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第三章 答えあわせ 6-2
すっかり気候は秋めいて、朝と夜にはコートがなければ身を震わせるようになった。
散歩をしていた柴犬を飼い主の許可のもとに一枚だけフレームに納め、撮影を切り上げる。
家に着く。しかしあと三十分もすれば、仕事のために再び家を出なければいけない。
せめてさっきまで撮っていたデータをパソコンに取り込んでおきたいのに、その余裕もなさそうだ。
床の上にそびえ立つ、ワイシャツの山から一着を手に取る。ちょっとした皺が寄っていたが、ジャケットを羽織ればわからなくなるだろう。
今日着る分だけを床からかき集めて、身支度を素早く整える。部屋の荒れ具合をどうにかする気力は、今はない。
最後にビジネスリュックを背負うと、ふと壁に貼ったミノリの写真たちが目についた。
捨てられないのだ、どうしても。
胸に鋭い針が立つ。最初はチクチクとした痛みだったのに、近ごろでは疼くような根深い痛みに変わりつつあった。
玄関を出てからもその痛みは、俺について回った。
やるせない。対処法を誤れば痛みはもっとひどくなる。わかっているからこそ意地を張り、メッセージの未読を放置してここまで来てしまった。
もう随分とミノリからの新着はない。
長身、見た目よし。殊勝で献身的で、引き際までいい。俺にいい余韻を残してくれた。
さらには写真の才能を持て余しているときた。
その才能、いらないなら俺にくれよ。
駅に向かう人の波に紛れ、痛む胸を押さえながら鼻で笑った。
この日は珍しく荻野さんが風邪をひいて休みになった。そういうときに限って発注ミスが見つかり、対応に追われるうちに、あっという間に午後になる。
昼休憩も終わりを迎えるころ、珍しくともちゃんから「店に来ないか」と誘いのメッセージが入った。
ともちゃんは滅多に営業をかけてこない。幼なじみだからこその気安さもあるが、社交辞令が通じない距離感はときにともちゃんを遠慮させるらしい。
ともちゃんに叱られてからはしばらく足が遠のいていたが、仕事終わりに俺は久しぶりに『トレモロ』へ立ち寄った。
「いらっしゃいませ」
初めて見る女性スタッフだ。そういえば前に来たとき、人手が足りない、とともちゃんが嘆いていた。
秋の気候のおだやかさは、ブライダルシーズンを呼び寄せる。
『トレモロ』も週末になると完全貸切の予約が続いてるようで、既存の人員ではうまく回らないんだろう。懇意にしている友達の商売がうまくいくのは誇らしく、でも同時にちょっとしたことですら立ち行かなくなる自分がうとましい存在に思えてくる。
「お、春輝。いらっしゃい」
カウンター席について軽くネクタイを緩めていると、ともちゃんが俺のところにわざわざやってきた。平日にしては人の入りが多く、スタッフだってひっきりなしに動き回っている状況だ。
ともちゃんだって忙しくないはずがなかった。
「大丈夫か、俺のとこ来て」
ともちゃんは「平気、平気」とゆるやかに手を振るばかりだ。
「新しい人、雇ったんだな」
「そうそう。先週から入ってくれてる。あともう一人ぐらい入ってくれるとシフトに余裕出るんだけどなあ」
「うれしい悲鳴だな。俺なんかに営業かけなくてもよかっただろ?」
「こら、つれないこと言うんじゃありません。春輝どうしてるかなあ、顔見たいなあって思うぐらい、いいでしょうよ」
「まあ、いいけど」
それで、なに飲む。お酒と言いかけて、慌てて飲み込んだ。そういえば店での飲酒は禁止されているんだった。咄嗟に頭に浮かぶのは、注文し慣れた横文字だ。
「じゃあ、アイスコーヒー」
「え、もう結構寒いぞ、外」
「いいだろ別に。アイスコーヒーのほうがえぐみも少なくて飲みやすいし」
「食べ物は」
「お腹あんまり空いてない」
「はい、ダメです。春輝さあ、あれからちゃんと鏡見てる? 明らかにやつれてるんだよ」
心配性な幼なじみは、なにか頼むまで意地でも注文を通さない気らしい。といっても、近ごろは本当に食欲が湧かない。胃袋に入れることはできても、本能的にあれこれが食べたいと思えなくなっている。
ラミネート加工されたメニュー表の上で目がつるつると滑るばかりだ。しかしすぐ近くを通ったスタッフの運ぶ商品には、やけに強く惹かれる自分がいた。
「じゃあ、あれがいい」
さくらんぼと、ウエハースが乗ったやつ。
俺の視線を追ったともちゃんが、ああ、と相槌を打った。
「アイスクリーム?」
「そう。ちょっと前に、食べ損ねたことがあるから」
「俺の店で? そうだっけ?」
味は、と続けざまに聞かれて考える。ともちゃんが俺の返事を待たずして言葉を重ねた。
「ちなみに、あいつはストロベリー頼んでたよ」
「あいつって?」
「ミノリ」
まさかこの店で、ともちゃんの口から聞くことになるとは思わなかった。
知らずのうちに、手が胸を押さえている。
「ときどき、ここに来るよ。一人で。春輝にも出したピンク色のカクテルと、ストロベリーのアイス食べて、いつも帰っていく」
なんかあったの。そう聞きたそうに、ともちゃんは首をかしげた。
むしろそれを聞くために、今日は呼び出したのかもしれない。
「……あいつ、なんか俺のこと言ってた?」
「別になにも……とは言えないか。ここに来ると『ハルは元気にしてる?』って必ず聞いてくるからさ」
ぎゅっと唇を結んだ。そうでもしないと、大声で叫び出してしまいそうだった。
「ひとまず、元気だと思うって答えてるよ。でもまあ、全然元気じゃないよなあ、春輝くんは」
「そんなことない」
「あのなあ。そういうの、なんて言うか知ってる? から元気、って言うんだぞ」
「うるさいなあ。ストロベリーでもなんでもいいから、アイスコーヒーと一緒に早く持ってこいよ」
「はいはい、わかりましたよ」
ともちゃんが、肩をすくめる。だけどすぐに立ち去ろうとはしなかった。
「俺、あいつはいいやつだと思うよ」
今度こそ本当に、ともちゃんはキッチンへと吸い込まれていく。
カウンターに取り残されると、たちまち店内に流れる甘ったるく愛を歌うスロージャムが、独り身の体にまとわりついてきた。
店内に散らばる酒に酔った恋人たちの距離の近さが、急速に俺を打ちのめす。
そんなの、わかってるんだ。あいつがいいやつだってことぐらい。
だからこそ完璧に憎みきれずに苦しんでいる。
ミノリの持つ全てが羨ましい。
同時に心底、妬ましくもあった。
明るくない感情をいくつも抱え、その後ろめたさに迫害されながら距離を置いたくせに、結局ファインダーを覗いてはミノリの残像を未練がましく探してしまっている。
しかしいくら覗いても、ミノリはそこにはいなかった。
事実を打ち消すようにシャッターを毎日何度だって押してみても、できあがる写真はどれも空虚で、ミノリがいたとき以上のものには出会えない。
満足に撮れない悲しさは、いつしかミノリに会えないさみしさと同調していた。
さみしさは、人恋しさと孤独を一緒に引き寄せる。一人で生きていけるはずだったのに、ミノリに寄せられた好意の波は俺を少しずつ削って、在り方まで変えてしまった。
もう二度としないはずだったんだ。それでも俺はまた愚かなところへと、どうしようもなく転がり落ちている。
馬鹿みたいだと笑うしかない。
俺はミノリに、恋をしている。
「ハル?」
俺をそう呼ぶのは世界に一人だけだった。
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