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第三章 答えあわせ 5-1
ミノリに教えてもらった住所を頼りにたどり着いた雑居ビルは、駅の西口から徒歩五分ほどの位置にあった。
様々なテナント名がぎゅっと凝縮された案内板の中から『スタジオ LUMINA 』を探し出し、一気に三階まで階段で駆け上がる。
足取りはなんだか軽い。
ちょうどハルが休みの土曜に撮影が入ってるから。
そう言ってミノリからスタジオ見学に誘われたのは、デートしたあの日から数日後のことだった。
三階全体がミノリの所属するスタジオらしい。一つしかない玄関ドアに真鍮製の表札が貼られていた。
インターホンを押そうとして、ふと思い直す。たった三階分の階段を上っただけで息が跳ねた現状が、急に恥ずかしくなってしまった。
しかし呼吸を整えているうちに、無情にも内側からドアが開く。
「あ、春輝さん。どうも」
「……どうも」
ミノリの後輩、笹川さんだった。
今日は真っ青なニット帽をかぶっている。前回はちょうどつばの影に隠れてあまり見えなかったが、笹川さんは切れ長の目つきが特徴的な人だった。
しかし俺を見るなり表情を笑顔へ塗り替え、強面な印象が一変、後輩らしいあどけなさが滲み出た。
「ここまで迷いませんでした?」
とっつきやすそうな声の調子に、ほっと胸を撫でおろす。
「特には。駅からも近いし、アプリ見ながらなんとか」
「ビルの入り口で待ってろって実さんから言われてたんですけど、ひと足遅かったっすね。申し訳ないです」
どうぞ、と案内されるがままにスタジオへと入った。
「オーナーの奥さんが通販専門のアパレルブランドを立ち上げた人で、基本はその下請け的な感じですよ。物撮りとか、ほかにはタイアップ用のフード撮影とかもありますけど」
「そうなんですね」
「あ。これは無神経に喋ってるわけじゃないですからね? オーナーから会社案内はしっかりしとけ、って言われたんで」
このあいだミノリに注意されたことを、彼はまだ気にしているらしい。笹川さんがうなじを掻きながら苦笑して、俺もまた小さく笑う。
笹川さんに案内されたのは、パーテーションで囲われた打ち合わせ用のスペースだった。
「今ちょうど撮影ルームがセッティング中でバタバタなんです。キリのいいタイミングで見学してもらうんで、もうちょっとここで待機でお願いします」
「あ、はい。忙しいときにお邪魔してすみません」
「気にしないでください。実さんの大事なお客さんなんで。なんか飲み物持ってきますね」
笹川さんがパーテーションの奥へと消えていく。
漠然と立っていても仕方がない。肩の余計な力を抜いて、とひとまず四人がけのテーブルの下座にあたる椅子に腰を下ろした。
スタジオのある方角からは、常に話し声やら物音が細やかに聞こえてくる。ミノリの声が混ざってはいないかと耳を澄ませてみるが、幾重にも音が重なっていて判別はできない。
不思議と懐かしい気持ちに襲われる。そしてそう思うことに、驚きを募らせる。
スタジオ勤めをしていたころ、アシスタントとしての仕事に追われる日々だった。夜野さんから指示されたものをこなすので精一杯で、余裕なんか微塵もない。スタジオでしか味わえない機材の擦れる音やストロボのチャージ音は、いつも俺の緊張を煽る。
夢の世界にまで音が鳴り響いたときは、さすがに心療内科を受診しようかと迷ったほどだ。
なのに環境から身を置いた途端、懐古に浸る俺は随分と身勝手な野郎かもしれない。
「お待たせしました。これ、春輝さんのです」
テーブルの隅に置かれていた会社案内用のパンフレットにパラパラと目を通していると、笹川さんが小さなトレーを手にして帰ってきた。
「あれ。俺、アイスコーヒーがいいって笹川さんに伝えましたっけ?」
テーブルに置かれたグラスから漂う、コーヒーの匂いに目を丸くする。
「実さんにはそう言われてたんで、そのとおりにしたんですけど」
「ミノリの?」
「ほかのがいいっすか? アイスティーとかジュースもいくつかありますけど」
笹川さんの申し出にはすぐに断りを入れた。
直接ミノリにそうだと伝えた記憶はない。でも案外見抜かれるものなんだな。ちょっとしたくすぐったさに口元を緩ませながら、ストローに手を伸ばす。
「飲み物だとアイスコーヒーが一番好きです。いただきます」
今日ミノリが行っているのはECサイト用のモデル撮影なのだという。
「朝早くから撮影始まって、夜までにデータ完全納品の世界なんです」
「それはまた大変ですね……」
「そうなるとスタッフも体力勝負なところあるんで。だからオーナーもそういう仕事は実さんに回しがちなんです」
服飾は季節に大きく左右される商品だ。販促時期に遅れを取れば売り上げにも大きな影響を及ぼすとすると、この撮影のスピード感も理解はできた。
「ほかにフォトグラファーの方は?」
「メインを張れる人は当然オーナーと実さん、あと何人かいますけど、その中でも一番指名もらうのが実さんなんですよね。作業も速いし、指示も的確だし。すごいっすよあの人」
「へえ」
「ねえ春輝さん、なんかちょっと期待はずれって顔してません?」
唐突な問いに、思わず「え?」と声が漏れる。
「実さんの仕事聞いて、地味だなあ、って思いませんでした?」
「そんなことは……」
「だって|卯木実《うつぎみのる》といえばあの『|黎明《れいめい》フォトアワード』受賞者なんすよ? 春輝さんも知ってるでしょ?」
一瞬にして、全ての音がかき消える。
アイスコーヒーの中に投下したミルクが、マーブル模様を描きながら、ゆっくりとグラスの底に向けて沈澱していく。いつもならすぐにストローでかき混ぜるのに、どうしても手が思うように動かない。
黎明フォトアワード。卯木実。
ミノリの本名に似たハンドルネームを、俺は確かに知っている。
「五年前の当時、審査員たちがこぞって絶賛して。雑誌にも大きく取り上げられて……僕なんか『UTSUGI.M』って名前を忘れないために高校のノートに書き込んでましたよ」
笹川さんの披露する内容に、俺の知らないことなんて少しもなかった。
雑誌のことだって、当然知っている。
『UTSUGI.M』が残したたった数行の受賞コメントをしつこく読み込んだ記憶は、いつまでも俺の頭の中で甘苦く揺蕩うばかりだ。
輝かしい功績と存在をこの世界に記しておきながら忽然と消えた『UTSUGI.M』が、俺の知るミノリと同一人物なんてあまりに世間が狭い。
出来すぎている。作り話なんじゃないのか。
混乱状態の俺を他所に、笹川さんはいきいきと語る。
「正直僕は、ここに実さんがいるのはもったいないって思っちゃうんですよね。受賞歴あるなら、もっとやれることありそうなのにって。レンタル彼氏やるのもいいんですけど、そんなふうにフラフラしてないでもっと本気になってほしいのに――って、あ!」
口を閉ざしてしまった俺に何を思ったのか、ふと笹川さんは黙り込んだ。
それから露骨に青ざめて、俺の出方を伺うような上目遣いをする。
「……もしかしてこれも、言っちゃまずかったやつっすか?」
笹川さんは悪くないだろう。
こんなとこまでノコノコと顔を出す客人が、ミノリの本名や経歴を知らないこと自体、なんとも滑稽な話だからだ。
どんな思いで、あいつは俺の語る『UTSUGI.M』の話に耳を傾けていたんだろうか。
俺が正面から向き合いさえすれば、ミノリは素直に『UTSUGI.M』であることを打ち明けてくれたんだろうか。
しかしさっきからどうにも、自分の写真に見向きもしないミノリの記憶が俺を翻弄する。
俺の家にむなしく置き去りにされた、ミノリの撮った写真たちが刃先となって、記憶の連鎖を何度だって切り裂こうとする。
強く、強く。
なによりも自分自身が、ミノリの真実を拒みたがっている。
「笹川さんは、俺が知ってるって思ったんですよね?」
「……はい。レンタル彼氏のお客さんだとしても、実さんがスタジオにまで連れてくるなんて初めてのことなんで、仲良いのかなって思い込んで、それで」
本当にすみません。笹川さんが立ち上がり、深々と頭を下げる。
「そんな、やめてください」
慌てて制止の声を上げた。
「俺がちゃんと知ろうとしてなかっただけなので」
首を振る。幾分か気を持ち直したのか、笹川さんは何度も謝りながら、再び腰を下ろした。
「本当に俺、最近まで『レンタル彼氏』としての顔しか知らなかったんです。俺もカメラを仕事にしてた時期があって、ミノリ――実さんもそうなら、仕事ぶりを見てみたいと思って今日ここに来て……だからちょっとびっくりしてます」
笹川さんはなんともいえない顔のまま、一度だけ「そうっすね」と力なくうなずいた。
それから笹川さんの案内で、俺は『第一スタジオ』と書かれた部屋へ足を踏み入れた。
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