24 / 29

第三章 答えあわせ 3-2

「お疲れさまです」  深めのキャップを取って、男がミノリに会釈した。  言動の節々に勢いがあり、それを裏付けるような若々しさが口角をきっちりと上げた一瞬の笑顔から漂っている。 「あー、なんだ笹川か。キャップかぶってるから気づかなかった」  顔見知りであることは間違いなさそうだが、それにしてはミノリの声色はやけに平坦だ。 「僕もですよ。まさか実さんが貴重な休みを使って、ギャラリーに足を運んでるなんて思わなくてびっくりしました」  笹川と呼ばれた男がキャップをかぶり直すと、すぐに不自然な沈黙が生まれた。笹川さんの視線がそろそろと俺に注がれ、誰、と問いたそうに今度はミノリへと移ろいでいく。 「あの、この方って?」 「うん。この人は春輝さん」  ミノリの紹介を受け、笹川さんは「どうも、はじめまして」と俺にあいさつをした。しかしあまりにざっくりとした紹介に、笹川さんもそれ以上会話を繋げられないらしい。  再び沈黙が落ちる。  それに笹川さんが現れてからというもの、ミノリの口はなんだかいつもに比べて重たげだ。必要以上の言葉を意図して放たないようにしているのかもしれない。  漂う気まずさに耐えかねて、とうとう俺の方から「あの」と男に話しかけた。 「今日はミノリさんと遊ぶ約束をしていて、俺たちはたまたまここのギャラリーに入ったんですけど、笹川さんも偶然だったんですか?」 「あ、いえ。僕、主催者の大学時代の後輩なんですよ。在廊時間を確認せずにふらっと来ちゃったんで、後で本人に怒られそうなんですけど。でも春輝さんはすごいですね、よくこの人を連れて来られたというか。実さん、僕が個展に誘っても絶対嫌がって来てくれないのに」  思わず、閉口した。  肝心のミノリは、まるで熱のない人形のように表情を潰して立ち続けている。  ぞく、と冷気にも似たものが、一瞬にして背中を駆けた。  ミノリの持つ普段の静けさを気にしたことは一度もないのに、このときばかりは必要以上の恐れを抱いた。 「ミノリさんって呼ぶからには春輝さんは『レンタル彼氏』のお客さんなんですよね? だから実さん、個展に来たんですか?」  金さえ払えば、自分の嫌なことでもするのか、と。ミノリの新たな一面を見た驚きと新鮮さが、男の台詞には露骨に混ざっているようだった。  確かに俺たちの関係の始まりは『レンタル』だ。でも今日は『レンタル』じゃない。  俺のために我慢して個展に付き合ってくれたんだろうか。  無表情を貫く横顔に向かって、一思いに聞いてしまいたかった。だがミノリと笹川さんの関係性もわかりかねる以上、俺が堂々と声をあげられる空気でもない。  完全に蚊帳の外だ。 「笹川」  久しぶりにミノリが口を開いた。同時に笹川さんが姿勢を正す。  確かな上下関係を感じ取り、俺にまで笹川さんの緊張が伝わってきた。 「俺はね、自分がやりたいことをやってるだけだよ。個展を見たのも、俺が見たかったから。それに『レンタル彼氏』だって立派な仕事だろ?」  ミノリが笑う。目元は動かすことなく、口角を上げて。  思うところがあったのか、笹川さんがミノリに食い下がった。 「なら、本業のフォトスタジオの仕事はやりたいことじゃないってことですか? 手を抜いてるような人が、うちの稼ぎ頭ってことなんっすか? 冗談きついっすよ。『レンタル彼氏』なんて早く辞めて、本業一本に絞ればもっと売れていくのにってオーナーも……」  笹川、と。たしなめるように名前を呼んだその声は、ナイフのように鋭い。  怒っているのか、もしかして。  ミノリから初めて感じる類いの感情に、こちらの息が詰まりそうだった。 「君がろくに会ったこともない人の前で、俺のプライベートを勝手に暴露するのはやめてくれない?」 「あ……」 「君がいいやつだってわかってるし、俺が『レンタル彼氏』をやるって言ったときもバカにはしなかったから信用もしてる。でも、そういう無神経なところは直した方がいい。俺が嫌になる前に」  笹川さんがきつく唇を噛みしめる。一方で、ミノリは表情を少しも変えることはなかった。  夏を名残り惜しんだ秋風が、静寂を保つ俺たちの間をすり抜けていく。 「……すみません。言いすぎました」  やがて笹川さんは消え入りそうな声で告げると、キャップを取って、ミノリに頭を深々と下げた。 「うん。わかってもらえてよかった」  その素直さに免じてなのか、ミノリも深追いする気はないらしい。 「せっかくのお休みの日に邪魔して申し訳なかったっす」  キャップを深くかぶり直し、来たときと同じように駆け足で立ち去っていく笹川さんの背中に、ミノリは「また明日ね」と告げた。その声からは、さっきまであった剣呑さが見事に消え去っている。 「ごめん、ハル。立ち話に付き合わせて」  次、どこに行こうか。  謝罪のつもりなのか、俺の頭をゆっくりと撫でるミノリの手つきは、普段となにも変わりはしなかった。  変わらないことが、今、猛烈に悔しいと思った。  『レンタル彼氏』と『普段のミノリ』の間には明確な隔たりがあることに気づいてはいても、そこに踏み込むにはそれなりの覚悟と勇気が必要だった。  慎重に。冷静に。ミノリにのめり込もうとする俺を何度となく押さえつけてきた。  でも、限界だ。  『レンタル彼氏』というルールを破り、俺たちは会ってしまっている。押さえつけるための建前が、もうどこにも見当たらない。  聞きたい。ミノリのことが、もっと知りたい。知らないところはなくていいとすら願うのは、あまりに傲慢すぎるだろうか。 「なあ、ミノリ」 「なに?」 「ゆっくり、話がしたい。ミノリと。どこでもいい、静かな場所で、二人で」  ミノリの手が俺の髪から離れ、下へと滑り落ちては、俺の人差し指に自身のそれを絡ませてくる。 「いいよ。俺の家、来る?」  絡まるミノリの指は、わずかに汗ばんでいた。

ともだちにシェアしよう!