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第二章 余白の使い方 8-2
突然の告白に動揺して、思わず手の内にあったミノリが撮った写真を落としてしまう。ミノリの髪から水滴がぽつりと落ちて、写真の角を静かに濡らした。
俺の写真を、ミノリが今はっきりと好きだと言った。
好き、という言葉だけがひとり歩きして、体の至るところに火をつけて回る。異様なほどに体が燃えて、ミノリの顔がどうしても見られない。
「あ、ここから俺ばっかり」
写真を拾い上げながら隣の手元を捉えると、後半戦は見事にミノリが一人きりで映るものばかりだった。
絶やすことなく海を照らす灯台のように、俺の意思は誰かの模倣なんかじゃなく、写真に強く宿っている。
湿っぽい気持ちをごまかすように、なあ、と話題を捻り出した。
「ミノリって、モデルの経験はないのか。撮られ慣れてるだろ?」
「学生時代に読者モデルはしてたかな、少しの間だけ。なんか街で声かけられて面倒だなとは思ったけど、周りの人たちが熱心に勧めてくるから流されちゃった」
「想像できるな、それ」
「そう?」
「あと神様にもお気に入りがいるんだなって思った。いったいいくつ与えられたんだよ、って」
「それ、本当にハルは本気でそう思ってる?」
ミノリが不意に写真を高く掲げてみせた。
「俺、そんなにたくさん与えられたように見える?」
DJのマッシュアップに合わせて濃淡を変える照明が、まるで火花のように写真を背後から照らした。
手のひらサイズにも満たない小さな紙の中では、あのミノリが無邪気な笑顔を見せている。少しだけ、誇らしく思う。貴重な瞬間を切り取れた自分の腕を、少しだけ。
だがそれを大きく上回るのは後悔だ。
今ミノリがさみしそうな笑みを浮かべていることも。きっと俺の言葉が、普段は巧妙に隠してある傷を抉ってしまったんだろうということも。
返す言葉を見失ったまま、俺はミノリの撮った写真を再び眺めた。
日常から特別を無理やり切り取ろうとする俺とは違い、ミノリは日常に擬態した特別を残すのが得意だった。
そしてなにより違うのは、ミノリが撮影した数枚に俺が写っていることだろう。
ひゅっと息を呑む。
使い捨てカメラを構えてシャッターチャンスを伺う、気弱そうな男の後ろ姿。撮られたことさえ気づかなかった。
ああ、これは。完全に、隠し撮りだ。
「これ……」
思わずこぼれた震え声に、ミノリは焦点を俺に合わせるとたちまち困ったように眉尻を下げた。
「撮るな、って言ったよな。ルールだ、って」
「……うん、ごめん。多分何言っても言い訳にしかならないけど、どうしても撮りたかった。抑えきれなくて、ごめん」
もう二度と誰のものにもならず、生きていくつもりだったのに。
それでも写真の中の後ろ姿の男は、ミノリに必要とされて映り込んでいる。
やがてミノリの手が俺の髪をかき分けるように撫でた。
「嫌だった、よね?」
その聞き方は、ずるい。
――自分が好きと思ったものを撮ればいい。
先日聞かせてくれた、ミノリの祖母の言葉を覚えている。その言葉を大切にしていることも、ミノリの写真が嫌というほど教えてくれる。
俺を撮りたがる理由はなんなのか。気づいてしまったら最後、ミノリの行いを頭ごなしに拒否しきれない。
少しふやけた指が俺の唇の上を這っていく。塩素の匂いが、あの人の匂いを上書きする。
「ハル。俺を見て」
熱を孕んで潤むミノリの瞳が、俺の判断を鈍らせた。
視界が大きくぼやけた瞬間、唇が触れ合う。
ただ押しつけるだけのキスはすぐに離れ、状況を整理する間もなく次のキスがやってくる。
執拗な口づけのせいで息継ぎができない。
溺れてしまう。プールに入ったわけでもないのに。
俺たちのいるスペースへと雪崩れ込む厚みのある歓声と熱気は、徹底的に眠らせていたはずの興奮を呼び覚ます。
ミノリに、キスに、のめりこんでいく。
もっと、もっと、欲しくなる。
――ダメな子だね。
突然、夜野さんの声が記憶の奥底からよみがえった。
――ああ、そんなに「自分」を出すなんて。
――春輝は本当にダメな子だ。
毎日、毎日、毎日。いつからかそれは、俺に「愛してる」と囁いたその口で、昼夜の境もなく放たれた。
ある意味子どものように純粋で、神様よりも慈悲がないあの人は、自分が許せないものを絶対に許さない。
「自分」を持つからいけなかったんだろう。お人形のようにただ言うことを聞いていれば、いつまでもあの人のお気に入りの贋作でいられたのに全うできなかった。
「自分」を殺しきれなかった。
なんてダメな子なんだ俺は。
そうやって与えられたレッテルは呪いで編んだ縄のように、夜野さんから離れた今も俺を蝕んでいる。
「っん……ふ、っ」
ぬるりとした感触に襲われる。舌を唇の隙間から差し入れ、ミノリがこちらの粘膜をいじり出す。
ミノリのキスは、いい。遊び慣れていそうな雰囲気に反して懸命だ。余裕なく舌で愛撫され、体ばかりが先行して悦ぶのがわかる。
だけど、ブレーキがかかる。没頭しそうになると何度だって強烈に働いて、挙げ句の果てには全身が小刻みに震え出した。
吐息の間隔が狭まる。苦痛に顔が歪んでいく。生まれようとする快感は理性に許されることなく、体の末端から物悲しく抜け落ちていった。
「ねえ、ハル」
ようやく解放される。
震えを悟られないために、すぐに身を引いた。
湿気混じりの夜風が吹く。風が濡れた唇に当たって、さっきまであったミノリの体温を嫌でも覚えてしまう。
「俺たち、付き合っちゃおうか?」
本気とも冗談とも取れる調子で言うくせに、ピントは愚直なほど俺に合わせてくる。
「……一回キスしたぐらいで?」
調子に乗るなよ。わざと突き放すように言って、苦笑する。
「やっぱりダメ?」
大げさなほどミノリが肩をすくめた。
「わざわざ俺じゃなくてもいいだろ。おまえ、モテるんだろうし」
「ハルのこと、本気だって言ったら?」
「隠し撮りするような男の言葉を信用しろって?」
痛いところを突かれて、ミノリは堪えるように押し黙った。
気づけば俺たちの写真が、一面に散らばっている。二人分の量がぐちゃぐちゃに入り混じってしまったというのに、俺の後ろ姿の写真だけはどうしたってすぐに目についた。
「次、俺を撮りたくなったときはちゃんと宣言しろよ。撮る、って。隠し撮りされるよりはマシだ」
言い放つと、瞬く間にミノリの腕の中へと閉じ込められた。人肌に息を詰まらせながら、それでも抱きしめ返してやれない自分に嫌悪する。
「ごめん。ちゃんと言う。次は言うから、だから……俺から離れていかないで」
大きな歓声が上がる。パフォーマンスが終わったらしい。他人の功績を称賛する、乾いた拍手がいつまでも鳴り止まない。
プールサイドの片隅。身を硬くしながらも、秒針よりも速いミノリの心臓の音にじっと耳を澄ませていた。
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