明の青色を跳ね返しながら水がぽつぽつと滴っていく。 「あれ。ハルだ」  頭をぶるぶると振って、プールサイドに上がったミノリは言った。 「やっぱりプールに入る気になった?」  体の線にぴたりと沿う形のラッシュガードは、ミノリの体つきのよさを俺に訴えてくる。着痩せするタイプらしい。細身でありながらも、腕や腹にはしっかりとした筋肉の膨らみがあった。 「なんか、不機嫌そうだね?」  濡れて顔全体に貼り付く髪の隙間から、最大限に弧を描いた唇が見える。  こちらの内心なんて知るよしもない男はどこまでも楽しげで、あまりに奔放だ。どうしたって眉根が寄る。 「なんでもない」 「そう?」 「あと、入るつもりはないって言ってるだろ」  ミノリに背を向け、俺たちの荷物を置いてあるプライベートスペースのカバナへと歩き出す。俺の後ろをついて歩くミノリの気配があってたまらず振り返ると、二人組の女子に手を振られたミノリが、同じ動作で応えているところだった。  言葉に代え難い歯痒さは、長いため息に変わった。  ミノリの返事は、すぐに来た。  それどころか「早く会いたい」と願われて、メッセージを送った日の夜に今、こうして二人で会っている。しかもなぜかナイトプールなんかで。 「後輩にオススメされてから、一回来てみたかったんだよね。一人で来てもつまんないし、ハルが付き合ってくれてうれしいけど、ここまで来て本当に泳がないの? 水着持ってないって言うからわざわざ俺のやつ貸したのに?」  投げて渡したバスタオルで頭を拭いながら、ミノリが訊ねてくる。 「泳ぐのはもともと好きじゃない」 「だったら嫌だって言えばよかったのに。ボートのときはハッキリ断っただろ? 行きたいところがあるなら付き合うよ」 「別におまえについていこうが、どうしようが俺の勝手だろ。プールを眺めてるのは嫌いじゃないんだ」 「海ならまだわかる気がするけど。それだったら俺も眺めていられる」 「プールだって似たようなもんだ」 「そうかなあ?」  DJブースから遠く離れたカバナは、簡易のベンチシートに天蓋がついていて、ちょっとした居住空間のようだった。男二人で寝転んでもまだ余裕がある。さながら海外のリゾート地を思わせるアジアンテイストなデザインで、居心地だけは悪くはない。 「ミノリ、おまえまだ泳ぎ足りないんじゃないのか?」  それはひどく棘のある響きになった。  ここに来てもう一時間近く、俺は放置されている。気持ちよさそうに泳ぐミノリを眺めているのは、まだいい。ただ、一人でいるミノリに声をかける人間を眺めるのは、到底気分がいいものではなかった。  察しのいいミノリに「不機嫌」と指摘された理由の大半はここに集約されていく。 「んー、今はハルのそばにいたい気分かなあ。ちょっとだけ休憩」  ラッシュガードや水着の裾をギュッと両手で絞り、水気を切ってから、ミノリがベンチシートに上がってきた。許可もしてないのに俺のすぐ隣で寝そべり、湿ったその頭をこちらの肩に乗せてくる。  内心ひやりとして、だけどすぐに考えを改めた。  相手はミノリ。  そう強く意識すれば、ちょっとした触れ合い程度なら過去の影に惑わされることもない。このまま俺の全てがミノリに慣れていけたらいいと思いはするが、それは途方に暮れるほど長い道のりなんだろう。 「重くない?」  こちらの顔の険しさを間違った方向で捉えたミノリが、わずかに頭を浮かせて訊ねてきた。  気ままで奔放ではあるが、相手への気遣いを忘れるほどじゃない。そういう絶妙なバランスが、俺を必要以上に掻き立てる。 「重いに決まってるだろ」 「はは、素直だ」 「そんなことより、ほらこれ」  今日の目的はきちんと果たしておきたい、とサイドテーブルに置いてあった袋をミノリに見せる。  すぐに察しはついたらしい。 「使い捨てカメラの?」 「そう。多分そっちの袋がおまえで、こっちが俺と思う。まだ俺もしっかり見てないから断言はできないけど」 「じゃあハルの撮ったやつを見たい」 「自分のじゃなくて?」 「自分のやつは別にいいよ」  興味がない、とまで続きそうな温度のない口ぶりだというのに、笑顔だけは崩さない。 「見せて」  笑みが深くなる。まるで魔法にかけられたみたいに、俺はうなずいていた。  袋を開封し、プリント紙を眺めるその整然とした顔は、ただの写真好きの枠には収まらない、純度の高い熱を湛えているようだった。  俺の写真に、どうしてそこまで。  脈拍が誰にも知られることなく加速する。骨や皮で丁重に守られた内側を、直接ミノリの目で覗かれている気分だった。 「もしかしてカラーバランスいじった?」 「現像店に頼んでシアンをちょっと足してもらった」 「どうりで夏の空の青が気持ちいいと思った。ハルのあの真剣な目には、世界がこんなふうに映ってるんだ」 「改めて言われると恥ずかしいだろ」 「俺、ハルの写真好きだよ」  

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