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第三章 答えあわせ 4-1
デートの待ち合わせに利用した駅から、五駅ほど離れた場所で電車を降りた。
『レンタル彼氏』として会っていたら、俺は絶対にミノリの家に行くことはなかっただろう。だけどルールがないというだけで、こんなにも俺たちの関係は未知数で、無秩序になる。
結局ランチを食べなかった俺たちは、下車した駅近くのコンビニで適当にカップラーメンとおにぎりを買い込んだ。
道すがらにいろいろくだらない話をした気がするが、あまり多くは覚えていない。
「住んでるとこ、ここね」
ミノリが指を差したのは、普遍的な五階建てのマンションだ。
道路に面した位置にベランダがあって、ミノリの部屋にあたるそこには、干しっぱなしの洗濯物がいくつか風に揺られていた。
「……なんか、普通だ」
「普通ってなに」
「ごめん、なんかミノリのことだからもっとデザイナーズマンションとか、そういうやつオシャレなやつを想像してた」
「住めたらどこでもいいでしょ。雨漏りしなければなんとかなるよ」
苦笑しながらミノリが鍵を開ける。
五階建ての最上階。特別景色がいいわけでもないから、と前置いてミノリは俺を室内へと招いた。
白とグレーに包まれた、色彩の薄い部屋だった。
俺の部屋よりわずかに広いぐらいのワンルームだった。カーテンはグレー、そして収まるべきところに収まっているだけのベッドと、パソコンデスク。
一人がけの白いソファーの上には洗濯物や着替えが積まれ、本来の用途から横道に逸れている。
写真というワードと唯一関連付けられるものは、部屋の片隅に雑然と置かれたカメラバッグぐらいなものだろう。
俺の知るミノリの写真は、もっと色彩と情緒にあふれている。まさにその正反対の位置するような部屋の造りを前にして、例えがたい感情に飲まれながら、部屋の真ん中で呆然と立ち尽くした。
「お湯、すぐに沸かそうか? お腹空いてるよね?」
キッチンのほうからミノリの声が聞こえてくる。
「俺も手伝う」
ミノリの隣に立って、カップラーメンを包むビニールを剥がした。
どこまでも深く意識が沈むような、重苦しい沈黙が俺たちを包む。窓の外から響いてくる小さな轟音は、飛行機のエンジン音だろうか。
やかんを乗せたコンロに、やがて火が灯った。
効率よく燃える、青い炎だ。俺には生み出せない、純度の高い炎。
「ごめんな、ミノリ」
「突然どうしたの」
ミノリがぐっと手を伸ばし、換気扇のスイッチを押した。古く、ほこりのついた換気扇が、唸るように回り出す。
「その、無理やり付き合わせたんだろ。個展」
「あ、笹川の言葉、気にしちゃった?」
図星だった。息を詰まらせる俺に、ミノリが苦笑する。
「謝らなくていいよ。案外楽しかったから。っていうか楽しめたんだ、久しぶりに」
久しぶりに?
ミノリの言葉の選択に引っかかりを覚えながらも、続きを黙って待つ。
「写真って、撮る人の写し鏡みたいなところあるだろ? 撮ったそのとき心境とか世界の見方とか、ちょっとした気持ちの揺らぎも、良いも悪いも全部反映されていく。で、見る側も余裕がないと、写真から受ける感情に引きずられて苦しくなる」
「だから、笹川さんの誘いを断ってたのか?」
ミノリがじっと炎を見つめながら、かすかにうなずいた。
「でも今日はハルと一緒だったからかな。本当に久しぶりに楽しめた」
「……そっか。おまえに無理させてないならよかった」
「それにしても、ハルが俺のこと知りたがってくれるの珍しいよね。まあ、笹川が勝手に着火しちゃった感じだけど」
ほかにもまだ俺にいろいろ聞きたそうな顔してるよ、ハル。
鼻から抜けるようなミノリの笑い声が狭いキッチンで響いた。
「いいのか、聞いて」
「いいよ。興味持ってもらえてうれしい」
俺を見つめるミノリの視線は、たじろぐほどにまっすぐだ。ひと息飲んでから、それじゃあ、と口にする。
「実、って?」
「俺の本名。それをもじって『レンタル彼氏』をしてるときはミノリって名乗ってる」
「だったら、本業は別にあるってことなんだよな?」
「うん。もともとこっちは副業のつもりで始めたし」
お湯、沸いたね。そう言うとミノリはぺりぺりとカップラーメンのふたを剥がし、湯をカップラーメンの中へと、勢いよく注いでいく。白い湯気が俺たち二人の間をゆらゆらと漂った。
「なあ、おまえの本業は」
「ようやく聞いてくれる気になったんだ? いつハルに聞かれるのかなあって期待半分、不安半分だったけど。いざ聞かれるとちょっと緊張するね」
蒸らしは互いに三分。割り箸と自分のカップラーメンを重ねて持ちながら、部屋を移動する。
「フォトスタジオの平社員だよ。笹川とは、そこの先輩後輩。今日はオーナーとその奥さんの結婚祝いらしくって、スタッフは全員休み」
笹川さんが言っていた内容との矛盾は感じられなかった。
ミノリをレンタルするとき、平日に予定の空きが偏っていたのもスタジオ勤務なら納得できる。土日はクライアントの依頼によって不定休になりがちだ。
「そうか、ミノリはずっとフォトグラファーだったんだな」
「意外?」
「……そんなわけない。心当たりがありまくりだ」
ミノリは自ら多くを語らない。語らないからといって不誠実とイコールじゃない。そもそもミノリは出会ったころから嘘をつくような素振りはなかった。
これまでのミノリの言動や、プロを思わせる写真の撮り方も、現役のフォトグラファーというなら全ての辻褄が合ってくる。
俺がかつていた世界。もう二度と戻れない場所に、ミノリは立っている。
「あのさ、スタジオって見学できるのか?」
ローテーブルに置いたラーメンをわけもなく眺めながら訊ねた。へえ、とかすかに驚きを混ぜた返答がある。
「見学、したいの?」
「できればミノリが撮影する時間帯がいい。できるなら、だけど」
「オーナーに言えば多分できると思うけど。でも、なんでか聞いてもいい?」
ミノリの顔から笑みがすっと引いた。
「俺も、昔はそうだったから」
「昔?」
「俺も昔、スタジオで働いてたから。久しぶりにその、そういう空気に触れてみたいというか」
ちょっとぐらい懐かしんじゃいけないのかよ。
茶化すように言ってみたが、ミノリは困ったように眉根を寄せるとそのまま黙り込んでしまった。
理由はわからないが、あまり気乗りしないのかもしれない。
顔見知りの人間に職場見学される気まずさは、学生のころ、母親が熱心にやってきた授業参観のときの心境にも似ている。
それを思えばしつこく迫ることも憚られ、考え耽るミノリの横顔をしばらく見ていた。
やがて三分を知らせるタイマーがミノリのスマホから鳴り響く。
「よし、食べるか」
声だけはせめてと平常を装った。ミノリの返事を待たずしてカップラーメンのふたを開けた瞬間、しょうゆと動物の濃い脂の匂いが胃袋を刺激して、ぐう、と俺の腹が見事に鳴いた。
「……ごめん」
体の外までしっかりと聞こえていたらしく、ミノリの射るような視線が痛い。
恥ずかしさのあまり割り箸を持ったまま固まっていると、ミノリが苦笑した。
「ハルも一応はお腹空くんだね」
「当たり前だろ。人間だし」
「ちょっと安心した。俺といるとき、本当にろくに食べないから」
「それは……」
鍵穴が噛み合うように、互いの視線がぶつかった。
もともと食が細いことに変わりはない。
でも理由はそれだけじゃないんじゃないのか。
ああ、こんなときに限って答えに辿りついてしまう自分が心底憎らしい。落ち着きを失っていく心臓が答えのようなものだ。
出会ったときからもうずっと俺は意識していたんだろう。
ミノリをそういう目で。食欲を失うほどに。
「別にいいだろ。ほら、早く食べるぞ。伸びちゃうだろ」
気恥ずかしさをごまかすために麺を箸で掴もうとして、ミノリにその手をやんわりと捕らえられる。
「なんだよ」
ミノリの瞳に、したたかな炎を垣間見る。ガスの青にも似た純度の高いそれは、俺の思考を焦げつかせる。
「なんか今、すげえキスしたい」
「……は?」
呆気にとられた俺の口をさらわれる寸前、眼前に迫るまつ毛の長さに息を呑んだ。
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