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第三章 答えあわせ 2-2

 そのまま覆いかぶさると俺の手にミノリが指を絡ませては、離さないと暗に伝えてくる。 「ハルの体、軽いね。いつもあんまり食べないし、痩せすぎなんじゃない?」 「太れないし食べられないんだよ。これでもがんばった時期はあるけど」 「けど?」 「気持ち悪くなって、次の日から余計に食べられなくなる」 「はは、それじゃあ仕方ないかあ。俺は今のままのハルをひたすら好きになるだけだから」  一段と繋いだ手に力が込められた。  これから何をされるのかなんて、ミノリの熱っぽい瞳が答えのようなものだった。  唇が重なる。でも、すぐに離れていく。  まんまと渇きを植えつけられて、物欲しげに喉を鳴らしてしまう。努めて冷静であろうとする頭が、みっともない、とそんな俺を責め立てる。 「キスされるの、嫌?」  俺の不均衡さに、ミノリはもう薄々気がついているのかもしれない。  ナイトプールの一件があってからというもの、ミノリは気ままに会いに来るようになった。なし崩しのように触れ合っているうちに、いつからかミノリは毎度こんなふうにお伺いを立てるようになっていた。  困ったような上目遣い。天性の人たらしだ。 「嫌じゃない」  本音だった。でもそれ以上の答えは、理性に阻まれて出てこない。 「よかった」  ミノリはわずかに目元の強張りを解くと、口づけを再開した。  あの夜にキスを許してしまった手前、ミノリのキスを拒めない。  あっという間に繋がりが深くなる。ざらりとした舌が絡まり合って、くちゅくちゅと頭の中でこだまする水音が俺を徐々に水没させていく。 「……っ、は……」  息継ぎがままならない。苦しさと甘さが交互に押し寄せる。  こんなの続けるべきじゃない。レンタル関係をとっくに越えている。  俺にそんな資格はないとわかっているのに、自らほどけない。  長く執拗だった交わりが、軽いリップ音とともに解かれ、溜まりに溜まった唾液をようやく飲み込んだ。  大丈夫? そう訊ねられたわけでもないのに、髪を撫でる手からミノリの声が伝わってくるようで、感情の定まらない胸が、ただ軋む。 「このベッドの上で横になると、ちょうど視界に入るんだね」  やがて抱きしめながら、ミノリがしみじみと呟いた。  狭い腕の中で呼吸を取り戻しながら振り返れば、すぐに合点がいく。  俺たちの視界を占めるのは、壁に一面に貼った写真の数々だ。  カメラを握れずにいたあのころ、こうして横になりながらぼんやりと眺める時間が、唯一自分らしくいられたのを覚えている。  自分のことはどれだけ「ダメな子」だと罵られても構わない。でも俺が好きになった写真たちだけは、貶されてたまるか。  そんな反骨精神にも似た思いだけを抱いて、ここまで必死に生き抜いてきたように思う。 「あ。俺の撮った写真、貼ったんだ」  ミノリの声がわずかに上擦る。先日使い捨てカメラで撮った写真のことだった。 「どこかの誰かが持って帰らないから仕方なく。捨てるのも違うと思うし」 「もしかして、気に入ってくれた?」 「眠る前に見るぐらいには」 「うわ、なにそれ。めちゃくちゃ妬ける」  顔は見えないのに、ミノリが露骨に唇を尖らせる映像がくっきりと脳裏に浮かんで苦笑した。 「ハルが眠る瞬間の景色に、あれがあるのはずるい。写真より目の前の俺を見て眠ってよ」 「おまえの嫉妬するポイントは謎すぎる」  そうかな。ミノリが小さく笑う。そうだよ、とミノリよりもっと小さく笑い返す。 「あの写真たち、ハルがめちゃくちゃ大事にしてるってのは見ててわかるから。嫉妬、するよ。やっぱり」  腕の拘束が殊更強くなった。  びく、と体が恐れを抱いて跳ねる。そんな俺を宥めるように、ミノリが俺の背骨に頭を擦り寄せては、ごめん、とつぶやいた。 「最近自分のことがよくわからないんだ。ハルといると自分らしくいられなくて」 「余白、残しておくんじゃなかったのか?」 「最初はそのつもりだったよ。でも余白があるといつまでも春輝に手が届かない気がして、どんどん追いつめたくなってる。焦るんだ」  そう言って半ば強引に俺を振り向かせると、抵抗する間もなくミノリの唇が素早く一度落とされる。 「俺のこと、嫌いになった?」 「嫌いならもうとっくに追い出してる」 「だったら今度、ハルの休みの日にデートしよう」 「レンタル彼氏として?」 「ハルはいじわるだ。そうじゃないって、もうわかってるくせに」  今度は喉仏の上に、キスをひとつ。思わず腰を浮かせながら、嚥下する。 「今すぐ約束して、俺を安心させてよ。そうしなきゃ本当に毎日来るかも」  ここではっきりと返事をしなければ、本当に実行されそうな気迫を肌から感じ取る。  素直な一面を持っていながらも、譲れないものがあると途端にこうだ。わずかな付き合いの中で、ミノリ自身の頑なさはもう身に染みていた。 「わかった。デートしてやる。してやるから、毎日家に来るのだけは勘弁しろ」  オニキスのピアスが佇むミノリの耳を軽く引っ張った。重く塞がっていた栓が弾け飛んだように、目の前の表情に光が灯る。  俺なんかの言葉で一喜一憂する年下の男を、初めてかわいいと思ってしまった。 「遊びに来ること自体はいいんだ?」 「今更聞くことなのか、それ」 「ねえ、またここに来ていい?」 「……いいよ。それも許す。だからそろそろ解放しろ」  許可した途端、唇に甘く噛みつかれる。何度だってうれしそうにキスをして、ミノリの高揚感が喉の奥へと湯水のように流れ込んだ。  俺にはこんなにも熱心に注げるのに、なぜ写真にはその熱を注いでやらないんだろうか。  そんな疑問が浮かんだが口にすることはなかった。  しかし遠ざかっていくミノリの背中を玄関から見送った後も、その謎はしつこく俺に絡みついてくる。  シャワーで洗い流そうと試みても、なかなか消えてはくれない。  酒でも飲んで気分を切り替えようと風呂上がりに冷蔵庫を覗くと、ともちゃんたちが差し入れてくれた缶ビールがいくつか残されていた。  泡まじりの苦い炭酸で喉を癒しつつ、写真を貼った壁の前に立つ。  ミノリの撮った写真をそっとめくれば、その下に隠れていたのは、被写体として印画紙に取り込まれたミノリの姿だ。  無邪気なピースサイン。  どこか照れたような等身大の笑顔。  レンタル彼氏という仮面の下を上手く切り取れた自分が誇らしいのに、醜く湧き上がるのは、誰にも見せたくないという幼稚な独占欲だ。  一度でも情を寄せると、自分が扱いづらくなって困る。  夜野さんと出会ったばかりのころも、俺はよく困り果てていた。  片思いや一方的に求められるだけの関係を繰り返し、内側に踏み込む恋愛をしてこなかった俺にとって、十歳も上の夜野さんは経験にあふれた大人だった。  俺をどろどろに甘やかす術を持っていて、甘え慣れない俺を存分に困らせ、あっという間に俺の世界は夜野さん一色になった。  それを幸せだと思えるうちはいい。  でも永遠に続くものなんてこの世にはなく、夜野さんとの関係だって、最後は歪んだ愛の下僕と化した。  人に向ける独占欲の存在を知ったのもそのころの話だ。  俺にとっては、目を背けるべき感情そのもの。  ましてやミノリに向けたところで、今の俺ではこの気持ちを上手く乗りこなせずに溺れるだけだろう。  ああ、早く。さっさと飽きて、熱の矛先を変えてくれたらいい。俺に注ぐだけ無駄だと早く気づいてほしい。  底に残ったビールを勢いよく煽る。  やがて湿っぽいため息が部屋に落ちて、誰にも知られることなく露と消えていった。

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