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第三章 答えあわせ 1

 大人になってからというもの、俺にとっての夏の風物詩といえば、幼なじみと集まって行うそうめんパーティーだ。 「今年も安宅さんちのともちゃんとほのかちゃんがやって来ましたよー」  まだ完全には太陽が沈みきらない時間に、インターフォンが鳴った。早速出迎えれば、ともちゃんは恒例の桐箱を抱え、ほのかは調味料やら薬味を買い込んだレジ袋を持っている。 「暑いのに、毎年俺の家まで来てもらってごめんな」 「いいの。ハルちゃんの家が一番駅から歩かなくて済むんだし。というか、毎年私たちのほうがお邪魔してる立場なのに、ハルちゃんが謝るのは違うでしょ」 「そうそう。ほら、早く冷房の効いた部屋にあがらせろ。俺、もうちょっとで溶けちゃう」  ともちゃんの言葉に小さく笑いつつ「狭い部屋だけど」と前置いてから二人を招き入れた。  安宅家はこの時期になると、お中元にそうめんを贈る習慣があるんだという。ともちゃんたちが一人暮らしを始めてからは、それぞれの家に桐箱に包まれた高級そうめんを一箱ずつ。  いくら乾物で賞味期限が長いといっても、毎年のこととなると飽きが生じて消費しきれないらしい。 「ハルちゃんがいてくれて大助かりだよ」 「俺にとっては贅沢な悩みだけどな。高いやつだけあってやっぱり美味いし」 「いいねえ、来年もその調子で頼む。だから絶対俺たちのそうめん以外食うな。んで、飽きるな」 「……自分勝手にも程がある」  普段ろくに使わない鍋や器具を棚から引っ張り出すと、ともちゃんがスポンジを使って丁寧に洗ってくれた。  独身者向けのキッチンは、男二人が並ぶと作業が滞るレベルの狭さだ。俺と同じく自炊をしないほのかは、ともちゃんから戦力外通告を受け、冷房の効いた部屋で動画視聴に勤しんでいる。  茹で上がった一皿目のそうめんを手に部屋へ戻ると、ほのかがなにやら楽しげに話しかけてきた。 「ねえ、ハルちゃん。写真って、あれから続けてる?」 「え?」  動画から流れる音のせいで聞こえなかったと思われたのかもしれない。動画を停止させてから、ほのかが改めて俺を見る。 「ほら。だってあそこに新しく何枚か増えてるじゃん。あれ、ハルちゃんが撮ったやつじゃないの?」  壁に貼りつけた写真たちに、ほのかがちらりと視線を送った。  確かに写真は以前より増えた。でもその増えた数枚の写真は、この前ミノリが使い捨てカメラで撮ったものばかりだ。  ナイトプールから帰る際、ミノリは自分が撮ったものを持って帰ろうとはしなかった。俺の後ろ姿が映った一枚以外、どれもいらないのだという。  気持ちはわからなくもない。だけどこだわるあまりに写真を消したくなる俺と、ミノリのその執着のなさは、どうも質が異なるような気がした。  ミノリは露骨なまでに、結果に興味を示さない。それは一種の諦めのようでもあったし、自分自身に深く失望しているようにも思える。  俺からすれば、ミノリの写真はどれも妬けるほどに良作だ。捨てておいて、とミノリから押しつけられたものの、俺の部屋にこうして居座ることになった経緯をうまく説明できる自信がなく「お気に入りが増えたから」とだけほのかに告げた。 「でも写真は、まあ、続けてる。趣味の範疇だけど」 「だってさ。お兄ちゃん、聞いてたよね?」  ほのかの瞳に誘導され、部屋と廊下を繋ぐ出入り口に視線を向ける。そこには茹でたそうめんと食器を抱えたともちゃんが、困ったような笑顔で立っていた。 「あのな、ほのか。もうちょっと自然な振り方ってもんがあるだろ」 「お兄ちゃんが言う『自然』を待ってたらいつになるかわからない。前回のモデル撮影のこともハルちゃんになかなか切り出せなくて、何か月もぐるぐる悩んでたし」 「そりゃあ、春輝のことを思えば慎重にもなるよ」  水で割っためんつゆの入った器にコップ、箸、それから薬味。これ以上並べるものはないところまで、ローテーブルの上に並べても、ともちゃんは話をなかなか切り出さない。神妙な顔つきが、ますます険しくなっていく。  コップに麦茶を注ぎながら、ほのかが焦れったそうに口を開く。 「ねえ、お兄ちゃん。最後に決めるのはハルちゃんなんだから。ハルちゃんの人生までお兄ちゃんが勝手に背負ってどうするの。その背負ってほしい相手も、ハルちゃんに選ぶ権利があるんだってば」  妹に諭され、ともちゃんはようやくわずかに顔を緩めた。 「そもそもわたしたちが勝手に心配してるだけなんだよね。ハルちゃんに頼まれたわけでもないのに」  夜野さんが運営するスタジオを離れ、定職にもつかないまま、ひたすら家に閉じこもっていたあのころ。  二人だけが、俺を外の世界をつなぐ唯一の存在だった。  ほのかが言うように、心配してほしい、と頼んだわけではなかった。  俺からは事情を一度説明したきり。二人はそれ以上俺から聞き出そうとはしなかった。  それからは、いきなり家に押しかけ同然でやって来ては、たこ焼きパーティやら鍋パーティーやらと勝手に俺の部屋で開催するようになった。サブスクのランキングの中から適当に選んだ映画を、何本も観てはぐだぐたと感想を伝えあい、朝日を見たこともある。  そんな何気ない一日が積み重なって、俺は今またカメラを握ろうとしている。 「なあ。ともちゃん」  ともちゃんが情けなく眉を下げて、俺を見た。  特にともちゃんは、昔から人の痛みを必要以上に引き受けすぎるところがある。俺の知らないところで自分ごとのように悩んでいたに違いない。 「言いたいことがあるなら言えよ。聞くだけ聞いてやるから。そうめん、早く食べたいし」 「おーい、結局腹が減ってるだけってか?」  ともちゃんは肩で大きく息をすると、あのな、と停滞しかけた空気を割くように話し出した。 「俺の店の二次会パーティーで、撮影をしてみる気、ない?」 「新郎新婦とか招待客相手にやる、当日のスナップ撮影ってことか?」 「そう。やっぱり当日の記録を残したいって要望が前から結構あってさ。今は外注してるんだけど、パーティーの予約も増えてきたし、春輝さえよければおまえに積極的に仕事回せたらな、って」  あとこれは、幼なじみ価格なんかじゃないぞ。ともちゃんが慌てて後付ける。兄の狼狽っぷりに、ほのかが声をあげて笑った。 「もちろん今すぐの返事じゃなくていいんだ。ただ俺もほのかも、春輝がカメラを握る姿をずっと見てきた。しかも子どものころから。だからもしこれからも写真を続けるなら、そんな春輝を応援してやりたいって思ってるんだ」  ほのかが俺の視界の端でうなずいた。この持ちかけは、二人の総意ということらしい。  カメラで飯を食っていく。  そんな大それたこと、俺にはもう二度できないと思っていた。正直、今も強く思ってる。一度でも距離を置いた事実は覆らない。  だけど幼なじみに期待を寄せられて、自分の根幹が揺らいでいることも、頭ごなしには否定できなかった。 「というわけで、今日の話し合いはこれでおしまいね」  ぱんっと小気味のいい音がする。ほのかが両手を勢いよく合わせた音だった。 「ハルちゃんだってすぐに返事が出せるわけでもないでしょ?」 「……うん。考える時間は、ほしい」 「ね。お腹も空きすぎたし。お兄ちゃん、ハルちゃんの冷蔵庫にビール冷やしてあるから三人分取ってきて」 「なんで俺!」 「いいよ、俺が取ってくるから」  そう告げて、腰を浮かせたと同時にインターホンが鳴った。  誰だろう。これ以上の来客の予定はないはずだった。  二人に目配せして、玄関に向かう。  ドアをゆっくり開くと、そこには額に汗を浮かべたミノリが立っていた。 「ハルに会いたくなって来ちゃった」  突然の訪問客は、悪びれることなく、涼し気な顔で笑っている。夏盛りの外の風とエアコンの効いた室内の空気がぶつかって、玄関の一角だけが生ぬるくなっていく。 「せめて事前に連絡ぐらい……」 「入れたよ」  間髪入れずにミノリが言う。 「でも既読にすらならなかった」  そういえばともちゃんたちが来てから、スマホは一度もチェックしていない。でも返事がないのなら、諦めるという選択を取るんじゃないのか普通は。  どうしたものか、と悩んでいると「誰かいるの?」とミノリの目線が下がる。狭い土間に俺の足のサイズより大きなスニーカーとパンプスがあれば、今更取り繕ったところでわかるというものだ。 「ちょうどともちゃんたちが来てる」 「あー、それじゃあ、俺はいらない?」 「……おまえのその聞き方、前から思ってたけど卑怯だ」  出会って間もないころ、ほのかを交えた撮影のときもそうだった。  ――ねえ、ハル。俺は用済み? いらない?  出会ってから、俺は一度だってミノリを「いらない」と思ったことがない。そう聞かれると、選べるどころか答えは強制的にひとつだけになる。  胸のつっかえを持て余しながら軽く睨んでみても、ミノリは小首を傾げて風のように笑うばかりだった。 「春輝、さっきからなに言い争って……っておいおい、なんだ、ミノリじゃん」  なかなか戻ってこない俺を心配したのか、ともちゃんが顔を覗かせた。ミノリの姿を認識した途端、駆け寄っては「久しぶり」と再会を懐かしむ。  ミノリと対面するのは、先日俺と一緒に『トレモロ』へ行った以来らしい。 「ミノリがここにいるってことは、春輝がレンタルしたのか? それなら前もって言っておきなさいよ、水くさい」 「違うよ、ともちゃん。俺が勝手に押しかけたんだ」 「え、勝手に?」 「そう。勝手に。ハルからレンタルされるのを待ってると、いつになるかわからないから」  ともちゃんはすぐ腑に落ちたらしい。俺に視線を投げるなり「春輝の指向、ミノリは知ってるの?」と真剣な声色で問いかけてきた。 「知ってる。俺がゲイだってことは」 「なるほど。じゃあ、あれだ。ミノリもまた、春輝に噛まれて癖になっちゃった一人ってことだ」 「なんだよそれ、俺だって見境なく噛みつくわけじゃ……」 「はいはい、わかってるよ春輝くん。というか立ち話もあれだ、ミノリも食べていけよ。高級そうめん、桐箱入り」  桐箱入り。そうつぶやいたミノリの目が玄関の照明を受けて、光り輝いている。

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