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第三章 答えあわせ 5-3
早口で告げると、俺を気遣ってかずっと隣にいてくれた笹川さんが露骨に狼狽えた。
「み、実さんにあいさつしていかないんですか?」
言葉尻を奪う勢いで、再び口を開く。
「見学させてくれて、ありがとうございました」
軽く頭を下げてから、スタジオを飛び出した。俺の名前を呼ぶ笹川さんの声が聞こえたが、振り返ることはなかった。
帰宅する電車の中で、何度かミノリからメッセージが届いた。でもわかっていて、放置した。
ことごとく無視していると、夜になってとうとう痺れを切らしたようにミノリから着信が入った。
深呼吸をしてから、スマホを手に取る。
『……はい』
『よかった、繋がって』
開口一番に聞こえたミノリの声はなんだかいつもに比べて余裕がない。スタジオ内でこだましていた張りのある声とは似ても似つかず、一瞬これは本物のミノリなのか、と疑ってしまいたくなった。
『なんでなにも言わずに今日帰ったの』
おそらく、時間帯的にも仕事終わりなんだろう。スマホの向こう側からは、耳慣れたコンビニの入店音が聞こえてきた。
『ごめん。せっかく見学させてくれたのに。黙って帰って、悪いとは思ってる』
『もしかして体調悪くなった?』
『違う』
『それじゃあ、なんか俺、ハルの気に障るようなことしちゃった?』
違うとすぐには言えなかった。
『あー、そっか』
なにかを悟ったようにミノリが微かに笑う。やっぱり気に障っちゃったかあ。
『こうなる予感、ちょっとしてた。ハルがスタジオに来たいなんて言うからさ』
真面目に取り合う気はないのかもしれない。俺と話したそばから「お願いします」とミノリの他人行儀な声が流れた。
続けてピッ、ピッ、と軽やかな電子音が鼓膜を叩き、レジの前にいるミノリの様子が容易に想像できた。
『おまえだったんだな『UTSUGI.M』って』
『……笹川から聞いた?』
『うん』
『本当にもう……あいつ、悪いやつじゃないんだけどなあ』
『でも俺は笹川さんから聞かなくても、そのうちたどり着いてたと思う。おまえの本名さえ、ちゃんと聞いていればもっと早く』
壁に視線を送る。俺のお気に入りのコーナー。
出会ってから半年も経たないうちに、そこにはミノリの撮った写真がいくつも増えてしまった。
そして何度見ても思うのは『UTSUGI.M』と『ミノリ』はテーマがよく似ているということだ。
――自分が好きと思ったものを撮ればいい。
祖母の教えのままにミノリが撮ったものは、今にも見失ってしまいそうな日常の美しさや幸福をそっと拾い上げる。
俺が憧れた『UTSUGI.M』だってそうだった。
しかし今日一日俺を揺さぶり続けるのは、熱を失ったままスタジオに立つミノリの空虚な光景だ。
『なあ、ミノリ。おまえにとって、写真ってなに』
『なに、って』
『おまえの今の仕事をバカにしたいわけじゃない。でもフォトコンで受賞できる実力があるのに、なんで商業スタジオにいるんだよ』
『どうしたの、いきなり』
『いいから、答えろよ』
互いに黙り、時間だけが過ぎていく。
ようやく鼻で笑うようなミノリの声が聞こえてきたころには、あまりの脈の激しさに胸の上で服をきつく握りしめていた。
『ほんと、ハルって真面目だよ』
目の前の試合を戦わずに投げ出すような、そんな軽薄な言い方だった。
『なんでって言われてもさ。そんなの、生きるために決まってるだろ。ハルは俺を買い被りすぎなんだ』
ありがとうございました、と店員の声が聞こえてくる。立て続けに車のエンジン音が鳴り、ミノリが退店したことを知る。
『生きていくためにはお金が必要で、俺の撮りたい写真なんかじゃ金にならなかった。それだけだよ。この答えで満足した?』
『そんな、言い方……』
『一度はスタジオに勤めてたならわかるよね。毎日毎日、ロボットみたいにシャッター切っていればお金になるんだよ。この業界じゃあ、俺の今のやり方は大切にしてもらえるんだ』
言葉が途切れ、ミノリが深く息を吐くのがわかった。
『皆が皆、ハルみたいに真剣でいられるわけじゃない』
バカにされた、気がした。
ミノリの態度に俺の全てが焼き尽くされて、体温が勢いよく跳ね上がる。
思考が赤黒く染まって、つい悪い癖がむき出しになった。
『……ああ、そうだな』
低く唸るように呟く。
『写真なんかに真剣に入れ込んでる俺は、金稼ぎしたいだけのミノリからすれば、相当滑稽に見えるんだろうな』
噛みつかずにはいられなかった。
スタジオにいたときから密やかに蓄積されていた憤りが口から飛び出して、だけど言った途端、胸がぎしぎしとひどい音を立てる。
ミノリの言うとおり、自分が一番わかっているんだ。
俺にはもう戻るスタジオなんてない。ミノリと同じステージに立つことすらできない、ってそんなことはとっくに。
なのにいつからか認めるのが怖くなっていた。
ミノリが俺の写真を「好き」と言うから。もう一度だけ、写真に命を預けてもいいんじゃないかって。
惨めなほど、諦めきれなくなってしまった。
だったらいっそのこと俺の未来を託そうと思った。
流れ星の残骸のように残る夢や希望を、ことごとくミノリに打ち砕いてほしかった。そんな理想を勝手に押しつけて、そして今、失望している。
『なあ、なんでそんなにおまえはつまらなそうなんだ』
ミノリの歩く振動が雑音となってスピーカーが拾い上げる。時折吹く強い風が、更にその雑音を増幅させてうるさいぐらいだ。
『熱くならないでよ。ただの仕事だって割り切ってるけだけ』
ハルだって、それぐらいわかるでしょ。
俺の気持ちを決めつけにかかる傲慢な物言いに、苛立ちが一段と加速する。こめかみがキリキリと痛むようだった。
『わかってるよ、それでも俺が手に入れたかった場所で、退屈そうにシャッターを切るおまえが許せないんだよ!』
『ハル、落ち着いて』
毛を逆立てた俺を宥める、そんな余裕すら覗かせる態度が腹立たしく、とうとう声を大きく荒げた。
『俺の手が届かないところにいろよ、バカ!』
完全に八つ当たりだった。子どもみたいな理不尽さでミノリを言葉で殴っているだけだ。
ミノリのことが許せない。
でもなにより許せないのは、キャンキャンと吠えることしかできない自分自身だ。
狭いソファーベッドの上から写真を眺めていたあのときから、何も変わらない自分が世界で一番憎くて、情けなくてたまらない。
『もういい、切る』
『待って、切らないで』
ミノリの声がひっ迫する。
救急車のサイレンが、わずかに開けてある窓の外、そしてスマホからもほぼ同じタイミングで聞こえてくる。
『今、ハルの家の近くまで来てる』
『だからなんだっていうんだよ』
次第にサイレンが遠ざかっていく。秋風を取り込み、カーテンがわずかに揺れている。
『ちょっといいアイス買ってきたんだけど、よかったら一緒に食べない?』
困ったようなミノリの上目遣いが脳裏に浮かんだ。
しかし次に息を吸った瞬間には、衝動的に窓に近づき、鍵を閉め終えていた。
『食べない。もう俺に連絡してくるな』
通話を切り、スマホをベッドの上に投げ捨てる。
苛立ちに身を任せ、続けざまに『UTSUGI.M』のポストカードへと手をかけた。
祈りを捧げる相手はもういない。
祈ったところで、こいつは救ってはくれない。
こいつさえ捨てれば、カメラのことも、ミノリのこともさっぱり忘れて生きていけるはずだ。
しかしどれだけ自暴自棄になっても、指はフレームの上で情けないほど震えるばかりで一ミリも動いてくれなかった。
「……捨てられるわけ、ない」
舌打ちをこぼし、投げやりな気持ちのままソファーベッドへ横たわる。
眠りの訪れを待つ。その間にメッセージの受信音が一度聞こえた気がした。
でも聞こえないふりをした。
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